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19.かくも重く、長く長く

 デルフィーヌは、少し考え込む。

 皆、その言葉を待った。


「……10年前、ティーヌ様のお母様が後添いに入られたのを期に、私は男爵家に参りました。

 弁護士だった父が急に亡くなって、やむを得ず選んだ道でしたが、夢も、希望も、あの頃は持っていた……」


 あの頃は、と繰り返した細い身体が、不意に大きく揺れる。

 うわあああっと雄叫びに近い声を上げて、デルフィーヌは床の上に泣き崩れた。


 身を捩り、魂を吐き出そうとしているかのような、凄まじい慟哭だった。

 ドンッ、ドンッと、デルフィーヌは幾度も床を拳で叩いていた。

 「なぜ」「どうして私が」と男爵を呪い、みずからを呪う言葉も切れ切れに聞こえる。


 身を焼き尽くすような怒り。

 どす黒い憎悪。

 汚されてしまった悔しさ。

 力でねじ伏せられた恐怖。

 なぜ避けられなかったのかという自責。

 自分は、もう終わったのだという絶望。

 誰にも言えない孤独。

 無力感。


 それらすべてが、居合わせた者達に押し寄せてくる。


 強姦とは魂の殺人だという言い方を、サン・フォンは聞いたことがあった。

 だが、ただ殺されるのではないのだ。

 殺され続けるのだ。

 かつて行われていた車裂きの刑のように、魂はずたずたに引き裂かれ、永劫、苦しみは終わらない。

 

 サン・フォンは、めまいがした。


 この国の刑法では、強姦は傷害よりやや軽い程度の罪。

 しかも、醜聞が立つのを恐れ、実際に訴える者は少ない。

 勇気を振り絞って訴えても、受理すらされないことも普通にある。

 なのに、被害者の苦しみは、かくも重く、長く長く続くのか。


 デルフィーヌを初めて見た時、なにもかも枯れ果てた人形のようだとサン・フォンは感じた。

 そうではない。

 暴発寸前の思いを抑え込むために、デルフィーヌはみずからを隙間なくよろうしかなかったのだ。


「先生!」


「デルフィーヌ先生!」


 クリスティーナと、デルフィーヌに何が起きたのかようやく悟ったクリスティーヌが、両脇から家庭教師を抱きかかえ、泣きじゃくる。


 カタリナも、口元をハンカチで抑え、涙で光る眼で三人をじっと見つめていた。

 その手が、わなないている。

 こんなに感情を揺らされているカタリナの姿を、サン・フォンは初めて見た。


 やがて、デルフィーヌは落ち着きを取り戻した。

 クリスティーナとクリスティーヌが支えてソファに座らせ、水を飲ませる。


「……失礼いたしました。

 淑女たるもの、人前で感情を出してはならないと、お嬢様方にずっと申し上げて参りましたのに」


 涙を拭い、呼吸を整えると、デルフィーヌはわずかに笑った。

 吐き出して、ある意味すっきりしたのだろうか。

 元家庭教師らしい、理知的で平静な顔に戻っている。

 晩餐の前に見た、人形のように硬い表情ではなく、知性のきらめきが感じられる。


 強い人だ、とサン・フォンは思った。

 生き延びるために、強くならなければならなかったのかもしれないが──


「……領都の屋敷で勤めはじめて、2年ほど経った頃でした。

 いつも通り仕事をして、いつも通り寝支度をして、いつも通り戸締まりをして寝床に入って……

 夜中、はっと目が覚めたら、私の身体の上に、……閣下が、閣下がいて。

 ……叫ぶことも、できませんでした」


 デルフィーヌは、眼を伏せて淡々と語る。


「屋敷の主人は、どの扉でも開くことができます。

 私に与えられた部屋の鍵は、私の安全を保証するものでも、なんでもなかったのです。

 扉は外開きで、かんぬきもなく、バリケードを築くこともできません。

 逃げ出そうにも、弟を学校にやるために、私は前借りをしていました。

 借金を返すよう求められたら、家族は立ち行かなくなります」


 小間使や下働きと違い、教養のある家庭教師は平民でも「淑女」として扱われる。

 本来は、小間使などよりも手を出しにくいはずだ。

 前借りという弱みがあったから、男爵はそこにつけこんだのだ。


「『主人を誘惑する、ふしだらな家庭教師』は解雇され、紹介所にも登録できなくなります。

 絶対に、周りに知られてはなりません。

 だから、耐えて。耐えて。耐えて……

 気がついたら、私は眠れなくなり、食事も満足に摂れなくなりました。

 無理に食べようとしても、すぐに戻してしまうのです。

 ……奥様は、きっとなにが起きているのかお気づきだったのでしょう。

 医者を呼び、ご自身に静養が必要だという診断書を書かせると、お嬢様方と私を連れ、この屋敷へと移られたのです」


 ああ、とクリスティーナが声を上げた。


「一度、お義母様かあさまに、どうしてこちらに移ったのかとお訊ねしたら、御病気のことはおっしゃらずに、『領都の屋敷は、あなたたちの教育によくないのよ』と厳しいお顔でおっしゃったのを、覚えています」


 デルフィーヌは、そうでしたね、と頷いた。


「当時の領都の屋敷は、子どもの教育にはまったく不向きな環境でした。

 奥様がヨーゼフさんとはかり、レオン様を早めに隣国の寄宿学校に送られたのは、閣下のような価値観に染まってはならないとお考えだったからだと思います」


 もう言葉が出ない様子のヨーゼフが、幾度も頷いた。


「今にして思えば、『よくないこと』が起きている、色んな兆候がありました。

 でも、私は、見えているものを見ようとしなかった。

 私は、一応は淑女なのだし、美人でもない。

 理屈屋で、女らしい体つきでもないから、男性の関心を惹きつけるはずがない。

 だから自分は大丈夫、そう思い込もうとしていました。

 ……全然、大丈夫ではなかった。

 閣下のような男性にとって、女であればなんでもいいのです。

 一人ひとりの個性も、思いも、彼らには理解する能力が最初からないのでしょう」


 デルフィーヌは、ぞくっとなるような冷笑を浮かべた。

 口にはしなくとも、デルフィーヌが男爵を虫けら以下の存在と見なしているのは、明らかだった。


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― 新着の感想 ―
犯人が多すぎる……。あの超有名なミステリーを思い出しました。 でも、個々の恨みが深すぎる本作は、互いの行動をわかっていなかったのに、むしろ強い一体感が犯人(本当は一人かもしれないけれど)たちの間にある…
男爵……(;´Д`)
ほんっとムカつくよ、男爵。 殺されて当然だわ!! 刑罰が軽いのも酷いが、純潔価値観も意味分からん。 被害者が犯罪を訴えられない社会ブッブー! きっと「モノ」や「技」に自信ないクソ豚らが、己の価値を引…
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