(7)
その後、体調が回復した瀬里と共に、涼は民宿近くの共同浴場に向かった。
歩いて十分ほどの所にある共同浴場は、源泉かけ流しの湯はもちろん、石造りの露天風呂も気持ちよかった。湯に浸かったことですっきりしたのか、瀬里もすっかり元気になったようだ。
夕食の時間もあるので長湯をせずに上がり、ロビーに向かう。すると、ロビー横の小さな土産物コーナーで、天利と那岐が土産物を物色しつつ涼達を待っていた。
「女の子だけで夜道を歩くのは危険だからね」
と言う天利を過保護と思った涼だったが、外に出て考えを改める。
共同浴場は人家のある通りから山に入った場所にあり、外灯もほとんど無いせいで、日が完全に沈むと辺りは本当に真っ暗だった。町中にはない、夜の闇。藪と道の境目が黒く滲んで見えないくらいだ。
少し歩けば通りに出られるのだが、この夜道を歩くのはたしかに怖い。準備のいいことに懐中電灯を持ってきていた那岐が先頭に立ち、四人で民宿への道を行く。
六月だが、やけに空気は冷たくて寒い。標高が高いせいか、林の中のせいか。上着を持ってくるべきだったと冷えた腕を摩っていると、隣を歩く天利がカーディガンを差し出してきた。
「みたらしさん、よかったらどうぞ」
「え……」
珍しく親切にされて、涼は思わず不審げに天利を見上げる。失礼な涼の反応に、天利は小さく噴き出した。
「そんな顔しなくても。風邪を引かれても困るしね」
「す、すみません……ありがとうございます」
謝罪と礼を言ってカーディガンを受け取ったものの、袖を通す勇気は無く肩に羽織った。
気づけば瀬里と那岐は二人並んで先を歩き、何やら楽しげに話している。涼も彼らに混ざりたかったが、ここで天利一人にするのは何だか気が引けた。カーディガンの借りもある。
しかし一体何を話せばいいものか。
妙なプレッシャーに駆られた涼は、そういえばと民宿で聞いた女将と男性の会話を天利に話した。もっとも、自分も少ししか聞き取れなかったから話せることは少ない。
「夏が来ないとか、シキの家とか、意味はよく分からなかったけれど……先生って福本教授のことだと思うんです。女将さん、福本教授のこと知ってるんじゃないでしょうか?」
「知ってはいるだろうね。何しろ、この地区にはあの民宿くらいしか泊まるところがないんだから。福本教授が滞在していたんじゃないかな。……でも、そんな会話を彼らがしていたのだとしたら、教授の失踪についても何か知っていそうだね。直接尋ねたところで答えてはくれなさそうだけれど」
天利は淡々と答えた。
「気になるのは……『シキの家』かな」
「シキって何でしょう? 人の名前とか……」
志木、志岐、式、色、四木……。
ここは四木山地区というから、もしかしたら『四木山』を省略してシキと呼んでいるのかもしれない。あるいは……
「あの、まさか屍の鬼って書くやつじゃ……」
読んだことのある長編小説に出てくる、吸血鬼やゾンビのような人外の名を出すと、天利は目を瞠った。
「ああ、たしかにそれも『シキ』だね。あの小説でも、確か外界から隔離された独自の因習が残る村のことが書かれていたなぁ。実在するのだったら、ぜひとも調べに行きたい村ではあるけれど」
天利はくすくすと笑った後、首を横に振る。
「でも、話に出てきた『シキの家』はそれではないと思うな」
「どうしてですか?」
「君は、檜枝岐昔話集を読んだことはある? 南会津郡で採集された民話をまとめた論文なんだけど」
「え? ええと……」
研究室に入りたての涼は、まだ実際に研究を始めているわけではない。そもそも師事する福本教授がいないのだ。天利が代理の指導教員ではあるが、苦手意識のあった涼は彼に研究内容の相談ができていなかった。講義で東北の民話や伝承をやっていたから、その中で聞いたはずだが……。
思い出せずにいると、前方で話していた瀬里が振り返った。
「……あの、檜枝岐ですか? 確か福本教授が雑誌持っていたはずですよ。『あしなか』だったかな。私も読んだことあります」
「え、何、二人とも研究の話してんの? 真面目だなぁ」
そう言いつつも、那岐も振り向いて近づいてきた。なになに、と瀬里も那岐も引き寄せられるように会話に入ってくる。
さすが研究の先輩たち……と感心していた涼は、冷たい風に鼻をくすぐられて小さなくしゃみをしてしまった。
夜道に響いたくしゃみに、天利が苦笑する。
「湯冷めしてしまったね。早く宿に戻ろうか。話はご飯の後で」
夕食は山の幸、川の幸をいかした郷土料理だった。
いろいろな山菜の煮つけの小鉢に、きのこがたっぷり入ったきのこ飯。野菜と鶏肉、そば団子が入った味噌汁に、野菜とイワナの天ぷら。そして、名物の裁ちそば。つなぎを使用していないそうで、普通のそばよりも風味が強くて美味しかった。
天利は一人で二人前の量を平らげており、皆呆気に取られていた。この間もロールケーキほぼ一本分を軽く食べていた天利は、なかなか大食いのようだ。
「よかったら自家製のグミ酒はいかがです?」
気持ちよく食べる天利に女将さんはにこにこ顔で、赤い蓋のガラス瓶を持ってくる。
「グミ酒って……えーと、グミを漬けてんですか?」
那岐は少し眉を顰めて、ガラス瓶の中を見る。それを見た瀬里がおかしそうに那岐に声を掛ける。
「那岐君、もしかしてお菓子のグミと勘違いしてる?」
「え、グミってそれしかないでしょ?」
「違うわよ。グミの実って知らない? 細長い楕円形のさくらんぼみたいな果実よ。赤くて小さいの」
「あ、私食べたことあります」
涼は小さく挙手した。
昔、祖父母の家に五月の連休に遊びに行ったときに、友達とよく集めたものだ。
表面は少しざらざらしているけれど、赤い宝石のような輝きと形で可愛らしいのを思い出す。食べると甘酸っぱくて、普段食べる果物とまったく違うその感覚に、なんとなく特別な感じがしたのを覚えている。もっとも、特別だと思ったのは、隣に座って食べていたその友達が、涼にとって特別な人だったからかもしれないが。
「へえ、俺も食べてみたい」
「時期は過ぎたけど、まだ生っている木があるかもしれないから、見つけたら明日の夕食に出しますよ」
女将は快く言うと、グミ酒を小さなグラスに注ぐ。ほんのりとピンク色のそれは、かすかな果実の香りがした。
それぞれグラスを手にした時、天利が口を開く。
「そういえば……女将さん、この辺りの集落に伝わっている昔話とかありますか?」
「え?」
「実は僕ら、大学の民話サークルの者で、会津地方の民話や伝承を調べているんです。ぜひともお話を伺えればと思いまして。確か神隠しの話があるとか……酒の肴にお願いしても?」
「……」
女将の頬がわずかに強張る。しかし、すぐに取り繕った笑顔で隠されてしまった。
「そんな、あたしなんかじゃ、大した話もできませんよ。どこにでもあるような昔話です。……ああ、そうだ、片づけをしなきゃならないんで、あたしはそろそろ戻りますね」
そう言って、女将はそそくさと食堂の奥に引っ込んでしまった。