第三章 ヌルの眼と泉 1
赤足で走行を続ける間、前に抱えたルイナの口からは定期的に苦しそうな吐息が漏れた。
怪我の痛みだけではなく、溜まった疲労によって体調不良を起こしているらしい。
――まずいな。このままだと次の町まで持たないかもしれない。
クロドは彼女の身体を抱えなおすと、ハンドルの向きを大きく左へ逸らした。連動して車体が大きく傾く。
「ちょっと寄り道をするぞ」
「寄り道?」
クロドの言葉を聞いたルイナは、怪訝そうにこちらを見上げた。
「この鉄の森には自己再生能力を持つ球獣がいるんだ。そいつの鱗を使えば再生魔法と同じような効果を起こせる。中心部にはよくその鱗が落ちてることがあるからさ。ダメもとで見てみようと思って」
「でも、中心部って危険なんじゃないの?」
「すぐに離れれば大丈夫さ。こっちには赤足があるし、例え強力な球獣が出てきたところで追いつかせなければ問題はないからな。……まあ、実際は地形の問題で少し歩かなきゃならないけれど、大した距離じゃないし。まだ痛みは我慢できるか」
「大丈夫。これくらい平気」
額から汗を流しながら、ルイナはにこりと笑った。
それがやせ我慢であることは明白だったが、クロドは敢えて気が付かないふりをした。これ以上余計な気を使わせたくはなかった。
アーチ状になっている鉄骨の上を進み、それを伝って反対側の建物の上に飛び移る。少し高い場所に乗ったおかげで自然と鉄の森の全景が目に入った。
複雑に絡み合った鉄骨やパイプライン、飛び出た煙突の数々に網目のように広がった建物の穴。既に何度来ているにも関わらず、奇妙な感動を覚える。
「すごい光景だね。こうして見ると本当に森の中にいるみたい」
体の前から驚いたようなルイナの声が流れてきた。
「元々はただの廃工場群だったここも、長い年月による老朽化と球獣たちの巣作りでだいぶその姿を変えたんだ。まあこの光景を作り出している最大の理由は、中心部にある〝あれ〟だけどさ」
「あれって?」
「ダリアがスラム街になり、共同体がこの旧産業区画から撤退した最大の理由。――ヌルの眼だよ。遠くに見える異様に建物が密集した空間。そこを眺めながら、クロドは静かに答えた。
ヌルの眼によって引き付けられた周囲の廃屋たちは、衝突し歪曲し、ピラミッドのごとくその姿を変貌させている。まるで巨人がコンクリートの束を寄せ集めたようだと、クロドは思った。
「ここからは徒歩で行く。流石に赤足で入れそうなスペースはないからな」
廃屋の塊の前で赤足を停車させ、ゆっくりとルイナを下ろすクロド。地面の上に立った彼女は目の前のあまりに異様な光景に言葉を失い、ただ茫然とその廃屋の塊を見つめていた。
適当に周囲を見て回ると、ちょうど人が通れそうなスペースがあったため、ルイナを手招きしその中に入った。
こうして金属に囲まれているにも関わらずダリア独特の錆びた匂いは感じられない。澄んだ酸素の味だけが舌に乗る。
瓦礫の間を五分ほど歩き続けると大きく開けた場所に出た。足を踏み入れてすぐにひとつの大きな物体が眼に入る。
半径一メートルほどの綺麗な球体。しかしそれは、実際に球体としての形を持っているわけではなく、人間に視認できる状態が球に見えるというだけのもの。
上も、下も、右も左も、周囲のありとあらゆる万物、空間そのものを根こそぎ吸い込む謎の現象。数百年前に突如世界中に出現し、多くの魔法具や球獣を生み出し、世界の環境を一変させた原因。
「これが――……ヌルの眼……――」
灰色い砂地の上、澄み渡った空気が満ちた空間の中で、景色を目玉に焼き付けるように、ルイナはそう呟いた。
「これがって、見た事ないのか」
ヌルの眼の存在は一般常識だ。五、六歳の子供ですら当然のように知っている。クロドの疑問に対し、ルイナは静かに答えた。
「それは知識では知ってるけど、主要都市には結晶防壁のおかげでほとんど存在しないもの。兵士や探検家でもない限り、直接目にすることなんて少ないよ」
「ふーん。ちょっと町の外に出ればどこにでもあるし、別に珍しくもなんともないと思うんだけど……やっぱり始めてみると感動するもんなのか」
「うん……まあ。どちらかと言えば感動というよりは驚愕に近いけどね」
ぼうっとヌルの眼を眺めたまま、ルイナは唾を飲み込んだ。小さな喉が動くのが一瞬見える。
「こんな遠くから見ててもよく分からないだろ。もっと近づこう」
まるで自分の家の中のように大股で進んでいくクロド。それを見たルイナは慌てて彼の腕を掴んだ。
「ば、馬鹿! 危ないって。ヌルの眼なんだよ。吸い込まれたらどうするの? いつ球獣が生まれるかもわからないんだし」
「大丈夫だって。あれがどんなものかはよく知っている」
自分の手を見つめ、クロドは答えた。
「大丈夫って、本当にわかってるの? あれは〝全てを〟吸い込むんだよ。空気も、残骸も、地面も、その場の空間を全て丸ごと……別に私たちが一歩も動かなくたって、一時間後には勝手に近づいてあれの目の前にきちゃってるかも知れない。下手に近づいたらいつ飲み込まれてもおかしくないんだから」
「だから大丈夫だって。ほら、見ろよ。このヌルの眼はもう〝寿命〟なんだ」
必死に自分を引き戻そうとするルイナを見て、クロドは小さく笑った。
〝眼〟の奥にあるものへと視線を向け、彼女に位置を伝える。
そこにはまるで、ヌルの眼の色を逆属性に反転させたかのような白い球体があった。