プロローグ 4
商店通りにはすでに別の場所から数体の蛇頭が入り込んでいた。
つい先ほど通ってきた道には何人もの死体が転がり、蛇頭や他の球獣がその牙を突き立てている。
通りを歩いていた人、店を営業していた人々はただ逃げまどうことしかできず、どこに向かっているのかもわからないまま周囲を走り回っていた。
「な、何で球獣が!? 守備団は何をやってるんだ?」
クロドの横を通り過ぎた飲み屋の店員が、血相を変えてそう叫ぶ。外に出て初めて事態を理解したようで、エプロンをつけたまま手には油の滴るフライパンを握りしめていた。
「うっ」
逃げまどう人に突き飛ばされ尻が地面に付く。だがすぐに立ち上がり顔を上げた。一刻でも早く安全な場所に逃げなければ間違いなく殺されてしまう。
球獣たちは群れを割る様に村人たちの間を進み、集団から飛び出した人間を好んで襲った。それを見たクロドは必死になって人垣の中に飛び込み、なるべく姿勢を低くして村の北側を目指した。
絶え間なく目と鼻の先の距離から悲鳴が上がり、誰かの血と肉が飛び散る。もう何人の村人が死んでしまったのだろうか。
震える足を必死に前に押し出し、自分の家を目指した。
いつもなら走れば数十秒で通り抜けられる道のはずなのに、一向に前に進めている気がしない。あちらこちらから襲い掛かってくる球獣を避けるため、逃げまどう人々に突き飛ばされないために、思うように足が進まなかった。
複数の球獣に突撃されたのだろう。左方向の家屋が半壊し、瓦礫が周囲に飛び散った。その残骸の中からひと際大型の球獣が姿を見せ、目の前にいたクロドたちの集団に両腕を振り回す。それによって二人の女性がどこかへ吹き飛び、一人の男性が頭を叩き潰された。
もはや思考をしている暇もない。
人間の身長を三倍にし、毛むくじゃらにしたようなその球獣の視線がこちらに移動してきたため、クロドは慌てて逆方向の建物の中に飛び込んだ。心臓がばくばくと波打ち、激しさで胸が爆発しそうだった。
「クロドくん!」
棚に背を預け自分の胸を押さえつけたとき、隣から声が聞こえた。目だけを動かして確認すると、顔を青くしたミゼさんが同じように棚の裏に隠れていた。
そうか。ここは……ミゼさんの店か。
まとまらない思考でそれだけを理解する。ミゼさんは心配そうにこちらを見ると、外の様子を確認しながら駆け寄ってきた。
「大丈夫? ほら、しっかりして。立たないと。――このままここに居たら殺されてしまう。早く逃げよう」
「逃げるってどこに? もう村中にあいつらが入り混んでいるのに」
「例の製薬商会だよ。あそこの施設なら頑丈そうだし、しばらくは持つかも。それにこんな状況になればあいつらだって四の五言ってられないでしょう。あいつらの持っている地走機なら大勢を乗せて村から脱出できる」
「でも、父さんと母さんが……」
クロドはミゼの褐色の顔を見上げながら泣きべそをかいた。
「あんたの父さんは守備団でしょ。ちょっとやそっとじゃ簡単にやられないって。お母さんは途中で拾っていけばいい。どうせ通り道だし。もしかしたら、同じように考えて避難しているかもよ?」
ミゼさんはこちらに近づこうとしたが、タイミングが悪いことに、一体の蛇頭が店の前に歩み寄ってきた。それを見たクロドはミゼさんと目を見合わせ、お互い逆方向に身を翻す。ミゼさんは泣きべそをかいているクロドを見返すと、小さな笑みを浮かべて裏口を指さした。戸惑うクロドをよそに、落ちていたガラス瓶を持ち上げ、それを外に向かって投げつける。耳障りな散乱音が鳴り響き、砕け散るガラス。入り口から中に入ろうとしていた蛇頭は、その音に気を取られ外に首を振り返らせた。
――今だと、ミゼさんが目で合図を送る。クロドは歯を食いしばり会計台を回って裏口の前に滑り込んだ。扉を開けながら確認すると、ミゼさんは蛇頭の首が元に戻ったため、同じ場所から逃げ出せないようだった。
このままではミゼさんが蛇頭に喰われてしまう。
自分一人なら逃げられる。外に出れるが――……。
わざわざ助けてくれた彼女のことを、見捨てることなんて出来なかった。
せめてもう一度蛇頭が外に注意を向ければと、クロドは棚の上に置いてあった瓶を手に取り、ミゼさんとは逆方向に向かって投げつけようとした。しかし、焦りと緊張のせいで上手く腕を動かすことが出来ず、瓶は自分の目と鼻の先に落下し、盛大な物音を弾かせた。
「あっ……」
ミゼさんのいる場所へ近づこうとしていた蛇頭は、瞬時に首を回しこちらに鋭い緑色の目を向けた。いくつもの気泡が破裂したような身の毛もよだつ恐ろしい鳴き声がそこから響く。
クロドはとっさに裏口から飛び出し、一目散に林の中を走った。
運がいいことにこの近辺は日頃よく遊んでいる場所だ。走りやすい道も隠れやすい場所もよく把握している。
雑草だらけの茂みに入り込むと、クロドは足元にあった泥を体に塗りつけた。そうすることで臭いをごまかし、逃げやすくなることもあると、前に授業で習っていたからだ。
ミゼさんの店から追ってきた蛇頭はしばらくクロドの隠れている茂みの近くをうろうろしていたが、別の村人の悲鳴に気を取られそっちへと向かっていった。思わずほっと胸を撫でおろす。
――ミゼさんは上手く逃げれたのかな。
店に戻ろうかとも思ったのだが、入り込んでいた蛇頭がいなくなった今、あのままあそこに残っているとは考えにくい。これほど球獣が入り込んでいるのだ。彼女を探している間に母が殺されてしまってはもともこうもない。クロドはミゼの身を案じつつも、家に帰ることを優先することにした。
幸か不幸か、入り込んだ球獣の多くは商店通りの人々に注意を削がれている。林の中をつっきたクロドは、球獣と遭遇することなく通りのはずれにある坂の前に到着した。
荒い呼吸を繰り返しながら膝に手を突き、顔を上げる。頭の中に浮かぶのは、母と父の顔だけだった。
ここを上がれば、家に……!
助けてくれと、嫌だと、無数の悲鳴が背中の向こう側から響き、木霊している。声から逃げるように、クロドは必死に足に力を込めた。
いつもはだらだらと二分はかけて上り下りしている坂を四十秒ほどで登りきり、坂の上の団地へと駆けこむ。
高度があるせいか、近辺にはまだ球獣の姿がない。だが、事態を知って逃げたのだろう。住民の姿は人っこ一人見られなかった。
――きっと製薬商会のところへいったんだ。
ミゼさんの言葉を思い出し、そう願うように決めつける。一度だけ振り返り階下を見下ろすと、先ほどまでクロドがいた商店通りには恐ろしいほどの球獣が入り込み、あちらこちらから火の手が上がっていた。
そんな、これじゃあこの村はもう――……!
ここまで球獣に入り込まれたら逃げ場など存在しない。もし救援要請が届いたとしても助けは間に合わないだろう。
騒ぎを聞きつけて詰所から出てきたのだろうか。数人の守備団が、球獣に向かっていく姿が見えた。彼らのうち一人が持っていた重火器が火を噴き、数体の蛇頭が燃え上がる。前に父から聞いたことがあるが、あれがこの村に三丁しかない魔法銃なのだろうか。
守備団の面々は雄たけびを上げて蛇頭に向かっていったが、前に注意を向けすぎたせいで、真横から現れた毛むくじゃらの球獣にあっさりと吹き飛ばされた。彼らはすぐに立ち上がり逃げようとしたが、そこに周囲に散会していた蛇頭が飛びかかり次々にやられていく。守備団は複数人で一体の球獣をとり囲み、安全に倒すことが主な戦法なのだ。数の利が逆になれば、こうなることは明白だった。
クロドは拳を握りしめ、その惨劇から目を逸らした。すると坂の下にやってきた球獣たちの姿が目に入る。
……ここも時間がない。
目元を拭い、慌てて走り出す。家々の合間を抜け自分の家に飛び込むと、すでに母の姿はなく家はもぬけの空だった。
まさか自分を探しに下に降りたのではとぞっとし、家から飛び出したのだが、そこでばったりと父のディランと鉢合わせた。
「クロド……! よかった無事だったか」
「父さん、母さん、母さんは……!」
「大丈夫だ。お前を探しにいくとごねていたが、俺が代わりに行くからと納得させて避難させた。製薬商会の施設の前だ。この近辺の住民はみんなあそこに集まっている」
「製薬商会の前?」
父もミゼさんと同じように考えたのだろうか。その言葉で、クロドは彼女のことを思い出した。
「まだ下に人がいるんだ。みんな襲われて……」
「駄目だ。この状況で下の人間を助けようとすれば全滅するだけだ。今は早く安全な場所を確保しないと」
父は有無を言わさぬ迫力でクロドの手を引くと、早歩きで通りを歩き出した。こちらの意見など、一切聞く気はないようだった。
製薬商会の施設の前は、逃げ伸びた人で溢れかえっていた。
無数の村人たちが怒号を上げ、施設に向かって何かを叫んでいる。
「あいつら、まだごたごたやってるのか。畜生。あまり時間がないってのに」
父はよくわからない文句を言いながら人垣を切り分け、そくさくと奥へ進んでいった。かなり先頭集団に近い場所で母の姿を発見し、クロドはほっと胸を撫でおろす。
「母さん!」
「クロド、ああ良かった……!」
母は強くクロドを抱きしめ、その頭を撫でた。
「レイディア。クロドを頼む。俺は守備団の中に戻らないと」
「そうだね。わかった。すぐ近くにいるから」
心配そうに父を見上げつつ頷く母。何事かと思い顔を上げると、施設の門の前には十人以上の守備団員が集まり、何やら製薬商会の警備兵と揉めている様子だった。
母から離れたクロドはすぐ近くにドリクの姿を見つけ、彼に話しかけた。
「ドリク!」
「おう!? クロド! よかった。お前も無事だったか」
クロドの姿を見たドリクは心底嬉しそうにそう声を上げた。
「ドリク、守備団員は何をしてるんだ?」
「ああ。あいつら、球獣たちが攻めてくるなりすぐにここへ来たらしい。相手の数が多すぎるのを見て、下で戦うよりここにみんなを逃げ込ませる方がいいって考えたんだってさ。でも、製薬商会の連中がそれを拒んで入れてくれねえんだよ」
「そんな、下のみんなを見捨てるなんて……!」
「しょうがねえだろう。守備団は全部で二十人弱しかいねえんだぜ。装備だって大したことはねえ。もし助けに行けば、全滅するだけだ。こっちのほうが多くの村人を助けられる」
誰かにそう諭されたのだろうか。ドリクは自慢げに鼻を鳴らした。
「おい、あれ魔法銃だぞ! 下がれ」
前方の人垣に居た男が声を上げる。クロドたちが目を向けると、守備団員の一人が大型の銃器を取り出していた。
岩場に囲まれたこの場所で、必死に逃げ場を探し後ろへ下がる村人たち。背後からいつ球獣が襲い掛かってきてもおかしくはない状況なのだ。何人かは心配そうに住宅地のほうに目をちらちらと向けていた。
「放て!」
前に自分を叱責する父を止めた男。彼が守備団長なのだろう。その掛け声とともに、銃器の先端から一発の銃弾が放たれる。それは強固な製薬商会の門に触れた瞬間、周囲の空気を根こそぎ吸い込み収縮し、そして爆発した。
飛び散る破片に巻き上がる土煙。一瞬にして辺り一面を白砂が覆いつくす。
最前列に集まっていた村人たちは衝撃に倒れ込み、後方に詰まっていた残りの村人たちも、その轟音に耳と口を塞いだ。
だが、静寂が訪れていたのは一瞬だけだった。先ほどまで自分たちの行く先を塞いでいた門が粉々に拭き取んでいるのを視認すると、村人たちはいっせいに施設の中に向かって流れ込んだ。排水溝に飲まれる蟻のようにその後頭部が前へ進んでいく。
「俺たちも行こうぜ、クロド」
こちらを見て彼らに続くドリク。母のほうを見上げると、彼女はクロドの手を強く握りしめた。
「離さないで。何が起きるかわからないんだから」
「うん。わかってる」
波に任せ割れた門を通り過ぎようしたところで、横に立っていた守備団隊長が声を上げた。
「来たぞ、球獣だ。村人たちを守れ!」
すぐに先ほどの魔法銃が火を噴き、岩場の影から現れた一体の蛇頭を吹き飛ばす。守備団員たちの間からは歓声が上がったが、続けて現れた三体の蛇頭を見てみな顔色を変えた。
彼らが門の前を守っていられる時間は少ない。襲い掛かってくる球獣が多くなれば、あの魔法銃でも対処しきれなくなる。
ここまで球獣が来たということは、下の村はほぼ全滅状態だろう。巻き上がった白砂のせいで外の守備団員の中に父の姿を見つけることはできなかった。だが生きているならばきっとこの中にいる。彼のためにもなるべく早く安全な場所に逃げ込まなければと思った。
爆音と悲鳴、雄たけびを背に、クロドは施設の中へと踏み込んだ。どことなく得体の知れない空気の漂う、製薬商会の敷地の中へと。