第一話 小雨
ノリ
雨が降ると幼馴染だった小雨のことを思いだす。あいつを失ったのも梅雨の時期だった。
あいつは昔から身体が弱かった。保育園のときから体調が悪くても隠そうとするやつだったから、なにか異変があったらすぐにわかるように気をつけていた。
たとえば、熱っぽそうな表情を指摘すると、大丈夫、これくらいなんともないから、いつものことだもん、と強がる。でも多くの場合は大丈夫じゃなくて、最終的には彼女の両親や僕や僕の両親に看病されることになって、ごめんね、と謝るのだった。
小雨のそれは周囲に迷惑をかけたくないといういじらしさの表れでもあった。僕は彼女のそんな性格が好きだった。
そうやってずっと気にかけたり気にかけられたりしていたから、いつの間にか惹かれ合っていたのだろう。
小学四年生の夏祭りの日に告白をした。小雨の好きな少女漫画をなぞった。
僕たちの恋は拙かった。でもそれはそれは純粋なものだったと思う。性欲というものにまだ気がついていかなかったし、帰り道にみんなと別れてから手をつなぐだけでも、禁忌を犯しているみたいに感じていたからだ。
でも、幸せは長くは続かない。
今まで入院するほどの症状は出ていなかったのに、中学に入ってから大きく体調を崩すようになった。ひと月入院し、退院してしばらく中学に通い、また入院する。そんなだから僕以外に仲のいい友達はできようもなかったし、僕だって放課後は小雨のお見舞いにかかりきりなので、仲のいい友達はできなかった。
僕たちはそれでよかった。いや、小雨はどう思っていたのかはわからない。たぶん申しわけなく思っていただろう。でも僕はそれでよかった。小雨と一緒にいられたらそれでよかったのだ。
小雨はだんだんと気弱になっていった。死が脳裏にちらつくのだろう。
病院から歩いて十五分くらいで海だったから、すこしだけ遠出できる体調のときは、いつも海辺まで連れていった。
海岸堤防に腰掛け、ただただまったりする。話すことはなにもない。学校のことを話せば、うまく学校に通えていない小雨に申しわけない。将来のことを話せば、死に敏感になっている感情を刺激してしまう。
だから、ただ海を眺めながら、夏の日は冷たいソーダを、冬の日は温かいココアを一緒に飲んだ。
たまに犬の散歩をしているひとや、僕たちよりも年上の、大学生とかのカップルとかに話しかけられたりして、そういうときだけ楽しく話せるのだった。
君たちはつき合ってるの?
ええ。
でもなんだか、熟年夫婦みたいだね。
一緒にいる時間はとても長いですから。
もう十四年になるね。
それじゃあ生まれたときから一緒なんだ。運命なんだね。
そうですね……運命なんですよね……。
小雨はそのときの大学生のお姉さんに言われた〈運命〉という言葉についてどう感じたのだろう?
残酷な運命だ。
☂
中学三年の梅雨。小雨の入院期間は最長を更新していた。海へでかけられないくらい、体調は悪かった。
髪を切れなかったので、小雨の髪はボブカットから、ミドルボブ、ロングボブくらいまで伸びた。
小雨はボブがよく似合っていたけど、長くなった髪型は大人っぽくて、それもそれで魅力的だった。
でもその大人っぽさが、人生の儚さを身にまとっているようで、入院中の小雨をみるたびに切なくなった。
小雨の体調が急によくなった日があった。運命の日だ。
小雨はもうそんなことはありえないだろうと思っていたようで、僕にこうせがんだ。
海につれてってよ。
雨が降ってる。
彼女の言うことが聞けないの?
珍しく小雨はわがままを言った。僕たちは傘を差して海に行った。
雨が降っているからいつも坐っている堤防は使えず、屋根のついた休憩所スペースに坐った。あまり見晴らしがよくない。
そこで僕たちは初めて未来の話をした。
もし子供ができたら、海にまつわる名前をつけたいな。
たとえば?
海とか。
まんまじゃん。
じゃあ他になにがある?
帆波とか。
女の子前提だね。
中性的なのがいいの? 僕は男の子だったら男の子っぽい名前がいいな。僕がそうじゃないから。
うーん、じゃあ鴎太郎とか? カモメの字を使って。
いいね。僕の名前も鳥から来てるからね。
うん。
泣きそうになった。そのときになって、この夢は絶対に叶わないと悟った。小雨は、自分の死期が近いと理解していると感じた。
小雨は傘を持たないまま、雨に打たれながらいつもの場所へと向かった。僕は慌てて傘を持って追いかけた。
小雨は堤防に立った。
「小雨だね」
「名前の通りだ」
「私の生まれた日が小雨だったらしいよ」
「いつ聞いても安直すぎるネーミングだよな」
「でも、この名前でよかった」
「どうして?」
「運命だからだよ」
僕たちは、思い出の場所で、初めてキスを交わした。雨に濡れていて、でも熱かった。
「ねえ、抱きしめてよ」
言われるまでもなかった。
小雨の身体は雨に冷えているかと思った。違った。火傷しそうなほど熱かったのだ。
「ごめんね。私、全然体調よくないんだ。むしろずっと悪くなってる」
「帰ろう」
「ううん。もうちょっと」
雨に流されているはずなのに、腕のなかにいる小雨からとてもいい匂いがした。
もう長年一緒にいるから嗅ぎ慣れて忘れてしまった懐かしい匂いだ。
もしかしてそれは、死臭というやつだったのかもしれない。
その日、小雨はあの世に行った。運命の日だったからだ。
それから雨が降るたびに小雨のことを思いだす。呪いみたいに。
☂
そうやって小雨のことを考えながら、雨の降る日は頬杖をついて外の様子を眺めるのが日課だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
化学の先生はすべてがめんどくさいようで、終わりの礼を欲さない。立ち代わりで担任がやって来て、SHRがはじめる。
すぐに帰りたいひとばかりだから、担任がなにかしらのプリントを持っていた場合、日直のふたりがすぐに引ったくって、迅速に配っていく。
だからSHRは、ぼうっと外を眺めているだけですぐに終わった。
みなが帰り支度をする音が聞こえてくる。でも腰が重かった。
本当なら、小雨が一緒に帰ろうと言ってきてくれるはずだったのに。あいつは存在しない。
でも窓側の隣の席の紺野さんが話しかけてきたことで、僕の完璧な日々が始まる。
「雨が降るたび悲しい顔をしているけど、どうしたの?」
恋人を失ったんだ。