第三章 ヌルの眼と泉 2
「あ、あれって……」
「ああ、〝ヌルの泉〟だよ」
ヌルの泉。それはヌルの眼とは逆に空間を吐き出す力を持ち、その周囲へ次々に新たな生命や物質を生み出す存在。
「すごい――……本当にあるんだ……!」
見とれるようにルイナは目を輝かせた。
〝ヌルの眼〟に空間が吸い込まれ続ければこの世は消え去る。今世界が存在できているのは、〝ヌルの泉〟が次々に空間を作り出しているからだ。
〝泉〟は必ず〝眼〟の近く約一キロ以内に生まれ、時間をかけてその距離を〝眼〟に近づけていく。そして二つの現象が重なった瞬間、まるで相殺するように眼と泉は消えさる。一般的にヌルの泉はこの世界そのものが〝眼〟から世界を守るために作り出した存在だと言われている。しかしそれはあくまで推測に過ぎず、ヌルの眼と比べて圧倒的に発生数が少ないため、実際のところはまだ研究がほとんど進んでいないらしい。
――これがもっといっぱいあれば、球獣も生まれないし、アラウンの力も弱まるんだけどな。
ヌルの眼の周囲の物体は、目に近づくごとに〝空間的に重く〟なっていく。それらの物体を食したり、また眼に引きずり込まれそうになった動物や人間は、存在がこの世界よりも重くなり世界の外からの認識干渉を起こせるようになる。それが魔法と呼ばれる現象であり、そういった影響を受けて変異した生物が球獣と呼ばれる化け物だった。
「これだけ〝泉〟が接近しているんだ。このヌルの眼はあと数ヶ月以内に消滅する。空間を引きずり込む力も、周囲の物体の存在を重くする効果も、泉が大部分をかき消しているからもうほとんど有用性はない。だからアラウンもほったらかしにしてるし、普通の眼の付近とくらべて球獣も少ないんだよ」
したり顔でクロドはそう説明した。
「じゃあ近づいても大丈夫なの?」
「さすがに手を突っ込んだりしたら引きずり込まれるけど、目の前に立ってるくらいだったら大丈夫さ。まあ、それでもぼうっと十分間くらい突っ立ってたら、知らない間に地面ごと中に吸い込まれてるかもしれないけど」
クロドは冗談のつもりでそう言ったのだが、ルイナはまったく笑わず、真剣な表情でヌルの眼を見つめた。
――……まあ、初めて目にするなら確かに怖いかもな。
彼女の表情を見ていると、十年前の自分の姿が思い出される。呑み込まれ、この世界から体が〝落ちていく〟あの尋常な感覚。自分が本当の意味で一人ぼっちになったような、圧倒的な危機感――。遠ざかっていく父と母の遺体。
……やめろ。思い出すな。
とっさに頭を左右に振り、胸に蘇りかけた苦痛の手を振り払う。
クロドはヌルの眼から数歩離れると、周囲を見渡した。
赤竜自体がこの廃墟ピラミッドの中へ足を踏み入れることはない。しかし彼の生息地はこの中心部付近であるため、ヌルの眼によって周囲の空間や廃墟が吸い込まれることで、放置された鱗が集まってくることはよくある。運よく地面の上に落ちていた鱗を見つけたクロドは、心の中で口笛を吹き、それを拾った。
「ほら。これがさっき話した球獣の鱗だよ。傷口にあてて、そこが塞がるイメージを浮かべるんだ。使い方は基本的な魔法具と変わらない」
クロドから鱗を投げ渡されたルイナは、言われた通り包帯をめくり上げ、鱗を傷口に押しあてた。
しばらくして、いくつもの鈍い泡のような光が鱗からあふれ出し、ルイナの傷口へと侵入していく。まるで目の前に水槽でもあるかのような光景だった。
「きれい……」
その光景を眺めていたルイナは、思わず感嘆の声を漏らした。
やがて噴き出していた泡が収まり、周囲を照らしていた輝きが消え去る。鱗にこもっていた赤竜の力が無くなったのだろう。鮮やかな紅の輝きを見せていた鱗は、黒っぽい土色へと変色していた。
「どうだ? まだ傷は痛むか?」
「ううん。全然痛くない。凄いねこれ。高級な医療用魔法具を使ったときみたい」
「それだけ赤足が強力な球獣ってことさ。まあ、親方の処置が上手かったってこともあるだろうけど」
魔法は決して万能なものではない。魔法を使って傷を治すには、どの血管が途切れているのか、どの骨が砕けているのか、どの筋肉が断裂しているのか、隅々まで把握しながらそれを順序立てて一つ一つ修復していく作業が必要となる。
魔法具を使えば誰だろうと治療効果を発動することはできる。しかしそれはあくまで魔法を発動しているだけにすぎず、正しい知識を持たないものが施術を行えば、体内のめちゃくちゃな箇所が繋がり余計な損傷を生んでしまう。今ルイナが鱗を押し当てるだけで治療を行えたのは、親方がしっかりと傷口を正しい位置に縫い合わせ、回復魔法によってその細胞が繋がるような治療を施していたからだった。
クロドはあらわになったルイナの腹部をちらりと眺め、視線を逸らした。
「これはどうするの? 持って帰れば高く売れそうだけど」
「その鱗は一度だけしか使えないんだ。普通の魔法具と違って、現象の発生源が球獣の生命力だからな。内部に溜まっていた生命力が枯渇すれば、当然効果はなくなる。まあ、骨董屋にでももってけばそれなりに値段はつきそうだけど」
「そうなんだ。残念。便利な道具だと思ったのに」
ルイナは名残惜しそうに鱗を瓦礫の上に置き、ほどいた包帯をその横に乗せた。
「行こう。もう用は済んだ。こんなところ、さっさと離れるぞ」
あまりヌルの眼の近くにはいたくない。あれには嫌な思い出しかないのだ。
クロドがそういって密集した瓦礫の壁へと近づいていくと、背後から遠慮がちなルイナの声が響いた。
「何か君って、態度は横柄だけど、実は凄く優しいよね」
「はあ? 何だよ急に」
「別に。ちょっともったいないなって思っただけ」
意味の解らない台詞を吐き、優しく微笑む。
何だか背中がむずかゆくなり、クロドは黙って瓦礫の隙間へと体を押し込ませた。