第一章 クロドと少女 4
いつの間に寝てしまったのだろうか。
目が覚めると、クロドは扉に背をつける形で丸まっていた。両目をこする手にこびりついた赤黒い血の跡を見て、すぐに昨夜のことを思い起こす。
クロドは立ち上がり、背後の扉を開け中を見回した。
テーブルの上には誰もおらず、散らかっていた食器や道具は全て綺麗に片付けられている。
「おう、クロド。起きたか」
流し台のほうからひょっこり親方が顔を覗かせ、まぶたの落ちかかった目をこちらに向けた。手についている泡を見るに、医療道具か食器を洗っている最中だったらしい。
「親方。あの子は?」
「上の空き部屋で寝かせてる。幸い致命傷は避けていたからな。傷自体は深かったが、大人しくしてればすぐに良くなるだろう」
「そうか。良かった」
クロドは小さく息を吐いた。
親方は洗い終わった道具を横に置くと、手をタオルで拭きながらこちらへ近づいてきた。
「あの子は何なんだ? 知り合いなのか? 見ねえ顔だが」
「知り合いじゃない。帰ってくる途中で倒れてたんだ。何だか妙な連中に追われてるみたいだったけど」
「妙な連中? どんなだ?」
「さあな。暗がりでよく見えなかった。でも、ダリアでは見かけない小奇麗なアーマーを着込んでいるように見えた」
親方は僅かに何かを考えるような素振りを見せ、腕を組んだ。
「……クロド、俺はちょっと町に情報収集に行ってくる」
「今から行くのか? 昨日寝てないんだろ」
「何だか嫌な予感がしてな。なに、すぐ戻るさ。心配するな。お前はあの子から目を離すなよ。まだ傷が完全に塞がったわけじゃないんだ」
指をこちらに向け、そのまま玄関へ向かっていく親方。クロドは珍しく真剣な親方の表情を怪訝に思いつつも、言われた通り、少女の様子を確認しにいくことにした。
廊下の階段を上がり、一番奥の部屋へ進む。
埃を弾くために親方が開けたのだろう。扉を開けると、窓際から心地よい朝の風が流れ込んできた。
どうやら少女はまだ寝ているらしい。クロドは起こさないようそっと彼女に近寄ると、顔を覗き込んでみた。
付着していた泥や血などは全て拭き取られ、真っ白な綺麗な肌をさらしている。昨日も思ったことだが、やはりかなり整った顔立ちの娘だった。
あれだけ苦しそうな声を上げていた割には、ずいぶんと穏やかな表情だ。鎮痛剤か何かを投与されたのだろう。寝息は静かすぎるほどに落ち着いていた。
「この分じゃ、まだしばらく起きそうにはないな」
そう呟き、離れようとしたのだが、少女に掛けられている毛布がずれていることに気が付いた。
クロドは腕を伸ばし、毛布を掛けなおそうとしたのだが、手が布に触ると同時に、いきなり少女が跳ね起きた。
鋭い目つきでこちらを睨み、ぐいっとクロドの腕を引く少女。完全に油断していたクロドは、強く腹部を蹴られ、扉側の壁へと突き飛ばされた。
な、なんだ……!?
訳が分からず混乱するクロド。
少女は茶色い髪を揺らし、下着姿にも関わらず、ずんずんとクロドに向かって歩んでくる。そして悶絶していたクロドに向かって再度蹴りを打ち込もうとした。
「ちょ、待てって」
手を上げて静止させようとするが全く聞く耳を持ちそうにはない。彼女はクロドの顎を蹴り上げようとしたが、ぎりぎりのところで手首を回し、それを横に逸らした。
ちょっとまて。一般人の動きじゃないぞこれ。
逆の足で再度腹部を狙う少女。クロドは反射的に右足を前に滑り込ませ、自分の足でそれを押しとどめ、左手で少女の肩を掴んだ。
「落ち着けって、俺は別に――」
もっと簡単にこちらの意識を奪えると思っていたのだろう。少女は舌打ちし、掴まれている方の肘をクロドの顎めがけて飛ばしてくる。全てが急所を狙った的確な動きだった。
どうやら完全に動きを止めない限り、まともな会話はできなさそうだ。
クロドは仕方がなく自身の左ひじでそれを内側に逸らし、わざと手を放して間に空間を作った。
少女は待ってましたとばかりに蹴りを繰り出してきたが、それを右手で掴み持ち上げる。バランスを崩し、後ろに仰け反る形になった少女は、そのままクロドに支えられる形で動きを止めた。
「は、離せ!」
恥ずかしそうにシャツの裾を両手で下げながら、きつくこちらを睨む少女。ようやく拳以外での会話が出来そうなことに安心し、クロドは彼女の顔を見つめた。
「落ち着けって。俺はお前を追ってた連中の仲間じゃない。自分の腹を見ろよ。殺そうとしてたやつがそんな手当なんかするか?」
「生け捕りに方針を変えたのかもしれない。そんなこといくらでも――」
「じゃ窓の外を見ろ。ここがどんな場所か一目でわかる。少なくともお前を追ってた連中が使うような場所じゃないだろ」
そういうと少女は一瞬外に目を向け、そしてこちらに顔を戻した。ほんの少しだけ迷いが生じたようだ。訝し気にまじまじとクロドの全身を見回す。
「俺は倒れているお前を拾っただけだ。追ってた連中とは関係ない。感謝こそされても、蹴られるいわれはないと思うんだけど」
まだ信じられないのだろうか。少女はクロドを見上げたまま、怪訝そうな視線をこちらに向け続ける。それを見たクロドは箪笥の上に立て掛けてあった写真を指差した。以前親方とこの店の前で撮った、開業五周年の記念写真だ。窓の外と同じ光景が二人の周りに広がっている。
それを見て、ようやくクロドが自分を追っていた人間の仲間ではないと理解できたのだろう。少女の身体から拍子抜けしたように力が抜けるのがわかった。
無理に動いたからか、少女の腹部からは血が滲みでてきている。クロドは慌てて彼女の足を離し、そっと距離をとった。
「悪いけど〝直接的な治療〟しかできなかったんだ。まだ寝ていたほうがいい。何か飲むか?」
少女は何も答えなかったが、代わりと言わんばかりにお腹のなる音が部屋に響く。もう何日食事をとっていなかったのだろうか。かなり大きな音だった。
「……とりあえず、飯にするか」
顔を赤くして俯く少女に向かって、クロドは静かにそう提案した。