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(6)

 コンクリートで舗装された道路をしばらく進むと、道沿いにぽつぽつと民家が見えてきた。やがて、大通りのような場所に出る。もっとも、大きなビルが立ち並んでいるわけもなく、普通の民家や小さな個人商店が二十軒ほど、道路の左右に並んでいるだけだ。


「コンビニは……ないかー」


 那岐なぎが少し残念そうに言う。


 檜枝岐村ひのえまたむらは四方を山々に囲まれており、村の面積の九割以上を林野が占め、日本一人口密度の低い市町村と言われているそうだ。もっとも、隣の群馬県との境には尾瀬国立公園があり、平家の落人伝説や檜枝岐歌舞伎、山人やもーど料理などが有名で観光化が進んでいる。


 しかし、尾瀬や村の中心部から離れた四木山しきやま地区には、めぼしい観光地はなく、立ち寄る人間はほとんどいないようだ。

 尾瀬の近くには多い民宿も、四木山地区にはかろうじて一軒。大通りから少し離れた場所にある二階建ての建屋は、普通の民家のように見えた。

 白い壁に、赤錆色の屋根。『民宿・食堂 しき野』と書かれた看板が家の横に掲げられている。


 隣の駐車場に車を停めて、それぞれ荷物を手にして降りる。瀬里は途中休憩で少し体調が回復したらしく、一人で歩けるようだ。彼女の荷物を涼と那岐で分けて持ち、天利が先頭に立って民宿に入った。

 摺りガラスの格子戸を開けて入ると、そこは昔ながらの食堂のような場所だった。古びたカウンターに、テーブルが四つ。壁には『山菜そば』や『キノコ飯』などのメニューの、色褪せた紙が貼られている。

 天利が声を掛けると、「はーい」と声が響き、カウンターの奥から女性が現れた。

 濡れた手を拭きながら顔を出したのは、六十代くらいの年配の女性だ。丸顔に、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。


「あら、いらっしゃいませ。もしかしてお泊りのお客さん?」

「はい。予約していた天利と申します」


 出てきた女性、この民宿を経営する女将さんだった。カウンターの下から取り出したノートを見ながら「天利さん……ええと四名でお泊りね」と確認する。


「二泊三日、朝食夕食付ですね。部屋は二階の和室、二部屋を用意してますよ。じゃあ、こちらの宿帳に記入を……」


 説明していた女将は、カウンター越しに天利を間近で見上げ、ぽかんとする。「あらまあ、イケメン。モデルさんみたい」と臆面もなく褒める彼女に、天利もにこやかに「ありがとうございます」と返した。

 天利が帳面にさらさらとボールペンを走らせる。

 天利の後ろにいた涼は、その様子を何とはなしに眺めていた。ふと、彼の腕の間から見えた文字に内心で首を傾げる。見間違いだろうか、天利の名前が『優鷹』ではなく『良鷹』と記入されていた。

 よく見ようとしたが、すでに天利は涼を含めた四人分の名前を記入して、女将に渡してしまっている。

 女将は宿帳と引き換えるように、鍵を二つ差し出した。


「こちらが部屋の鍵です。食事はこちらの食堂で用意しますんで、時間になったら降りてきて下さいね」


 少し砕けた口調で朝食と夕食の時間を告げつつ、女将は「ああ、それと」と言葉を足す。


「お風呂は一階に共同風呂があるけれど、近くにいい公衆浴場があるの。源泉かけ流しで、露天風呂もあっておすすめよ」

「え、温泉ってこと? やった! 行きましょうよ、先生!」


 温泉だ、と那岐のテンションが上がる。その無邪気な様子に、女将は目元の皺を深めて微笑む。


「歩いて五分くらいだから、よかったらぜひ。割引券もあるから、行くときは声かけて下さいね」

「はい、行きます!」

「那岐先輩、その前に荷物を……」


 今にも温泉に向かいそうな那岐を止め、涼達はひとまず二階へ向かうことにした。

 食堂の横から二階に上がれるらしく、古びた艶のある木のかまちと深緑の暖簾が、内と外を分ける境界となっている。

 靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いて暖簾をくぐった。暖簾の先には短い廊下があり、男女別のトイレや風呂がある。その先の踏板の狭い急な階段を上がると、まっすぐ伸びた廊下があった。廊下の右側に部屋が一列に並び、左側には窓があって夕刻の光が差し込んでいる。

 部屋は全部で四部屋あるようで、涼達の泊まる部屋は奥の二部屋だった。

 部屋の鍵につけられた古い木のホルダーと、部屋の上に掲げられたネームプレートに、それぞれ『春』『夏』と黒い文字で書かれている。


「さて、部屋割りはどうしようか?」

「男女別です」


 冗談か本気かわからぬ天利の問いかけにスパッと返し、涼は瀬里と一緒に奥の『春』の部屋の方に入った。

 扉を開けると、そこは六畳くらいの部屋だった。日に焼けた畳の上にちゃぶ台と座布団二つ、小さなテレビなどが置いてある。

 ひとまず部屋の端に荷物を置いていると、隣の部屋からガラッ、バタバタ、バタンッ、と騒がしい音がした。廊下の方からは「じゃ、俺、割引券貰ってきますっ」という声が聞こえてくる。


「那岐先輩、温泉行く気満々ですね」

「そうね」


 苦笑する瀬里の顔色はまだ白っぽく、体調が万全でないのが見て取れる。


「瀬里先輩はお風呂どうします?」


 涼が尋ねると、瀬里は荷物を置きながら、ふうと大きく息を吐いた。


「せっかくだから行きたいけど……少し休んでからでもいい?」

「もちろんです」


 座布団を枕にして横になる瀬里に、涼は頷いた。今は五時半で、夕食は七時から八時の間に食堂に行けばいいので、時間はまだ十分にある。

 瀬里が休んでいる間、涼は一通り荷物を整頓する。途中の南会津町のスーパーで買ったミニチョコの大袋を、ちゃぶ台の上に出しておいた。

 温泉に入る前に甘いものを食べるといいとか、何かの番組でやっていた気がする。たしか乗り物酔いにも甘いものが効いたような……とスマホで調べようとしたが、ネットの繋がりが悪く、なかなか検索できない。

 涼が調べるのを諦めたとき、部屋の扉がノックされた。廊下に出ると、お風呂セットを抱えた那岐と天利がいる。

 那岐は意気揚々と誘ってくる。


「割引券貰ってきたから、温泉行こう!」

「あの、私、瀬里先輩の体調が良くなってから一緒に行こうと思って」


 瀬里の状態を告げると、那岐はそれなら一緒に待とうかと言ったが、先に行っててもらうことにした。待たせてしまうと逆に気を使いそうだ。

 割引券を二枚もらって二人を見送った後、涼は持ってきた文庫本を読みつつ、瀬里が起きるのを待った。

 セロファンに包まれたミニチョコをつまんでいると、喉が渇いてくる。ペットボトルのお茶などはスーパーで買ったが、今は熱いお茶が飲みたい気分だ。

 旅館やホテルだと部屋にポットが置いてあることが多いが、この部屋には無かった。ちゃぶ台の上に置かれた民宿の案内を見ると、ポットや急須などは頼めば貸してくれるらしい。

 涼は瀬里を起こさぬようにそっと部屋を出て、そのまま何となく足音を忍ばせて一階に降りた。

 深緑色の暖簾をくぐろうとしたとき、ふと誰かの声が聞こえてくる。


「――やっぱり『夏』は来ないのかい?」

「ああ、『春』は過ぎたけど、このままじゃ――」


 ぼそぼそと途切れ途切れに聞こえる声は、民宿の女将のものと、知らない男性のものだ。

 いったい何の話をしているのだろう。春と夏……今日涼達が泊まる部屋の名前と同じだ。でも、『春』の部屋も『夏』の部屋も、客は来ているだろうに。

 足を止めた涼の耳に、会話の続きが届く。


「――次の人を行かせた方が――」

「でも、あの先生はシキの家に入ったはず――」


 先生という言葉に、涼の頭を一瞬よぎったのは福本教授だ。

 四木山地区でフィールドワークをしていた福本は、一軒しかないこの民宿に滞在していのではないだろうか。女将や男性は福本について、何か知っているのかもしれない。

 気になった涼は彼らに尋ねてみようかと思ったが、聞こえてくる声は深刻そうで、割って入る雰囲気ではない。涼が行こうか迷っている間に、男性が「そんじゃあ行くわ」と暇を告げてしまう。


「――を貼っときゃ、あとは――サマがお招きするだろう」

「そうねぇ……」


 最後にそう交わしつつ、男性は立ち去ってしまった。

 そうなると、今さら食堂に出ていくのも何となく出づらい。本来の目的だったポットを取りに行くのも断念した涼は、そろそろと二階に戻ったのだった。


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