第八話 どうしてこの世界にいるのだろう
小雨は開いていた文庫を机に伏せて腰を上げた。
僕の記憶が正しければ、小雨は中学三年生の姿のままだった。
もう一度だけ言った。
「どうしてこの世界にいるんだ?」
「お父さんとお母さんが愛し合って、お母さんの膣道を通ってきたから」
小雨はいたって真面目な表情だ。
「そういうことじゃない」
「なにが? それ以外の意味ならわからないよ」
隣にいた紺野さんが、ぷくく、と押し殺すように笑った。
「紺野さん?」
「いやー、ごめんごめん。ふたりともすごく真面目くさってたからさぁ、そういう空気弱いんだよね、私」
とにかく坐りなよ、と紺野さんは適当な椅子を引いてきて僕の肩を押して促した。なされるがままに腰を下ろした。
目の前に腕を組んだ小雨が立っている。無表情と笑みの間のような、読み難い表情をしている。
「それで、あなたはどうしてわたしのことを知っているの?」
「僕は小雨と幼馴染だったから。でもそれはそういう設定で……」
「でもあなたの妄想の小雨とわたしは完璧に一致したと」
「うん」
小雨は洋画の俳優のように肩をすくめた。
「ねぇ七叶、このひと狂ってる?」
「狂ってないよ。それだけは言える。もし鶫くんが狂ってるなら、私も狂ってるってことになる」
「あーね」
小雨は自分の髪を撫でながら納得したように何度か小さく頷いた。
「じゃ、まっいっか」
「まっいっか?」
「疑問は棚上げにしておきましょう。いつか棚卸しをするときがくるから」
小雨は意味深なことを言ったが、たぶん言葉で遊んだだけだろう。
「そんな、まっいっか、で片づけられる? 僕が小雨のことを知ってるのって気持ち悪くないの?」
「気持ち悪くないよ。むしろ、昔のわたしを知ってくれているのってありがたいから。まぁ妄想なんだからそれが本当のこととは限らないんだけど……」
「どうして?」
「わたしには記憶がないから。中学三年以前の記憶が」
「それってついこの間のことじゃ」
「そうね」
「えっ、でも紺野さんとは小学校のときに会って、中学はずっと一緒にいたって」
「そうらしいね。わたしも七叶に聞かされて知ってるだけ。変な子だったみたいだね」
「今も変な子だけどね」
紺野さんは赤子を抱く母親のような穏やかな笑みを浮かべた。
「だからわたしは、わたしを作るために七叶やあなたの記憶が必要なの。もちろんそれを演じるわけじゃない。ただ……そうね、小説や映画から他人の人生を仕入れるより、かつて自分だったものから人生を仕入れたほうがいいような気がするの。まず自分がなにをどう思ってどう考えたか。それをルーツにして、今のわたしを作っていきたい」
「そんな重要な役目に、僕の妄想なんかが闖入していいわけないよ」
「でもわたしは、あなたの知っている小雨なんでしょう?」
「そうだけど……。それはフィクションにしかすぎないんだよ」
「わたしにとっては、かつてわたしだったものはすべてフィクションだよ。出来がいいかどうか。ただそれだけが重要なの。七叶がここに連れてきてくれたのは、あなたを信用したから。だからわたしもあなたを信用する。ね、わかった、鶫?」
「あ、うん。わかった」
あ、その言いかた、すごく小雨だ。
「おー、なにかわからないけど話はまとまったみたいだね。よきかなよきかな」
紺野さんは僕と小雨のやりとりを黙って聞いていたようで、話が終わったところにちょうどよく入ってきた。
「鶫くんはどこにも入部してないよね? いっつもすぐ帰ってるから」
「うん、帰宅部だよ。ここってなんの部活なの?」
「あー、部活じゃないんだ。ナラティヴ小会。略してナラショー。はりますか。はいりませんか」
僕は脳裏に浮かんだ二言のうち〈はいりますか〉に丸をした。騙されたような気がした。