第三章 ヌルの眼と泉 5
ようやく、赤錆びの臭いが薄くなってきた。
もう間もなくダリアの外だとクロドは直観する。
日はすでに夕刻へと近づき、周囲にあやふやな暗闇が広がりつつある。夜にさえなれば、アラウンの兵士たちに捕捉される危険も少なくなるだろう。
「道が広くなってきたね」
クロドの背に捕まりながら、ルイナがほっとしたように呟いた。
「そうだな。鉄の森からはもうほとんど出てる。赤竜もここまで中心部を離れることはないだろう」
避ける瓦礫が減ったことで、もはや跳躍して進む必要はほとんどない。先ほどから赤足は地面の上をごく普通に走行していた。
「ねえ。さっきのどうやったの? 銃弾が一瞬にして砂になったやつ」
僅かに渋りを見せたのち、クロドは答えた。
「重量者としての力だよ。俺は対象物の‶存在〟を奪うことができるんだ」
「重量者って、ヌルの眼に堕ちかけたっていうあれ? 存在を奪うってどういうこと?」
「そのまんまの意味さ。ものがそこに存在できる空間――その形としての場とでもいうのかな。存在を無くした物体は、形状を維持することができなくなって崩壊する」
「何だか難しい話だね」
説明から逃れようとでもするように、ルイナは横を向き頬をクロドの背に押し付けた。
「俺も最初はよくわかってなかったからな。親方に何度もあの鉄の森に置き去りにされて、必死に生きようと足掻いているうちに何とか把握できた力なんだ。リスクもあるし、接近戦でしか使えないけど、状況によっては強力な効果を発揮できることもある。あの村で手に入れた唯一の遺産ってやつかな」
「あの村? どこのこと?」
「……こっちの話さ。気にしなくていい」
憎しみや絶望。あのとき体験した様々な負の感情を振り払うように、クロドは前を見つめた。
何かを感じ取ったのだろうか。それっきりルイナは黙り込んでしまった。若干気まずい思いをしつつも、静かに赤足のアクセルを回し続ける。
自分でも意外だったが、もう間もなくルイナと別れると思うと、少しだけ寂しさを感じる。つまらないチンピラ生活を送ってきたこれまでの日常と比べて、彼女との逃亡劇は予想以上に刺激的だったらしい。
今後の彼女が心配ではあるけれど、流石にこれ以上関わることは首を突っ込み過ぎている。アラウンに刃を向けたこと自体かなり危険な行為なのだ。先ほどの部隊は恐らく赤竜によって全滅させられているだろうが、どこかで他の兵士に見られているとも限らない。多少の不安感を覚え、クロドは小さなため息を吐いた。
「――あ、ほらクロド。草原が見える」
二つのビルの合間から、草原地帯がその一部を覗かせていた。南部一帯に広がるその金色の草原は、まるで波のように風にあおられ揺らめぐことから‶津波平原〟と呼ばれ、共同体間を移送する地走機の通り道となっている。今は無きクロドが生まれ育った村も、この平原の南東に位置していた。
二つのビルの真下。いくつもの地走機が廃棄された場所を見つけると、クロドはそこに赤足を停車させ、地面の上に降りた。ずっと神経を張り詰めさせていたから、こうして身体を伸ばせると気持ちが楽になる。
疲労が蓄積していたのだろう。ルイナは適当な地走機の上に腰を下ろし、どっと全身の力を抜いた。
「少し休んでろ。使えそうな地走機が見つかったら教える。一応、周囲を警戒しとけよ。まだアラウンの追手がいるかもしれない」
「うん。ありがとう。ほんと、クロドには世話になりっぱなしだね」
妙に力の抜けた表情でこちらを見つめるルイナ。それはどこか、寝るのを嫌がる幼子の表情に似ていた。