第二章 鉄の森 2
明朝。いつものライダージャケットに着替えたクロドは、すぐに親方の指示通り、ルイナに逃亡手段の話を伝えにいくことにした。
昨日はもう寝ていたみたいだったからな。いきなりになるけど、仕方ない。
廊下を進み突き当りの扉をノックする。しかしいくら待っても、反応はなかった。
「ルイナ。起きてるか? 中に入るぞ」
何だか妙な気がして、クロドはノブを回した。
自分で開けたのだろうか。窓は全開となり、風邪か入り込んでいる。二度寝でもしているらしい。
「おーいルイナ」
クロドはもう一度彼女の名を呼び、ベッドに近づいたのだが、そこでやっと異変に気が付いた。何だが妙に布団の中身が薄いのだ。
あいつ、まさか……!
一気に布団を持ち上げ、ベッドの上からどかす。案の定――そこにルイナの姿はなかった。
リビングに戻るなりに、クロドは小さな怒鳴り声を上げた。
「ルイナがいない。出ていったみたいだ。たぶん、数時間は前に」
クロドの顔を見た親方は、苦虫を嚙み潰したように頬を緊張させた。彼の座っている椅子から大きく軋んだ音が響く。
「昨日の話を盗み聞きして勘違いしたのか。それとも迷惑はかけれないとでも考えたのか。どちらにせよ、愚かなことを」
「町の中はアラウンの警備兵で溢れかえっている。移動するにしても、奴らの目を気にしないといけないから、まだそれほど遠くにはいけていないはずだ」
「……そうだな。ダリアに防壁はないが、おそらく主要な移動経路は全て見張られているだろう。あのお嬢ちゃんがいける場所は限られてる。クロド。俺は煙場のほうを当たってみる。お前は南部のスラム街を捜索しろ」
「ああ。わかった」
南側には知り合いも多い。運が良ければ誰かが目撃している可能性もある。クロドはすぐにガレージへ移動しようとしたのだが、立ち上がった親方に呼び止められ足を止めた。
「……わかっていると思うが、彼女がもしアラウンの兵士に拘束されていても、手は出すなよ」
「そんな馬鹿なことはしないさ。あんたに拾われたころのガキじゃないんだ。やつらに手を出せばどうなるかなんて、俺が一番よくわかってる」
横暴なアラウンに対する嫌悪感を押し殺し、そう答えるクロド。
親方は何とも言えない表情でこちらを見つめ、ため息を吐いた。
「念のためにそこのマチェットをもってけ。あくまで護身用としてた」
「いいのか。これって親方が昔使ってたやつなんだろ」
棚の上に飾ってある黒いマチェットを眺め、クロドは親方を見返した。
「少しの間だけな。別に思い入れがあるってもんでもない。ただ何となく見栄えがいいから、そこに置いてただけさ。前に使ってた剣、この前壊したんだろ」
「まあ、くれるっていうのなら、ありがたく使わせてもらう」
クロドは棚へ近づきマチェットを手に取ると、それを腰の金具にぶら下げようとした。しかしサイズがあっていないのか留金に上手くはめることが出来ず、そのまま地面に落としてしまう。鞘と床がぶつかる鈍重な音が響いた。
――あ、くそ。
面倒に思いながらも、身を屈ませマチェットを手に取る。すぐに立ち上がろうとしたのだが、その時、棚と床との間に銀色に光る何かを見つけた。手を隙間に差し込ませ取ってみると、それは小さなペンダントだった。とぐろを描いた獰猛な蛇の輪の中心に、大きな眼の模様が刻まれている。間違いなく、ルイナが探していたものだろう。
そうか。親方はルイナを治療するために彼女の装備を外し、そこらへんに放り投げていた。あのときここに……。
クロドはそれをズボンのポケットに仕舞い込むと、強引にマチェットを腰に括り付け、立ち上がった。
廃材や鉄骨を組み合わせただけの家々の間を駆け抜けつつ、ルイナの姿を探す。
赤足のエンジン音が静かに唸り、通り過ぎる人々を振り向かせた。
こんなところにもアラウンの兵士が……。
いつもならばぼろぼろの服を着た乞食や怪しげな売人しかいないはずなのに、所々で小奇麗な防護服をまとった兵士の姿を目にする。よほどルイナをこの街から逃がしたくないようだった。
これじゃ街中にいる可能性は低いな。やっぱり煙場のほうか? でもこの前の感じだとあそこもアラウンの監視がいっぱいだったはずだが。
そんなことを考えながら走行を続けていると、数十メートル先の通路上に見知った顔を見つけた。赤足の常連で、この街で薬局を経営している男だ。
彼は近づいていくクロドに気が付き手を振った。
クロドは速度を落とし、赤足を彼の目の前に停車させた。何度も街中を行き来し、そろそろアラウンの兵士に不審がられると思っていたところだったので、ちょうどよかった。
男はマスクを外したクロドの顔を見上げ、親し気に話しかけてきた。
「よう。クロド。何してんんだこんな朝っぱらから。お前んとこの店の営業は十時からだろ」
「ちょっと野暮用があってね。そういうお前はどうしたんだよ。この時間はいつも店で暇そうにしてるはずなのに」
「ああ。俺の店で扱ってる薬は非正規のルートで仕入れてるもんが多いからな。こんだけアラウンの兵士が見回って検問を敷かれたら、すぐに見つかって摘発されちまう。それを恐れて配達の連中がびびりやがったんだ。だからしばらくの間は休業なのさ」
「そうか。それは災難だな」
同情するようにクロドは声色を落とした。
薬局の男は道路の対岸にいる警備兵を眺めつつ、
「例の……離反者だっけ? その女が見つからない限りは商売あがったりだよ。全く迷惑な話だ」
「まだ見つかってないのか?」
「らしいぜ。もしかしたらもうとっくに街の外に出ているかもな。そういえば少し前に‶鉄の森〟に入っていく若い女を見かけたけど、まさかあれがそうだったりして――」
「‶鉄の森〟に? どんな女だった?」
男の台詞を聞いたクロドは、その言葉に強い興味を持った。
「どんなって、お前とそう変わらない年齢の女だったよ。黒いスカートに、赤っぽいシャツを着てたかな」
それは親方がルイナのために用意した服装とほとんど同じだった。どくりと心臓が跳ね上がる。
「それって何時くらいの話だ?」
「何だよ。やけに喰いつくな。確か、二時間は前だったと思う。ちょっとゴミを捨てにいこうと思ってな。偶然見たんだが……――それがどうかしたのか?」
「いや、何でもない。気にするな」
二時間。それだけあればジャンクショップからここまで移動し、‶鉄の森〟へ侵入するだけの余裕はある。しかしよりによってそんな場所を脱出路に選ぶなんて……。
クロドはマスクをかぶり直し、赤足のエンジンを入れた。
「何だよ。もう行くのか?」
「ああ。ちょっと配達の仕事が残っててね。今日は一日中忙しんだ」
「へ、商売が順調そうで何よりだ。またなんかいい電気部品を見つけたら直してくれよ。お前のところで直したものは高く売れるからな」
「ああ。いつでも来いよ。金を落としてくれるなら大歓迎だ」
笑顔で男にそう答えると、クロドはアクセルを回し、一気に赤足を加速させた。
このスラム街ダリアは大きく分けて四つの地域で構成されている。
ひとつはクロドたちが住んでいる居住区。ダリアがかつて一大工業都市だったころに作られた建築群で、こうしてスラムとなってからは、多くのならず者が勝手に住み着き住処としていた。
もうひとつは産業廃棄物などが連日不法投棄されている〝煙場〟を中心としたゴミの区域。ここには住宅区に家を持てない人々や荒事、人攫いなどを家業とする人間が日夜溢れかえり、日夜賑やかさが絶えない場所だ。
そして残る二つが比較的裕福な、といってもあくまで普通の街における一般収入を得ている人間たちが住んでいる富裕区と、かつてダリアを支えていた工場群が立ち並ぶ〝鉄の森〟だ。
とある事情によって一大工業都市であったダリアはその機能を失った。
何棟も作られた工場からは人々がいなくなり、どこから入り込んだのだろうか、そこにはいつからか無数の球獣が住み着くようになった。
密集した工場群の中には貴重な資材や資源が数多く残っており、一攫千金を狙った者たちが侵入しては無残な死体となって発見された。長い年月によって複雑怪奇な構造へと変化した工場群は、もはや迷宮と言っても過言ではない場所と化し、いつしか〝鉄の森〟という愛称で呼ばれるようになった。
……鉄の森、か。
段々と迫ってくる廃墟群を見つめながら、数年前の記憶を思い起こす。
親方から護身術を習う過程で、クロドは何度かあの中に放り込まれたことがあった。
中心地点から身一つで町の中に戻ってこれれば成功。戻ってこれなければ死あるのみ。
今考えても明らかに異常な訓練だったのだけれど、そのおかげでクロドは球獣たちから生き残る方法を身に着けることができた。常に生と死の隣り合った状況は、ある意味自分と向き合うのに最適な環境だった。あの経験があったおかげで、クロドは己の〝力〟を把握することができるようになったのだから。
……そうだ。あの森の中は熟知している。アラウンがまだ侵入していないのなら、先にルイナを見つけることだって出来るかも入れない。
深入りするべきでないことはわかっている。彼女を追うことに何のメリットもないことは明らかだ。
だが、助けられる可能性を知ってしまった以上、クロドはその感情を押しとどめることが出来なかった。
「……まあ、ペンダントのこともあるしな。大事そうなものみたいだったし」
言い訳をするようにそう呟き、ポケットの中を手で押し確認する。
鉄の森への入り口が迫ったことを目視すると、クロドは一気に赤足を跳躍させ、目の前の柵を飛び越え瓦礫の上へと前進した。