夫の死後、幼い息子ごと家を追い出された私を拾ってくれたのは、『軍神』と畏れられる将軍でした 〜怖いはずのあの人がうちの子を誰よりも大切にしてくれます~
一
真冬の街の片隅で、わたしは幼いルカをありったけの力で抱きしめていた。
「かあさま……さむいよ」
三つになったばかりの息子が、わたしの胸で小さく震えている。その体は驚くほど冷たかった。
「大丈夫よ、ルカ。かあさまがあたためてあげるからね」
そう言って笑ってみせたけれど、わたしの声も震えていた。
三日前、わたしとルカは夫の家を追い出された。
夫は半年前、戦で命を落とした。名誉の戦死だと伝えられた。優しい人だった。身寄りのないわたしを妻に迎え、ルカが生まれたときには涙を流して喜んでくれた。彼がいてくれれば、それでよかった。
けれど夫が逝った途端、婚家の空気は一変した。
「アイリーン。お前のような後ろ盾もない嫁に、いつまでも居座られては困るのだよ」
義兄のグスタフが冷たく言い放った。彼とその妻は、亡き夫が遺した屋敷と財産を狙っていた。身寄りのないわたしとまだ幼いルカは、彼らにとって邪魔者でしかなかった。
「その子も連れていけ。病弱な子など、この家の跡継ぎにはふさわしくない」
ルカは生まれつき体が弱かった。けれど、それがなんだというのだろう。この子はわたしのたった一人の宝物なのに。
わずかな身の回りのものだけを持たされて、わたしたちは真冬の街へと放り出された。
頼れる者はどこにもいなかった。宿を取るお金も底を尽きかけている。わたしは日雇いの仕事を探して街を歩き回ったけれど、幼子を抱えた女を雇ってくれる場所などなかった。
そして今、わたしたちは凍える路地の片隅で身を寄せ合っている。
(どうしよう。このままでは、ルカが……)
母親のわたしが、この子を守らなければ。それだけを必死に自分へ言い聞かせていた。けれど、もう力が残っていなかった。
薄れゆく意識のなかでも、わたしはルカを抱く腕だけは緩めなかった。
そのとき、とん、と小さな体がわたしの腕から抜け出した。
「ルカ……!?」
見ると、ルカがよたよたと歩き出していた。その先には一人の大きな男が立っていた。
二
その男を見て、周囲の人々はさっと道を空け、怯えたように後ずさった。
見上げるほどの巨躯。黒い軍服。頬に走る古い刀傷。冬の冷気すら凍りつくような鋭い眼光。まとう空気だけで人を圧倒する、その姿。
軍神ジェラルド。
戦場で鬼神と畏れられ、逆らう者を容赦なく屠るその名は、大陸中に轟いていた。彼が歩けば屈強な兵士すら震え上がるという。
そんな男に、幼いルカがまっすぐ手を伸ばしていた。
「おじちゃん」
舌足らずな声でルカが言う。「かあさま、さむいの。たすけて」
わたしは血の気が引いた。あの恐ろしい将軍に、なんということを。慌てて立ち上がろうとしたけれど、体が言うことをきかなかった。
「る、ルカ、だめ……! ごめんなさい、その子はまだ何もわからなくて……」
必死に謝るわたしを、将軍が静かに見下ろした。その鋭い瞳が、震えるわたしと無邪気に手を伸ばすルカを、じっと捉える。
長い沈黙が流れた。
わたしは覚悟した。無礼を働いたと叱責されるか。あるいは、もっと恐ろしいことが起きるか。
けれど将軍は、ゆっくりとその場に膝をついた。そして大きな手を伸ばし、ルカの小さな冷たい手をそっと包み込んだ。
「……坊主。母を助けてほしいのか」
「うん」ルカがこくりと頷く。
将軍はしばらくルカの顔を見つめていた。それから視線をわたしへと移した。
「見たところ、三日はまともに食っていないな」
その声は意外なほど静かだった。「このままでは母子ともに、朝を迎えられん」
彼はすっと立ち上がった。そして纏っていた暖かな外套を脱ぐと、震えるわたしとルカにそっと掛けてくれた。
「腹が減っているのだろう」
ぶっきらぼうな声だったが、その言葉にはたしかな温もりがあった。
「……うちへ来い」
三
将軍の屋敷は質素だが、堅牢な造りだった。
わたしとルカは温かい部屋と、湯気の立つ食事を与えられた。ルカが夢中でスープを飲む姿を見て、わたしは涙が止まらなかった。この子がこんなにも空腹だったなんて。母親として守ってやれなかった自分が情けなくて。
「泣くな。もう大丈夫だ」
将軍のジェラルドが、不器用にそう言った。
彼は多くを語らなかった。けれど、その行動の一つ一つに優しさが滲んでいた。ルカのために柔らかいパンを取り寄せ、体が弱いと聞けば、腕の立つ医者をわざわざ呼んでくれた。
「なぜ、ここまで……」わたしが問うと、ジェラルドは少し目をそらした。
「昔、俺も拾われた身だ。腹を空かせて道端でくたばりかけていたところをな」ぽつりと彼は言った。「あのとき差し伸べられた手が、どれほど温かかったか。……それだけの話だ」
戦場で鬼神と畏れられる男の、意外な過去。わたしはこの人の見た目に隠された本当の姿を、少しずつ知っていった。
そしてジェラルドとルカは、驚くほど仲良くなっていった。
最初はその巨躯と刀傷を少し怖がっていたルカも、すぐに彼へ懐いた。ジェラルドもまた、ルカをまるで自分の子のように可愛がった。
「じぇらるどさま! だっこ!」
ルカが両手を広げると、あの軍神が相好を崩してひょいと抱き上げる。戦場では顔色一つ変えぬ男が、幼子の前ではまるで別人のように優しい顔になった。
肩車をして庭を歩き、たどたどしい言葉に根気よく耳を傾ける。ルカが転んで泣けば、その大きな手でそっと頭を撫でる。剣を持てば大陸中が震えるというその手が、我が子にはこんなにも優しく触れた。
そんな二人を見ているだけで、わたしの胸は温かいものでいっぱいになった。
「……お前は、いい母親だ」
ある夜、眠ったルカを見つめながらジェラルドがぽつりと言った。
「あんな極限で、最後まで子を離さなかった。あの坊主があんなにもまっすぐ育っているのが、その証だ」
「そんな……わたしは、この子を守ってやることもできなくて」
「守ったさ」ジェラルドは静かに、けれど力強く言った。「お前はあの子を生かした。それ以上に大事なことがあるか」
その言葉に、わたしはまた泣いてしまった。誰にも認められず、責められてばかりだった母としてのわたしを、この人はまっすぐに肯定してくれた。
「泣くな」ジェラルドが慌てたように言う。「……お前が泣くと、俺はどうしていいかわからん」
その不器用な優しさに、わたしの心はいつしかこの人へ強く惹かれていた。
四
穏やかな日々が続いていた、ある日のこと。
ジェラルドの屋敷に、突然の来客があった。義兄グスタフと、その妻だった。
わたしを真冬の街に放り出したあの二人が、今は揉み手をせんばかりに、へつらった笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、アイリーン! こんなところにいたのか! 心配していたのだよ!」
白々しい言葉に、わたしは背筋が寒くなった。
「なぜ、ここへ」
「実はな、大事な話があるのだ」グスタフは猫なで声で言った。「亡き弟の遺産を整理していたところ、判明したのだよ。ルカこそが、我が家の正当な跡継ぎであるとな」
わたしははっとした。
亡き夫の家は、代々続く由緒ある家系だった。そして、その家督は直系の男子に受け継がれる定めだった。義兄グスタフには娘しかいない。つまり夫の唯一の息子であるルカこそが、あの家と広大な領地の正当な相続人だったのだ。
義兄夫婦は、それに気づいた途端に手のひらを返したのだ。跡継ぎと、その後見の座を手に入れるために。
「さあ、アイリーン。ルカを連れて屋敷へ戻ろう。あの子は大切な跡継ぎだ。こんなむさ苦しい軍人の家に置いておくわけには……」
「お断りします」
わたしはきっぱりと言った。
「わたしとルカを真冬の街に身一つで放り出したのは、どなたでしたか。病弱な子など跡継ぎにふさわしくないと仰ったのは、あなた方でしょう」
「そ、それは、その、何かの行き違いで……!」
「行き違いなどではありません」わたしは震える声で、けれど母として一歩も引かなかった。「あなた方はルカを、邪魔者として切り捨てた。今さら価値があるとわかった途端に、返せなどと。この子は道具ではありません!」
「な、なんだと、この恩知らずが……!」
グスタフが激昂し、わたしに詰め寄ろうとした、その瞬間。
すっと大きな影が、わたしとルカの前に立ちはだかった。
ジェラルドだった。
五
「それ以上、この母子に近づくな」
ジェラルドの地の底から響くような声に、グスタフがびくりと身を竦ませた。
軍神の凄まじい威圧。戦場で幾多の敵を屠ってきた男の、本物の殺気。それを浴びて、義兄夫婦の顔からみるみる血の気が引いていった。
「ぐ、軍神ジェラルド……!? な、なぜあなたが、ここに……!」
「ここは俺の家だ」ジェラルドは静かに、けれど絶対的な声で言った。「そしてこの母子は、俺が拾った。俺の庇護下にある」
彼は冷たく義兄夫婦を見下ろした。
「話は聞かせてもらった。身寄りのない嫁とまだ三つの子を、真冬の街に放り出しただと。その子が跡継ぎとわかった途端、返せだと。貴様らのような者を、俺は戦場で腐るほど見てきた。弱き者を踏みつけ、都合のいいときだけ利用する。虫唾が走る」
「ち、違う、我々はただ……!」
「弁明は要らん」ジェラルドは切り捨てた。「その家督相続、正式に王家の法務府へ届け出るがいい。ただし後見人は、母であるアイリーンだ。それがこの国の正当な法だ。貴様らが口を挟む余地はない」
グスタフが言葉を失った。
そう。跡継ぎがルカである以上、その後見人は実母であるわたしになる。義兄夫婦が財産を好きにできる道理など、初めからなかったのだ。彼らの目論見は、その時点で完全に崩れ去った。
「そして、もう一つ忠告しておく」
ジェラルドの声がいっそう冷たくなった。「二度と、この母子に近づくな。次にその顔を見せたら、俺が相手をする。戦場と同じやり方で、な」
その一言で、義兄夫婦は完全に震え上がった。転げるように屋敷を逃げ出していく。
後に聞いた話では、義兄夫婦は、身寄りのない未亡人と幼子を真冬に追い出した非道が軍神の口から社交界へ伝わり、すっかり信用を失ったという。跡継ぎを手に入れるどころか、自らの評判を地に落としたのだ。
けれど、それはもう、わたしにはどうでもいいことだった。
「かあさま! じぇらるどさま、かっこよかった!」
騒動が去ったあと、ルカが目を輝かせてジェラルドに飛びついた。ジェラルドは少し照れたように、その頭を大きな手で撫でた。
「アイリーン」
彼はわたしに向き直ると、いつになく真剣な顔で言った。
「一つ、聞いてほしいことがある」
終
その夜。ルカが眠ったあと、ジェラルドは静かに切り出した。
「あの母子を拾ったのは、最初はただの成り行きだった」ぶっきらぼうに彼は言う。「腹を空かせて道端でくたばりかけていた。放っておけなかった。それだけだった」
彼は少し言葉に詰まった。戦場では雄弁に指揮を執る男が、今は幼子のように言葉を探している。
「だが、いつの間にか違っていた。お前がルカのために必死になる姿を見て。ルカが俺にまっすぐ懐いてくるのを見て。この屋敷があの子の笑い声で満ちていくのを感じて」
彼はまっすぐにわたしを見た。頬の刀傷が、ランプの灯りに揺れる。
「俺は生涯、独りで生きるものだと思っていた。鬼神と畏れられるこんな男を家族に迎えたいと思う者など、いるはずがないとな。だが、今は違う」
大きな手がそっとわたしの手を包み込んだ。戦場のすべてを知るその手は、驚くほど優しかった。
「アイリーン。ルカと二人で……いや、三人で。俺と家族になってくれないか」
わたしは胸がいっぱいになった。
夫を失い、婚家を追われ、真冬の街ですべてを失ったと思ったあの日。もう二度と幸せにはなれないと思っていた。
けれど、違ったのだ。
この人は身寄りのないわたしを拾い、母としてのわたしを肯定し、そして誰よりルカを大切にしてくれた。実の父のように、いいえ、それ以上に。
「はい」わたしはこぼれる涙を拭いもせず頷いた。「喜んで。どうか、わたしたちを家族に」
そのとき。
「……じぇらるど、とうさま?」
眠っていたはずのルカが、いつの間にか目を覚まし、寝ぼけ眼でこちらを見ていた。
ジェラルドがはっと息を呑む。それから、これまで見たことのないほどくしゃりと顔を崩して笑った。
「ああ。そうだ、ルカ。今日から俺が、お前の父だ」
ルカがぱっと顔を輝かせて、ジェラルドの胸に飛び込んだ。ジェラルドはその小さな体を、壊れ物のように、けれどしっかりと抱きしめた。大きな手で何度も背を撫でながら。
その光景を見て、わたしはまた泣いてしまった。今度は悲しみの涙ではなく。
真冬の街に放り出されたあの日、わたしは家族を失ったと思った。
けれど本当は、ここで新しい家族に出会うための始まりだったのだ。
血は繋がっていない。それでも、この温もりは本物だった。
軍神と畏れられた不器用で優しいこの人と、無邪気でまっすぐなわたしの宝物と。三人で寄り添うこの場所こそが、わたしたちの本当の家だった。
(了)




