プロローグ 1
細かい専門用語の意味は、後ほど本文中にて説明致します。
口の中に砂が入った。
水分が一瞬にして奪われ、舌が固まったかのような錯覚を覚える。両手を砂の上につきながら慌てて吐き出すも、中々その違和感は消えてくれない。
クロドの横転があまりに派手だったからだろうか。傍らに立っていたドリクが、面白おかしそうに笑いながら、そのふっくらとした手を刺し伸ばした。
「おい、しっかりしろよクロド。こんなところで転ぶなんてらしくねえな」
「うるさいな。ちょっと石につまずいただけだ。ただの偶然だよ」
馬鹿にされたことが悔しくて、クロドは眉間にしわをよせそう言い返した。顔を赤くしつつドリクの手を握りしめ立ち上がる。
「まったく。八歳とは思えん負けん気だな。親父さんが頭を抱えるわけだ」
「何だよ偉そうに。ドリクだって四歳しか違わないじゃないか」
服に付着していた白砂を手でほろいながら、クロドは前の前の少年を見上げた。
「四歳しかじゃない。四歳もさ。知ってるか? 首都オラゼルでは十二歳を超えたら、半分大人として扱って専門の訓練を受けさせてもらえるらしいぜ」
「ここはただの田舎町だぞ。オラゼルなんか関係ないさ。そんなことでえばるなよ。ちょっと前まで嵐がくるだけで泣いてたくせに」
「はぁ? ちょっと前じゃねえよ。それ二年前の大嵐の話だろ? 今さらそんなの持ち出すなよ」
ドリクはむきになって答えようとしたが、途中で諦めたようにため息を吐いた。
「――やめようぜ。こんなくだらない話をしてる場合じゃない。急がないと、守備団に撤去されちまうぞ。お前だって見たいだろ? 〝球獣〟の死体」
「……そっか。それもそうだな」
自分たちの目的を思い出し、クロドは頷いた。
――球獣。太古よりこの星に存在す異形の怪物。大抵の村は防壁に囲まれているから、外に出る行商人や見回りの守備団でもなければ、原型を保っている球獣を目にする機会は少ない。
もう少しドリクの焦った顔を見ていたくもあったが、彼をからかうより、自分たちの目的を達成するほうが重要だ。クロドは肩の上に残っていた砂を息で吹き飛ばし、周囲を見渡した。
世界を管理する〝統一機構アラウン〟が本部を置く首都オラゼル。ここはその南西にある小さな村だ。荒野のど真ん中にできた湧き水を中心に栄えた村で、発足からこれまで一切の争い事ももめごともなく平穏に成り立ってきた。その湧き水の影響なのか地層の所為なのか、村の地面は陸地にも関わらず浜辺のような白い砂で覆われ、人々はその一部を整備し家を建て道をつくり暮らしている。
先ほどまで歩いてきた後方を確認すると、家々の間に辛うじてシンボルともいえる湧き水の水面が見て取れた。
「せっかく大人たちの目に付かないように道を外して砂の上を通って来たんだ。ここで見つかったら服の汚れ損だぜ。はやくいこう」
ドリクは心配そうに村の中心部のほうを眺めた。一度でも誰かに目撃されることを恐れているのかもしれない。
正面に立ち並ぶ村を守るための防壁。それを眺めクロドは静かに頷いた。
砂地から点在する木々の間を抜け壁の前出たところで、クロドは気になっていた疑問をドリクへぶつけた。
「それでドリク。お前が見つけた球獣の死体って、どこだよ」
「あせんなって。ほら、あそこ。あの木の横に少し壁が欠落してるところがあるだろ。あそこから外に出れるんだ」
「外って、村から出る気なのか」
てっきり壁の外を覗くだけだと思っていたため、クロドはその提案に驚愕する。
「ちょっとだけだって。百メートルも壁から離れねえよ。いつも守備団が見回りしてんだ。目的の死体以外に球獣なんかいやしねえさ」
自信満々気にいうドリク。クロドは多少不安を感じつつも、彼の言うことを信じることにした。後ろめたさよりも好奇心のほうが勝るのはいつものことである。
ドリクの後に続き壁の隙間を抜ける。顔を外に出すと、すぐに強い風が短い黒髪をすくい上げた。
「ほらこっちだ。早く」
興奮しているのか、雑草を踏み荒らし瞬く間に先へと進んでいくドリク。クロドは置いていかれないように必死にそのあとに続いた。
三分ほど黄金色の草をかき分け進むと、小さな煙の上がっている場所が見えた。火薬か火の魔法道具でも使用したのか、楕円形に周囲の草が燃え落ちている。
「あった! あれだよほら!」
明るい声でドリクが前を指さす。確かにそこに、大きな何かが倒れていた。
薄っすらと灰色い煙を上げている体は、全長二メートルほどだろうか。短い尻尾に鋭利な爪。人の頭蓋骨を縦長に伸ばしたようなその顔は、確か〝髑髏牛〟とかいう球獣だ。村の講習会で写真だけは見せてもらったことがある。
「すっげえ。本物だ。本物の球獣だよ」
髑髏牛の亡骸の周囲を興奮した様子で飛び回り、ドリクは持っていた木の枝でそれを突いた。
「本当に死んでるんだよな」
焼けてはいても、その筋肉の逞しさや鋭利な爪はうすら寒い危機感を抱かせる。目の前まで近づくことが出来ず、クロドは遠巻きにその死体を眺めた。
「大丈夫だって。ほら、ピクリとも動かねえじゃねえか」
強めに髑髏牛の頭部を叩き、満足げに笑みを浮かべるドリク。それを見て、クロドは一歩足を前に進めた。
――これが球獣。
唾をのみ込みつつまじまじと観察する。村の外ではこんな化け物が何体も歩き回っているのかと、恐々とした気持ちになった。
「守備団の大人たちはすげーよなクロド。こんな化け物を倒しちまうんだぜ。俺も大人になったら、守備団に入って村を守るんだ」
「すげーって言っても、別に大勢で囲んで隙をついただけだろ。アラウンの上位兵士なんかは、一人でこんなのを何体も相手にするそうじゃないか」
装備が違うというのも当然あるだろうが、アラウンの兵士たちの勇猛さはよく噂で耳にしている。実際に相対すれば、こんな小さな村の守備団など相手にもならないだろう。
「うっせえな。俺は最強の守備団になるんだよ。アラウンの兵士よりも強い男にな。こんな感じで――」
妄想の中で熟練の兵士にでも成りきっているのか、ドリクは枝を両手で持ち直し、力いっぱい髑髏牛の頭部に叩きつけた。衝撃によって死体の下にあった小石が転がり頭の位置がずれる。
「おいおい、勝手に動かしたら守備団にばれるぞ。死体の運搬用の荷車を取りに戻ってるだけなんだろ。ばれたら――」
クロドがそう言いかけたときだった。
ドリクの足元に伸びていた髑髏牛の爪が、一瞬わずかに動いた。
――あれ? 今……?
見間違いかと思ったが、確かに動いたような気がする。何か嫌な予感がした。
「ドリク……! もしかしてそいつ……」
「あ? 何だよ。まだビビってるのか? これだからお子様は――」
再び動く爪。今度は間違いない。仮眠から覚めたかのように、その鋭利な瞳が開く。
「え?」
ドリクが異変に気付いたとき、すでに髑髏牛は両足に力を込めていた。甲高い鳥のような、ノイズのような雄たけびが耳を駆け抜ける。
クロドが身構える間もなく目の前をドリクの体が横切った。髑髏牛によって突き飛ばされたのだ。空中に彼の着ていた服の切れ端がふわりと舞い上がる。
「ドリク!」
とっさに叫び駆け寄るも、打ち所が悪かったのかドリクの体はピクリとも動かない。草の下に広がる白砂がじんわりと赤く染まった。
くそ、嘘だろ……!
クロドはとっさにドリクが持っていた枝を拾い、目の前に構えた。正直すぐにでも逃げ出したかったのだが、ここで背を向ければ間違いなくドリクは喰われてしまう。それに、そもそも子供の足で逃げ切れる相手ではなかった。
――やっぱり来なきゃよかった。
いくら嘆いてもすでに遅い。髑髏牛は立ち上がり、今にも飛びかからんばかりの姿勢でこちらを睨みつけている。
「守備団の連中、ちゃんととどめを刺してけよ」
声に出して悪態をつくことで、辛うじて己の闘志を奮い立たせる。
髑髏牛はクロドを敵だと判断したらしく、その爪を白砂に食い込ませ、深々と身をかがめた。
背後にはドリクがいる。この位置で襲い掛かられたら避けることはできない。じりっと足を横に動かそうとした途端、跳ねるように髑髏牛が跳躍した。
「うわああっ!?」
クロドは反射的に木の枝振り下ろしたが、それはあっさりとへし折られ、長い爪が肩に向かって視界の中で肥大化した。
直撃しなかったのはまさに奇跡だろう。身を守ろうと腰をねじったことで、髑髏牛の爪は腕の皮膚を軽く削いだだけで済んだ。しかし大きな体躯に押され、クロドは地面に倒れ込んでしまった。
独特な発酵臭が鼻をつき、目の前に髑髏牛のおぞましい顔が迫った。
勝手に心臓が早鐘を打ち今にも爆発してしまいそうだ。恐怖で手足が痺れ、頭の奥がぐわぐわと歪んだ気分になった。
――死ぬ! 死……――
何も考えることができない。ただ〝怖い〟という感情だけが心と体を支配している。まるで魅せられてしまったかのように、視界が髑髏牛のほの暗い眼に釘付けになる。
髑髏牛の口が開き、何重にも連なった金属質な歯がその姿を現す。一度でもこれに噛まれれば抜け出すことは不可能だ。
クロドは無我夢中で叫んだが、当然そんな抵抗など髑髏牛は気にしない。むしろ活きのいい獲物だとでも言うように、唾液を口の中いっぱいに充満させ、長く棘のある舌を動かしクロドへと近づけていく。
「やめろ! やめっ――」
クロドが最後の悲鳴を上げたその瞬間、髑髏牛の大きな牙がクロドの肉を貫き中に詰まった真っ赤なエキスを湧き出させようとして、――止まった。
鳴り響く耳障りな悲鳴。いや騒音。
クロドのものではない。声をあげているのは、彼に覆いかぶさっている髑髏牛のほうだった。
「大丈夫か!」
どこからか大声が聞こえた。少しだけかすれた深みのある声。クロドは髑髏牛の頬が一本の長い槍に貫かれていることを知った。声の主が投擲したのだ。
振動が地面から伝わり複数の足音を感じる。振り返ることなく、それが村の守備団員たちのものであるとわかった。
声を出すこともできないクロドをよそに、彼らはそれぞれ手に持った武器を巧みに動かし、髑髏牛を攻め立てた。
一度痛い目に遭ったからだろう。通常ならば敵意をむき出しにして抵抗するはずの髑髏牛は、それで怯えたようにクロドの上から離れ、威嚇行動をとりながら後退していく。もとも瀕死の状態だったのだ。大した抵抗をすることも出来ず、髑髏牛はそのまま背や腹を複数の槍に貫かれ、身動きを止めた。
「おい、しっかりしろ」
比較的若い団員に腕を掴まれ、クロドは地面の上から背を起こした。足が馬鹿になったのか、支えられなければまともに立つこともできなかった。
「今度こそお終いだ」
かすれた声の男が髑髏牛の頭部を貫いた。槍が刺さると同時に髑髏牛の目が一点を見つめ動かなくなる。そしてゆっくりと、置物を転がしたときのようにその体が倒れた。
「馬鹿野郎!」
耳をつんざくような大声と共に、クロドとドリクの頭頂部が殴られる。
脳髄に走った衝撃に思わず天地がひっくり返ったのかと錯覚しかけた。
「勝手に村の外に出るなと日頃からあれほど言っているだろ。間に合ったからいいものの、一歩遅ければ二人とも死んでいたんだぞ」
金属プレートに身を包んだ集団から鋭い視線を飛ばされるプレッシャーに耐えられなくなったのか、ドリクの目に徐々に湿っぽいものが滲み始める。至極当然の叱責だったため、いつもは皮肉屋なクロドも、何も文句を言うこともできず項垂れた。
「何のために俺たち守備団がいると思ってるんだ。こちとら遊びでやってるんじゃねえんだぞ」
かすれた声は収まるところを知らず、なおもその怒りをヒートアップさせていく。希薄で周囲の白砂が吹き飛んでしまいそうだった。
「まあまあ、ディランさん。壁の管理を怠った我々の責任もあるんですから、そこらへんで……」
ひと際若い団員がなだめるように呼びかけるも、それで一層、彼の怒りは勢いを増した。
「甘やかすんじゃない。瀕死の球獣だったからいいものの、もし飢えた元気な個体がいたらどうする。こいつらを助けようとして俺たちの誰かが死んでいたかもしれないんだ。仮にも守備団のお前がそういうことを言うんじゃない」
若い団員の台詞が気に障ったのか、今度は攻撃の矛先を彼へと移す。若い団員は「ひえっ」と声をあげ、身を縮こまらせた。
「ごめん。もう二度とこんなことはしないよ。悪かった〝父さん〟」
いつも怒りっぽい父ではあったが、実際に手を上げられたことは数えるほどでしかない。彼の怒りが相当なものだと悟ったクロドは、震える声でそう謝った。
「当たり前だ。もしお前に何かあれば、母さんがどんな気持ちで――」
「ディラン。気持ちはわかるがあとだ。早く戻らないと。わかってるだろう」
さらに怒鳴りつけようとする父を、別の老熟の団員が制した。父はまだ怒り足りない様子ではあったものの、彼の顔を見て仕方が無さそうに舌打ちする。
「クロド。話は今夜またあとでする。ドリク。お前の親父さんにもちゃんと言っておくからな」
いくら外とはいえここはまだ村の外周部。いつもならここから一時間は叱責の言葉が続けられるはずだ。父のらしくない態度が気になったクロドは、たった今叱責されたことも忘れ、疑問をぶつけた。
「……何かあったの?」
不安気なクロドの顔を見て、余計な心配を与えてしまったと思ったのだろう。父はバツが悪そうに自分の頭を掻くと、先ほどよりも多少落ち着いた表情で答えた。
「別に大したことじゃない。村に来訪者が来ただけだ」
「来訪者? 旅人ならたまに来てるじゃないか。何をそんなに……」
「旅人じゃない。製薬商会の一団だ。首都オラゼルの」
「オラゼルの? 何でそんな都会の人たちがこんな村に?」
「詳しくはわからない。今村長と話をしている。俺たちもこれから向かって、詳細を聞くところだ」
一団ということは少なくても一人や二人ではないのだろう。それも首都オラゼルの製薬商会ということは、かなりはぶりのいい連中なのではないだろうか。そんな人間が一体なぜこんなチンケナ村を訪れたのか、クロドには想像がつかなかった。
「わかったら早く帰れ。お前らみたいな悪ガキの相手をしている暇なんて今はないんだよ」
ぶっきらぼうに手を振る父。その顔を見て、クロドは何故か妙な胸騒ぎを覚えた。