盾の開発者とクズ
天野の自室は、数百のモニターが放つ青白い光に支配されていた。
かつて彼女は、この部屋を「世界で最も安全な場所」だと信じていた。匿名ソフト『Aegis』のソースコードを書き上げた時、彼女は確信していたはずだ。これこそが、剥き出しの悪意から個人を守り、誰もが傷つかずに済む「電子の聖域」なのだと。
だが今、モニターに映し出されているのは、その聖域を踏みにじる「現実の怪物」の姿だった。
「……私のせいなの? 私が、あなたをこんな怪物にしたの?」
かつては自分と同じ「孤独な表現者」であったはずの男が、血の通わない鋼鉄の塊へと変質し、街を蹂躙している。
その時、ソフトのユーザーが訪問してきた。
「……素晴らしい。実に素晴らしいソフトだ、天野くん」
入ってきたのは、複数人の男たちだった。仕立ての良いスーツを纏い、顔には「良識ある指導者」の仮面を貼り付けている。政府の要職にある者や、大手企業の重役たち。彼らはこの未曾有のパニックの中にあって、どこか陶酔したような笑みを浮かべていた。
「見てくれ。君のソフトのおかげで、我が社の不法投棄の証拠は、あの土砂崩れと共に永遠に闇に葬られた。法的には『存在しない』ことになったんだ。感謝するよ」
「……何の話をしているの?」
天野の声は震えていた。彼女が作った「匿名性」という盾は、今や権力者たちが自らの「罪」を隠蔽し、保身を図るための最も卑劣な道具として利用されていた。
「今外で暴れているあの『事故』もそうだ。あれを人間だと認めれば、我々の警備責任が問われる。だが、君のソフトが『警備体制の特定を不可能』にしている以上、あれは永久に『原因不明の自然災害や事故』だ。実に都合がいい」
男たちは、天野を説得しに来たのではない。彼女の知性を、さらなる「隠蔽」のために利用しようとしていた。彼らの瞳には、死んでいった者たちへの哀悼など微塵もない。ただ「自分の椅子が守られればいい」という、泥のような欲望だけが渦巻いている。
「……出て行って」
「おや、冷たいね。君だって、このソフトで莫大な富を得ている共犯者だろう? さあ、次のアップデートを。課金のライセンス料は払う。あの怪物を『いなかったこと』にするための、完璧な情報の壁を作るんだ」
天野は、目の前の男たちの顔を一人ずつ見つめた。
彼らこそが、藤代カイを絶望に突き落とし、自分を「大罪人」に仕立て上げた張本人。AIの普及を隠れ蓑に、人の尊厳を奪い続けてきた「クズ」たちだ。
天野の胸の中で、初めて「後悔」以外の感情が芽生える。それは、冷徹なまでの怒りだった。
「……どうなっても知りませんよ。……あなたたちの望む『完璧な平穏』の結末が。」
彼女はモニターに向き直り、指をキーボードに乗せた。
だが、彼女が呼び出したのは、情報の壁を作るプログラムではない。
【硬度計算AI:アクティブ】
【シミュレーション開始:対象・未知構造体「藤代カイ」】
彼女は、権力者たちの保身のためにではなく、彼らが生み出した「怪物」を自らの手で終わらせるために、禁断の計算を開始した。
背後で笑う男たちは、まだ気づいていない。
彼女がこれから作るのは、彼らを守る盾ではなく、彼らが恐れる「真実」を無理やり引きずり出し、粉砕するための、一発の銃弾であることを。




