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カーテン

作者: 柴田彼女

 真白な室内へ陽光が真っ直ぐに差し込んでいる。看護師が濡れタオルで俺の顔を拭う。夏の熱気で彼女の顔が薄く赤らんでいる。不意に彼女が顔を背ける。ドアのほうを見ながら談笑する彼女は、一体誰と何を話しているのだろう。


 事故当日の記憶は途中までで途切れている。

 大型トラックの運転手だった俺は、その日も明け方の高速道路をかっ飛ばしていた。俯いて目頭を抑えていた時間なんてほんの数秒だったと思う。しかし再び開いた瞳に飛び込んできたのはそびえ立つ防音壁で、それは眼前まで迫っていた。避けられない、と思ったその瞬間、俺の意識は暗転した。

 次に目を開いたのが何ヵ月後だったのかはわからない。少なくとも俺が事故を起こしたのは十二月の中頃だったが、意識を取り戻した俺を見舞いにきた家族は薄手のTシャツしか着ていなかった。医者が俺の目に細く鋭いライトを当てる。それから小さく首を振ってみせると、母は両手で顔を覆い泣き出し、父は母の肩を抱きながら何度もさすった。


 何も聞こえず、何も嗅ぎ取れず、何が触れても気付けず何も食べられない俺の唯一の世界との繋がりは「見える」ただそれだけだった。

 自力では首の向き一つ変えられない俺は、毎朝目を覚ますと看護師がやってくるまでじっと個室のドアのほうを見ている。ベッドに寝転がっている状態では角度の問題でドアの開閉は一切見えないし、勿論聞こえもしない。意思の疎通を計れない俺にできることは、ただひたすらに看護師の訪れを待ちわびるだけだ。

 実際には数十分程度かもしれない、無限にも感じられるときを耐え抜いて看護師がやってくる。俺は必死に眼球を上下左右に動かし、瞬きを繰り返して彼女に主張する。別に俺の意識が正常であることを伝えたいわけではない。仮にそれが伝わったとして、俺のこの何もない日々が劇的に変わることなんてきっとないだろう。それよりも今の俺が彼女に伝えたいことは「カーテンを開けてくれ」なのだ。

 血圧や体温を測り終えた看護師が勢いよくカーテンを開ける。俺は心の中で何度も彼女に礼を伝え、その後は厭きることなく窓の外を見る。

 木々の葉が弱い風にあおられ、光を跳ね返しながら小さく揺れる。ふてぶてしそうなカラスが枝にぼてっと留まり、その黒々とした羽が黒曜石のように光って見える。花も咲かないこの木は何という名前なのだろう。片手だけでも動けばスマートフォンで検索することも可能だっただろうが、今の自分にできることは自らの記憶をひたすら掘り返すことと、視覚を用いて周囲を注意深く観察すること、この二つのみだ。


 現状に絶望するのもひと月ほどで厭きてしまった。どれほど自らの精神を追い詰めたとしても、どれほど自分の未来に希望を抱けなくとも、どれほど死にたくとも、自らの意思を提示できない俺の心情に気付ける人間など誰一人いない。

 きっと皆は俺のことを窓の向こうの木々と同様に考えている。ただ生命を維持し、日々少しずつ老いていくだけの存在。それが彼らの思う俺の全てだ。俺がもう二度とカーテンを閉めないでくれと切望していることにも、あの窓向こうの移ろいだけを日々の癒しとしていることにも、たまに見舞いにくる家族の表情が少しずつ暗く陰鬱なそれに変質していく様を辛いと感じていることにも、頼むから今日が何月何日でいま何時何分なのかを教えてくれと願っていることにも、彼らが気付くことなどないだろう。


 看護師が再び俺に顔を向け、一言二言真顔で何かを伝えて部屋を出ていく。彼女の口の動きをまじまじと見つめても俺がその言葉を理解できるはずはない。せめて叱責や罵倒でなければいい、できることなら「おはようございます」や「いい天気ですね」「またあとできますね」などの優しい言葉であればいいと強く思う。

 再び窓の外を見る。夏の朝、劇物かと思うほどに強烈な陽の光が自身の顔に降り注ぎ、目が潰れそうなほどの刺激を覚える。いつの日かこの両目すら使えなくなったとして、俺は深い暗闇の中、何一つ感じ取れないまま、それでもこうして生かされ続けるのだろうか。

 不意に風が凪ぎ、動きを止めた木から勢いよくカラスが飛び立つ。ほんのわずか揺らいだ枝も、数秒後には何事もなかったかのように静まり、俺は刺すような光を遮るように一度だけ深く目蓋を閉じる。

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