18.蛆虫みたいな外道
「カタリナ様!」
クリスティーナが声を上げた。
「可哀想なヨーゼフを、責めないでください。
ヨーゼフは、できる限りのことをしてくれたのです」
「お嬢様……」
ヨーゼフが、こらえきれずすすり泣く。
カタリナは居心地の悪そうな顔をしながら、マルタンに続きを促した。
「それから、何年も経って……
たまたま、その子と同郷の者と話す機会がありました。
その子は地元で巧くやっていけなくなって、王都に飛び出した。
けど、いいことなんてなんにもなくて、あっという間に落ちぶれて、酒に溺れて最後は狂い死にしたって噂だと」
「ああ……」
サン・フォンは声を漏らした。
わずかな賃金で朝から晩まで働く暮らしに耐えられず、最下級の娼婦に堕ち、酒に依存して生命を落としたということだ。
手に職もなく、コネもなく王都に出てきた若い女性が、そういう結末を迎えることは珍しいことではない。
篤志家が授産施設を作り、できる限り救おうとはしているが、全然追いついていないのだ。
「別に、その子が好きだったとか、そういうわけじゃありません。
ただ……三年ほど前、旦那様に誰かが砒素を盛っているのに気がつきました。
旦那様の爪に、気味の悪い横縞が出ていて、なんなんだろうとこっそり図書室で『百科事典』を調べたら、砒素中毒の項目にそっくりの絵が載っていたので」
サン・フォンは、男爵の爪を思い出した。
くすんだピンク色に塗られていて、珍しいと思ったのだが──
「そういう手があったか、と思いました。
雇い人の立場では、主人の行動を止めることはできない、と思い込んでいましたが……打つ手はあったのだと。
私は、素知らぬ顔で爪に色を塗るよう旦那様に勧め、顔色の悪さをごまかすために、タルカムパウダーをこまめにはたくことも勧めました。
砒素を盛っていたのがオーバンだとは、思っていませんでしたが」
マルタンは苦笑する。
この言い方、ヨーゼフが砒素を盛っていると疑ってたのかもしれない。
「はっきり、殺すつもりがあったかといえば、そうでもありません。
ただ、体調が悪くなっていけば、無体なこともできなくなっていくはず。
実際、旦那様には、そういう能力はだいぶ前からなくなっていたと思います。
なのに、まさか公爵家のご令嬢の部屋に押し入るつもりだったとは」
呆れたように、マルタンは首を横に振った。
「なるほどね。
でも、ことが成ろうが成るまいが、令嬢って『不適切な状況』になったってだけで社会的に殺されてしまうのよ。
わたくしの名を汚し、男爵と結婚するしかないようにすれば、否が応でも、わたくしとわたくしの持参金が手に入る。
どうせそんな浅ましい算段で、襲いやすい部屋に移動させ、鎮静剤を盛ろうとしたんでしょ。
実行するかどうかは別として、そんな算段をしてるのが透けて見える蛆虫みたいな外道、どこに行っても掃いて捨てるくらいいるわ」
カタリナは、自嘲まじりに半笑いした。
サン・ラザール公爵家は、鉱山事業で財を成し、公爵まで上り詰めた家。
建国当初からの古い貴族の間では、しょせん成り上がり貴族だと内々では軽視する者もいる。
公爵家の怖さを十分理解しておらず、若い娘の一人くらい、どうにでもなると舐めている者もいるということか。
サン・フォンにとって、カタリナは次になにをやらかすかわからない暴風のような存在。
斜め上な行動に呆れることはあっても、真剣に心配したことはなかったが、今後はその身辺に、注意を向けようとサン・フォンは思った。
気がつくと、沈黙が、あたりを支配していた。
クリスティーナとクリスティーヌは、間にデルフィーヌを挟んで三人でソファに座り、身を固くしている。
分析を終えたヘクターは、クリスティーナのすぐ後ろに立ち、彼女の肩に軽く手を触れている。
ヨーゼフは疲れた顔を伏せ、マルタンはいかにも従僕らしく、表情を消している。
壁にもたれたオーバンは、超然とすすげた天井を見上げている。
イアンだけが、露骨にきょときょとあたりを見回していた。
4種の毒のうち、自分が盛ったという申し出がいまだないのは、チョコレートに仕込まれていた青酸カリだけ。
誰が盛ったのだろう、とサン・フォンは皆を一瞥して、カタリナが長いまつ毛を伏せて、なにかを待っているのに気づいた。
カタリナは、誰が青酸カリを盛ったのか、知っている。
一体、誰なのだろう。
毒を盛ったと告げた者が、実は青酸カリも盛っていて、青酸カリの方は黙っているということもありえなくはないが──
サン・フォンの視界の端で、デルフィーヌが、動いた。
クリスティーナが引き留めようとするが、デルフィーヌは彼女の腕をするりと抜けて、立ち上がる。
デルフィーヌは、ぎこちない笑みを強いて浮かべると皆を見渡した。
まさか、とヨーゼフが上ずった声で呟く。
「チョコレートに、青酸カリを注射器で入れたのは、……私です。
閣下が召し上がるチョコレートが足りない、どこかで調達してほしいとヨーゼフさんに相談された時は、復讐の女神ネーメの恩寵としか思えませんでした」
デルフィーヌは、朗々と語った。
視線は斜め上に向けられ、皆を見てはいない。
まるで託宣を告げる巫女のようだ。
サン・フォンは直感した。
このガリガリに痩せた家庭教師は、男爵の犠牲者だったのだ。
「なぜ、私がそうしたのか、申し上げなければなりませんでしょうか?」
デルフィーヌは、視線をすいとサン・フォンに移して問うた。
「い。いえ。これは正式な取り調べでも、なんでもないので……」
冷や汗が滲んでくる。
「そうですか。
……そうなんですね」
むしろ残念そうに、デルフィーヌは呟いた。
一人だけ、どうして家庭教師が義父に毒を盛ったのか、わかっていない顔のクリスティーヌが、その様子を見上げて戸惑っている。
「……別に、言いたくなければ、言わなくても構わないけれど。
言ってしまいたいのなら、言ってしまえばいいんじゃないかしら。
これだけ腹の中を晒しあっているんだもの。
あとあと、あなたの不利になるようなことをする馬鹿はいないでしょう」
カタリナは静かな声で勧めてから、イアンに「変なことしたら、しばくわよ」と言わんばかりの視線をきっと向けた。
なんでこっち見るんだよ、とイアンが小声でぼやく。




