第四話 すべてを語りたかった
これは青春です。
どれだけ精細に小雨のことを語っても、外的世界に小雨が召喚されるわけではない。
召喚される場所は、僕の内的世界と、僕の語りを聞いたり読んだりしたひとの内的世界だ。
そして、僕の内的世界と、誰かの内的世界は一緒ではない。語りの余白から想像する事柄に違いが生じるからだ。
もし僕が紺野さんに、小雨の脚の長さは何センチで、髪の毛の長さはこれくらいで、髪の色や肌の色はRGBで示すとしたらこれで、と詳細に語るとしよう。
それ、どこまでやればいい?
あのとき、僕の感じた匂いについて、どう語ればいい?
不可能なのだ。
小雨が僕たちが生きているこの世界に存在していない以上、本当の〈小雨〉を僕以外の誰かと共有できない。
「ねえ鶫くん、聞いてる?」
紺野さんは呆れたような口調で僕に語りかけてくる。
「聞いてなかった。これから聞く」
「いつにもまして上の空だね。さっき難しいこと考えてそうだったけど、そのこと?」
「うん。もしかして僕は、神になりたかったのかもしれない。結論だけど」
「結論だけ言われてもぜんぜん理解できないなぁ。数学でも答えだけ言ってもなにも意味がわからないでしょ。過程があって結論があるから私たちは意味を読み取る。もし結論だけがそこにあるのなら……あれだよ、42」
「その他もろもろについての深遠なる疑問の答え?」
「その他もろもろについての深遠なる疑問の答え」
「紺野さんって『銀河ヒッチハイク・ガイド』読んだことあるんだ。あ、映画?」
「読んだし映画も観たよ」
「好きなんだ」
「私はおもしろいものが好き」
「結論?」
「結論」
紺野さんは意地悪そうな表情で言った
「どうしておもしろいものが好きなのか知らないと意味がわからない」
「そうでしょう?」
「でも人間はおもしろいものが好きなものだと思うけど」
「えいっ」
紺野さんはおもむろに持っていた箸を投げた。プラスチック製の箸は、二段目で跳ね、一段目を飛び越えて、廊下の遠くまで転がっていった。
「なにしてるの?」
「おもしろかった?」
「今の、えいっ、って言いかたが可愛かった」
「そこ? 箸が転んでもおかしい年頃でしょ?」
「それ女子高生だけの話だと思うけど。なんか唖然とした」
「そっか。人間はおもしろいものが好きなものだって言ったから、これも笑ってくれるかと思った」
紺野さんに箸を拾いにいく素振りがなかったので、僕が代わりに取りに行った。戻ってこようとすると紺野さんは手掴みでおかずを食べているようだった。
「なにしてるの!?」
「お箸汚しちゃったから」
「洗ってくるから待ってて」
幸い水道はすぐそこにあった。ぴゃっと洗って帰ってくると、紺野さんのお弁当箱はもう空っぽだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女はなぜか得意げな表情で料理で汚れた手をハンカチで拭いていた。綺麗になった右手に洗ってきた箸を握らせてあげる。
紺野さんは箸を受け取るとお弁当箱と一緒に仕舞いこんだ。なんの意味もなかった。
「あまりおもしろくなかった? シュールコントとして」
「シュールコントとしてはおもしろかったかもしれない」
「でしょう」
紺野さんは満足げに笑った。
「でもシュールコントはゲラゲラ笑うんじゃなくて、ニタニタ笑うものじゃない?」
「心が笑っていればそれでいいよ。鶫くんはいつも心が泣いているから」
「なんでわかるの?」
「わかるよ、隣の席だから」
「そんなに顔に出てる?」
「わざと出してるのかってくらい」
たしかに、わざとというのは当たっているかもしれない。小雨のことを考えるのをやめるのは、自分でどうとでも決められるから。
「そう……。じゃあやっぱり紺野さんは、翳のある男が好きなんだ」
「んー、ちょっと違うかな」
「……じゃあ、もしかして僕がおもしろいから?」
「うん。鶫くんはおもしろいよ。変だし」
「変かな」
「たぶんね。私もたぶん変なんだと思う」
「おもしろそうだからって理由だけで、僕みたいなやつにかまっちゃうから?」
紺野さんは、目を細めて艷やかな笑みを浮かべた。
「だとしたら、どうする? まだ私とお喋りしたい?」
何か決定的な部分で間違ったのか、それとも正解したのか、そのどちらかだと思うけど、どちらなのかはわからなかった。
ただ、紺野さんの声色と表情は、僕をその場に釘付けにした。
そしてこの瞬間だけでなく、この先、未来永劫にわたって、僕は〈紺野さん〉に縛られ続けるであろうという予感がした。