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「その後のことは、あんまりはっきりと覚えてないんだ」
ハル兄の静かな部屋で、俺はぽつりと話す。ハル兄に背を向けたまま、窓の外の遠くの山を見つめながら。
ハル兄も俺に背中を向けて、パソコンに向かってる。背中合わせで顔も見えないし、ハル兄は相づちを打ったりもしないけど、ハル兄が俺の話をちゃんと聞いてくれている、ってことは背中でわかるんだ。
「あの後俺は、結局学校に行ったんだ。他に、なにをどうしていいかわからなかったから。ユウタは普通に教室に来ていて、俺を見つけると、気まずそうに目をそらして見ないふりをした。中村香織は……学校に来なかった」
そこまで話して俺は、両手で抱えるようにしていたマグカップからコーヒーを飲む。ブラックコーヒーは相変わらず苦くて、体の中をかき混ぜる。
ハル兄は、続きを催促したりはしないで黙って待ってくれる。ハル兄がキーボードを叩く軽やかな音だけが、静かな部屋に響いている。
「中村香織がいないまま、何事もなかったかのように授業は進んでいった。まるで、いつも通りの日みたいだったんだよ、あの時までは」
ハル兄のキーボードの音が、止まった。俺は続ける。
「担任が、別の先生に呼ばれて教室を出ていった。戻ってきた担任は、ひどく深刻そうな顔をしていたんだ。それで……」
俺は目を閉じて、そのときの光景を思い出す。
「中村香織が、カッターナイフで、手首を切った、って」
それ以来、中村香織は、学校に来なくなった。
怪我がひどかったわけじゃない。傷自体はごく浅いもので、命に関わるようなことは決してないんだ、と、担任の山口が何度も言っていた。
「ただ――ちょっと心の方が問題で」
山口は教卓の上に視線を落としながら、中村さんはしばらくの間お休みすることになると思う、と早口で言った。
それが、二週間前のことだ。
それからクラスでは、中村香織のことが話題にのぼることは――少なくとも、俺の耳に入るようなことはなくなった。クラスの雰囲気が、いくらかでもぎこちなかったのはせいぜい次の日までで、それをすぎるとだれもが、中村香織なんていう人間ははじめからいなかったみたいに、いつも通りの生活に戻った。
俺は――俺はこの二週間何をしていただろう? なんだか地面に足がついていないみたいにふわふわとしていて、自分が自分じゃなかったみたいで、あんまりよく覚えていない。
親や妹に下手に心配されたり、なぐさめられたりするのは耐えられないから、学校を休むとか、そういうことは考えられなかった。でも、学校に行ったところで、もう俺に話し相手はいない。俺は義務を果たすように学校に行き、だれとも話さずに帰る。俺は、空っぽで透明になったような気分だった。
「中村さんは……」
今日の帰りのホームルーム。
まるでいけないことを話すみたいな、気まずそうな表情で山口が言った。
「諸般の事情により、別の学校に転校することになりました」
そうして、生徒たちの表情をうかがうように、ちらっと視線を上げる。
反応はない。もうみんなは中村香織に対しての興味を失ってしまったのだろうか。
俺は顔を上げていられなくなって、机の傷を見つめた。
「報告事項は以上。明日は体育祭の練習があるので、ジャージを忘れないように……」
なにごともなかったように次の話題にうつった担任の声は、どこかほっとしたように聞こえた。
「引っ越しちゃったんだってさ。あっけないよね」
俺が話しおわってふり返ると、ハル兄はキーボードから手を離して、俺の方を見つめていた。
俺と目が合うとハル兄はパタン、とノートパソコンを閉じて、カップから一口、コーヒーを飲んだ。それだけ。何も言わないし、表情を変えたりもしない。
俺の言葉の、わざとらしい余韻だけが、静かな部屋の中に満ちていく気がして、俺は耐えきれなくなって声を出す。
「かわいそう、って言ったんだ」
ハル兄の目がほんのわずかに動いて、俺の目を見つめた。
「クラスの誰かが、みんなが帰るときに。『中村さん、かわいそう』って。その言葉に、みんながうなずいたりしててさ」
言っているうちに、心臓の鼓動が早くなってくる。あのときの、心臓をつきさされたみたいな感覚を、思い出してしまう。
「俺は聞こえないふりをして、教室を出てきたんだ。教室の中に、どんどん俺の居場所がなくなっていくような気がして」
もう自分でも、何を言っているのか、わからなくなっていた。こんなこと、ハル兄には言わないつもりだったのに。
「やっぱ俺のせい、なのかな。中村香織は、『かわいそう』なのかな」
そう言った俺の言葉は、まるで怒鳴っているみたいだった。おかしいな。そんなつもりじゃないのに。
ハル兄の口が、かすかに動いた。何かを言おうとして、小さく息を吸い込んで――そのまま息を止めてしまう。静けさが、部屋の中を支配する。
「……ずるいよ」
俺は――今度はその静けさに背中を押されたような気がして、のどにつかえていたその言葉を、ため息と一緒に吐き出した。
「かわいそうな中村香織は、ずるいよ……」
そう言ってしまうと、目の奥が、かっと熱くなって、視界が急に狭くなった。体の奥から、何かがあふれそうな感覚。
ハル兄は俺の目をまっすぐに見つめて、それからもう一度息を吸いこんで、小さく口を動かして――言葉を探す。
でもそれはいつまでも音にはならずに、ハル兄の部屋の掛け時計の、秒針の音だけが俺の耳の中で鳴り響いていた。
ハル兄のくちびるからもれる、大きなため息。ハル兄は言葉を音にするのをあきらめて、手にしていたカップをテーブルに置いた。
それから、不意に、その手を俺の方に伸ばす。
晴兄の手が、ぽん、と俺の頭の上に置かれた。長い指がぎこちなく動いて、髪の毛をくしゃっと撫でる。
その瞬間、体の奥からのぼってきていた熱いかたまりみたいなものが、いっきにあふれ出した。
それは、涙だった。
やけどしてしまいそうなほど熱い涙が、俺の両目からこぼれ落ちていた。
ハル兄はちょっとだけ驚いたように目を開いて、それから優しく目を細めてくれた。
あいかわらず、何も言わない。だから俺も、何も言わなかった。
音にならない泣き声は、大好きなハル兄の部屋の中で、静かに、静かに溶けていった。
小説『なきごえは、おともなく』を読んでくださってありがとうございました。
書き上がるまでに、ずいぶんと長いことかかってしまいました。
とちゅうで長い間止まってしまったり、何度も書き直したり。
それだけ僕の中では思い入れの深い作品で、気がつけば分量は原稿用紙100枚弱、今までに完結させた作品の中では最長になりました。
(それでも一般的にいえば、『中編』といったところですが)
この作品はもともと、世間から特別に注目されたり、みんなから同情されたりするようなこととは無縁な、「ふつうの子」の、なんとなく不安な気持ちや、漠然と感じる生きづらさのようなものを形に表してみたくて書いたものです。
登場人物は全員、善人でも悪人でもないし、特別な人間ではありません。どこにでもいそうな、ありふれた存在かもしれない。そう、僕と同じ。
ふつうの子だけで展開する、日常のお話。
急展開も、クライマックスもないこの物語が、あなたの心のどこかに引っかかってくれたら、それに勝る喜びはありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。