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孤高の怪物  作者:
1/12

匿名の盾と偽善者

1話:匿名の盾と偽善者

 その日、世界は灰色のノイズに包まれていた。

 

 アトリエの片隅で、藤代カイは自らの左腕をカッターナイフでなぞっていた。銀色の刃が皮膚を裂き、赤い鮮血が静かに溢れ出す。だが、カイの表情には微塵の苦痛も浮かばない。

 彼は生まれつきの「無痛症」だった。

 

「……もう少し、粘り気が必要か」

 

 カイは血の滴る腕を横目に、キャンバスに向き直る。彼はホラーイラストレーターとして、その異常なまでの「痛みのリアリティ」で注目を集めていた。痛みを知らぬ彼が、自らの肉体を資料として切り刻み、脳内に描く「想像の痛み」を形にする。それが彼の、唯一の世界との接点だった。

 

 しかし、その接点は一通の通知音によって無残に引き裂かれた。

 

『【悲報】藤代カイ、AI生成の証拠を特定。人物の構造が不自然すぎる。盗作or AI生成かw』

 

 画面を埋め尽くす罵詈雑言。

 匿名の群衆は、彼が血を流して描き上げた線を「AIの計算結果」だと断じた。制作工程を動画で上げても、返ってくるのは冷笑だった。

『これ自体がディープフェイクだろ』『AI絵師が必死すぎて草』。

 

 誰一人、画面の向こう側の「藤代カイ」という生身の人間を見ていない。

 女の天才・【天野】が作り上げた「完璧な匿名システム」は、悪意を無敵の盾で包み込み、責任という概念をこの世から消し去っていた。

 

「俺が描いたんだ。俺が……」

 

 カイの呟きは、数万の書き込みの濁流に飲み込まれて消えた。

 契約していた企業からは「コンプライアンス上の懸念」を理由に契約解除の通知が届く。昨日まで称賛していたフォロワーたちは、今や彼を叩くことで正義のヒーローを気取っていた。

 

 肉体に痛みはない。だが、心の奥底が、見たこともない色に染まり、悲鳴を上げているのを感じた。

 

 逃げるように向かった先は、かつて彼が「痛み」のインスピレーションを得るために通った、山あいの廃村だった。だが、そこもまた、不条理の現場と化していた。

 

 振動と迫り来る音。

 

 降り続いた雨が、地盤を揺らしたのではない。匿名性に守られた企業が、秘密裏に不法投棄し続けていた産業廃棄物の山が、重みに耐えかねて崩落したのだ。

 

「……ああ」

 

 土砂と、未知の化学物質を含んだ粘泥が、カイの視界を真っ暗に染め上げる。

 瓦礫が体を砕き、有毒な液体が傷口から侵入する。

 普通なら、即死だった。

 

 だが、彼の「無痛症」というバグが、細胞の死を拒絶した。

 死を感知しない脳が、強制的に修復の指令を出す。化学廃棄物と彼のDNAが、泥の中で不気味な融合を始めた。

 

 数日後。

 

 救出されたカイは、病院のベッドで意識を取り戻した。

「……奇跡的だ。これだけの土砂に埋もれて、外傷一つないなんて」

 医者の言葉は、どこか他人事のように響く。

 

 カイは、病室のテレビを見つめていた。

『不法投棄の疑いがある建設会社ですが、国内ではデータの匿名化が徹底されており、実行犯の特定は困難。事故として処理される方針です』

 

 自分の人生を、作品を、そして肉体を壊した者たちは、今日も「見えない盾」の中に隠れて笑っている。

 

 カイは立ち上がり、病室の鋼鉄製のベッドの柵を掴んだ。

 指先に力を込める。

 

 ミシリ、と嫌な音がした。

 厚さ数センチの鉄パイプが、粘土細工のようにひしゃげ、千切れた。

 

「……なんだこれは。」

 

 彼は自分の手を見つめた。傷一つない。

 彼は確信した。自分はもう、アリが這い回る「この世界」の住人ではない。

 

「自分をここまで追い詰めた人間をぶち殺してやる。俺が今手にした力の前では存在しないのと同じだ。」


 人が知らない間にアリを踏んづけているように、人ならず者となった彼は、人々をアリと認識した。

 

 孤高の怪物が、産声を上げた瞬間だった。


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