10.美しい嘘は、淑女のたしなみ
カタリナは先陣を切って、書斎に踏み込んだ。
恐れ気もなく、ぴくりとも動かない男爵に近づいてしばし観察し、顔を上げる。
「亡くなっているようね」
慌ててサン・フォンは駆け込んで、男爵の顎の下を抑え、脈がないことを確認した。
カタリナは、勝手にシャンデリアをしげしげと観察している。
念の為、サン・フォンは男爵の口元に手をやってみるが、呼吸もない。
というか、間近で見ると、頭蓋骨はがっつり割れていて、幅2m近い大きな執務机の上に飛び散っているのは──血だけではない。
救命措置は、どう見ても無駄だ。
頭頂部から、右のうなじの脇まで続く傷は真っすぐで長い。
重みのある棒状のもので、頭蓋骨が叩き割られたように見える。
シャンデリアは、大きい輪と小さい輪を同心円状に2つ重ね、十字に支えを入れた鋳鉄製のもの。
見るからに重そうで、サン・フォンでも一人で持ち上げるのは厳しそうだ。
クリスタルガラスなどの飾りはなく、ろうそくを立てる皿だけがたくさんついているだけ。
長年、掃除もしていないのか、上側は真っ白なほこりがつもっている。
書斎にシャンデリアというのは珍しいが、昔はこの部屋を儀式を行う場として使っていたのかもしれない。
そして、男爵が突っ伏している執務机は、やたらとっちらかっていた。
机の上は、書類や読みさしの新聞が投げ出されていて、潰れたトリュフチョコレートが書類の間に転がっている。
あけっ放しの引き出しの中には、蓋を開けたままのウイスキーボトルと菓子入れも見えた。
どこかにグラスもありそうなものだと思って探したら、執務机の影に、グラスが一つ、転がっている。
絨毯が分厚いおかげで、割れなかったようだ。
中ほどが少しすぼまったデザインだったおかげで、ウイスキーも底に少し残っている。
サン・フォンは、グラスを拾い上げ、チョコレートの脇に置いておいた。
男爵の服装は、さきほど晩餐で着ていたものと同じ。
寝支度をする前に書斎に来て、ついでにチョコを肴にウイスキーを楽しもうとしたところで、シャンデリアが落下してきたのだろうか。
しかし、なにかがおかしい。
なんだろう、この違和感は。
「クリスティーナ。手を」
カタリナは、クリスティーナにすっと近づくと、両手を差し出した。
クリスティーナは、魅入られたように両手をカタリナに預ける。
カタリナはそのまま手を上げ、左右に開いて、じろじろとクリスティーナの顔や髪、ガウンや襟元を見た。
「返り血は、ついていないようね。
なにが起きたの?」
手を離すと、カタリナは呆気にとられているクリスティーナに訊ねる。
「わ、私のことを、疑っていらっしゃるんですか!?
私は、父に寝る前の挨拶をしようと思って、書斎に来ただけです」
めちゃくちゃに視線を泳がせながら、クリスティーナは答える。
「晩餐の時は一言も交わさなかったお父様に、わざわざおやすみを言いに?
ま、いいわ。続けて」
クリスティーナの力ない抗議をスルーして、カタリナは促した。
「……父は、眠りこんでいるようでした。
でも、なにか変な音がすると見上げたら、古いシャンデリアが揺れていて。
逃げてと叫んだのですけど、ま、間に合わなくて……」
「なるほど。
アドバン。遺体と周辺の精査を」
「は」
一揖すると、アドバンは胸ポケットから大きめの手帳ほどの大きさのケースを取り出しながら、遺体に近づいた。
ケースから、片方に小さな鏡がついた鉗子を取り出すと、片眼鏡を嵌め、傷を広げるようにしながら観察しはじめる。
ベテラン検視官のような動きに、サン・フォンは思わず一歩引いて場所を空けてしまった。
「クリスティーナ。美しい嘘は、淑女のたしなみよ。
けれど、見え見えの嘘はいただけないわ」
「え」
カタリナはにっと笑って、クリスティーナの右腕を掴んだ。
「おやすみを言いに来たら、お父様は執務机で眠っていて、その真上でシャンデリアがぐらぐらしていた。
そんな状況に出くわした娘の反応って、扉口で悲鳴を上げる、失神する、外に助けを呼ぶ、あたりかしら。
なぜわざわざ、部屋の奥に行くの?
だいたい、シャンデリアは男爵の頭には当たっていないのよ」
「あ」
サン・フォンは、ようやく違和感の理由に気づいた。
シャンデリアの外側の輪が、男爵の右肩に当たっているが、頭にはなにも当たっていない。
傷は、丸見えなのだ。
「そ、それは……シャンデリアは、父の上に落ちて一度跳ね返って……」
真っ青になりながら、クリスティーナは抗弁する。
「アドバン」
カタリナは、執事の名を呼んだ。
「シャンデリアの裏側には、血はついていません」
アドバンが即答する。
サン・フォンも、シャンデリアの裏側を覗き込んでみた。
確かに、血はついていないようだ。
念の為、ハンカチを出して、男爵の頭に近いあたりの支えの裏側をぬぐってみたが、ホコリの筋しかつかない。
「男爵の傷、ちょうど火かき棒で殴ったような傷よね。
そして、暖炉のそばに火かき棒はない」
は、と全員が暖炉の脇を見た。
用具をかけておくフックには、暖炉の手入れをするための道具が一通りかかっているのに、火かき棒だけがない。
「誰かが男爵を火かき棒で殴り、殺してしまった。
でも、クリスティーナ、あなたには返り血がついていない。
別の者が男爵を殺し、あなたは犯人をかばおうとしているんじゃないの?
シャンデリアを吊っていた鎖はサビだらけなのに、断面は銀色に輝いている。
事故死に見せかけようと、風魔法で斬った、というあたりかしら」
アドバンが、懐から小さな望遠鏡のようなものを出して、天井を確認した。
「天井、何筋か、特徴的な傷がついていますね。
鎌鼬でしょう」
いきなり、カタリナはクリスティーナの腕を引っ張り、本棚の前から引っ剥がした。
短い悲鳴を上げたクリスティーナは、勢い余って床に投げ出される。
「こういう古い館って、よく脱出路が仕込まれているのよ」
カタリナは、クリスティーナが背にしていた本棚を蹴り、二三度蹴っても動かないと見ると、棚を掴んで、手前にぐいっと引っ張った。
ぐりん、と本棚は回転し、本来は壁があるべきところに、人がどうにか入れるくらいの空間が現れる。
「やっぱり。
やっとお話できそうね。花嫁さん」
本棚の向こうの暗がりに、若い女がへたりと床に座り込んでいる。
女は、自分の身体を支えるように、血まみれの火かき棒をかかえ込んでいた。




