12.いやいやいや、違わない!
「男爵のまわりにしても、お嬢様のお召し物にしても、血の飛び散りようが、あまりに少のうございます。
レディ・クリスティーヌが渾身の一撃を下されたのは、男爵の絶命後ではないでしょうか。
ほら。ぱっと見ではわかりませんが、首にクラバットが食い込んでおりますし」
アドバンは、男爵の緩んだカラーをめくり、たるんたるんの首のあたりの肉をさっきの鉗子で持ち上げて示す。
アドバンの言う通り、強く引っ張られて紐のようになった白銀のクラバットが肉に食い込み、うなじのあたりで一重結びになっている。
「たし、かに……
男爵は絞殺されたのか」
「そ、そんな……!」
ふらふらっとよろめいたクリスティーヌは倒れてしまい、またまた一同、てんやわんやする破目になった。
一応落ち着いたところで、とりあえずサン・フォンは、アドバンやマルタンと一緒に邪魔なシャンデリアを持ち上げて、部屋の片隅に立てかけた。
遺体を動かすのは、現況を確認してからということにする。
まず、サン・フォンは、クリスティーナとクリスティーヌ、デルフィーヌの動きを聞き出した。
殺人事件の捜査経験などないが、憲兵は憲兵。
経験があろうがなかろうが、自分が初動捜査に当たるしかない。
晩餐ではクリスティーナが正餐室に降り、デルフィーヌもクリスティーヌの欠席を伝えに降りたが、それ以外はクリスティーヌの様子を見つつ、二階の裏手にある部屋で静かに過ごしていたという。
この三人、もともと侍女の宿直用の小部屋がついた続き部屋で一緒に生活している。
クリスティーナは晩餐から戻って来た時に、寝込んでしまったクリスティーヌの様子を少し見て、間のドアを開けたまま、自分の部屋でデルフィーヌと今後の相談をしていたそうだ。
で、クリスティーヌはそっと部屋を抜け出し、サロンの壁に飾られていた短刀を持ち出し、書斎に入った。
男爵は、扉に背を向けて眠り込んでいた。
絶好の好機ではあったが、どうしても人に刃を向けることができず、ふと目に止まった火かき棒で、殴りつけたという。
で、その頃。
クリスティーヌが部屋から消えているのに気づいたクリスティーナとデルフィーヌは、手分けして探していた。
クリスティーナは、頭を割られた父の遺体と、火かき棒を握ったまま、半分失神しているクリスティーヌを書斎で発見。
焦ったクリスティーナは、風魔法でシャンデリアの鎖を切って、どうにか事故に見せかけようとしたが、落下音が館を揺るがし、皆が書斎に集まってくる。
焦りに焦ったクリスティーナは、開けっ放しだった本棚の扉の裏にクリスティーヌを隠し、どうにか誤魔化そうとして、カタリナに秒で暴かれる破目になってしまったのだ。
ちなみに、本棚の裏にあんな隠し部屋があることは、姉妹も執事達雇い人も皆知らなかったそうだ。
ついでに、サン・フォンは時間を記録した。
晩餐が始まったのが7時前で、終わったのが、確か8時半過ぎ。
呼ばれてカタリナの部屋に行ったのが9時半過ぎで、シャンデリアが落ちた音を聞いたのが、10時前。
カタリナやクリスティーナに確認すると、そんなところだろうと頷いた。
なにはともあれ、女性陣は男爵絞殺に関与していなさそうだ。
絞殺されたとすれば、クリスティーヌが書斎に着く前のこと。
階下に降りる前、クリスティーナとデルフィーヌが隣室で相談しているのを、クリスティーヌは聞いている。
ということは、クリスティーナとデルフィーヌに、先回りして男爵を絞殺する機会はない。
実はクリスティーヌが絞殺しておいて、さらに火かき棒で殴り、自分は殴りはしたが絞殺はしていないと主張することもありえなくもないが、無駄に複雑すぎるし、意味がない。
短い会話でもよくわかったが、クリスティーヌは直情径行。
それに、事故に見せかけるなり、毒でも盛るなり、自分が疑われにくい殺し方はいくらでもあるのだ。
ということは、令嬢二人と元家庭教師は暫定シロ。
なーんとなく、扉口から入ったあたりでバラバラに立ったままの執事・秘書・従僕・料理人の男性陣に視線が向かった。
彼らも、互いに相手の顔色を伺いあい、微妙に距離を取ったりしている。
引き続き、彼らの晩餐後の動きを聞いてみるが、どうもはかばかしくなかった。
秘書のイアンは、厨房の隣にある雇い人用の食堂で賄いを食べた後は、1階にある自室にこもっていた。
執事のヨーゼフは、晩餐の皿を下げた後は、これも1階にある自室で休んでいた。
従僕のマルタンは、2階にある男爵の寝室を整えた後、1階の自室で待機。
料理人は、下働きと一緒に皿を洗い、朝食と昼食の仕込みをしていたので、唯一アリバイがある。
ちょうど、仕事が終わって部屋に戻ろうというところで、落下音を耳にしたそうだ。
そして、男爵の姿を最後に見かけたのは、どうやら執事。
自室に戻る時、書斎の方に歩いていく後ろ姿を見たという。
どうも、晩餐後、男爵は書斎にこもっていたようだ。
男爵が書斎にいることを知っていたという意味で、不利なのはヨーゼフだが、痩せた、小柄な老執事が、自分の倍近く体重がありそうな男爵をやすやすと絞め殺せたとも思えない。
サン・フォンの事情聴取もどきを流し聞きしていたカタリナは、男爵の遺体に近寄って、首のあたりをしげしげと眺めた。
「あら? 普通、首を締められたら締めつけてくるものを取ろうと、首を引っ掻いたりするものではなくて?
そんな傷、全然ないじゃない」
確かに、ぶよぶよの首元に、傷は見当たらない。
昏睡状態だったら無抵抗のまま絞殺されることもありえるが、机で寝ていた程度だったら覚醒して抵抗するだろう。
「レディ・カタリナ。なんでそんなことを知ってるんですか?」
「会う度に、ノアルスイユが推理小説をあれこれ勧めてくるのよ。
たまには読まないと悪いじゃない」
小説の知識でいっちょ噛みされても……と思ったが、間違っているわけではない。
サン・フォンは、遺体のまぶたをめくって、気味の悪さをこらえながら、どろりと淀んだような眼球周辺の粘膜を観察した。
「溢血点がないな。
絞殺体には、普通出るんですが」
溢血点とは、眼のまわりの粘膜などで毛細血管が破れた跡で、窒息死によく見られる兆候だ。
「ということは?」
「絞殺でもない、ということですね」
アドバンが重々しく補足した瞬間、「へ?」と誰かが間抜けな声を上げた。
秘書のイアンだ。
一斉に、イアンに視線が集まる。
「あ。え……い、いや、違う!?
いやいやいや、違わないってことでもいいのか?」
動揺したイアンは、大きく両手を振って否定しようとしたが、本人も大混乱。
胡乱なことを口走ったあげく、いきなり背を向けて逃げ出そうところに、料理人がさっと足を出して、盛大に転んだ。
「待て!」
イアンが起き上がる前に、サン・フォンは床に組み伏せる。
ゼルダが、あっという間にイアンの両手首を後ろ手に細引でくくると、床に転がした。




