(5)
その集落は、福島県の南会津郡にある。
天利の運転するミニバンで、東北自動車道と国道、最終的にはナビ頼りで山道を走り移動する。五時間ほどかけて辿り着いたのは、南会津町と檜枝岐村の堺にある、山間の小さな集落だった。
合併されて檜枝岐村となってはいるが、かつての村名である『四木山』が地名で残っている。『四木山』と書かれた、バス停留所の錆びた看板を横目に通り過ぎ、ミニバンは近くの空き地に停まった。
運転席の天利が、涼のいる後部座席を振り返りながら言う。
「少し休憩しようか。民宿の場所も確認したいし」
「そうっすね」
相槌を打ったのは、助手席にいた青年だ。彼は那岐宗太。福本研究室に所属する学部四年生で、涼の先輩だ。
金色に染めた髪にたくさんのピアスという、少々近寄りがたい見た目の彼もまた振り返り、涼とその隣を見やる。
「葉山さーん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫……」
くぐもった声の返事に、那岐は「うわぁ」と眉根を寄せる。
「それ絶対大丈夫じゃないですよね。あ、自販機あるんで、何か買ってきます」
ドアを開けて車から降りた那岐は、軽い足取りでバス停横の自販機へと駆け出した。
その後ろ姿を見送りつつ、涼は窓にぐったりと寄りかかっている瀬里の背をさする。
「瀬里先輩、動けそうですか? 外に出たら、少しは気分良くなるかもしれませんよ」
「そうね……ごめんね、涼ちゃん……」
まさかこんなに酔うなんて、と瀬里は眼鏡を外した白い顔で苦笑を浮かべる。油断して酔い止めを飲むのを忘れたせいかも、と弱々しく答えた。
ふと、瀬里の寄りかかる窓が軽く叩かれる。いつの間にか外に出ていた天利がゆっくりとドアを開いて、瀬里に手を差し出す。
「ごめんね、葉山さん。僕の運転が荒かったね」
「いえ、そんなことは……」
「一人で降りられそう? よかったら抱えようか?」
天利はことさらに優しく瀬里を労わる。瀬里の腕を支えながら車から降ろす天利が、涼へと視線を向けた。
「みたらしさんは……うん、平気そうだね。さすがだ」
何がどう“さすが”なんだ。
それに『みたらい』と修正したい……ところだが、今は言い辛い。具合の悪い瀬里の前でひと悶着起こしたくない。
涼は口を真一文字にして天利から目を逸らし、反対側のドアから降りた。
車酔いはしていないが、足を伸ばしたい。二時間ほど乗りっぱなしで山道を走ってきたせいか、身体が強張っている。
伸びをしながら、涼は辺りを見回した。
時刻は午後五時を少し過ぎた頃。六月に入って日が長くなったとはいえ、山の中は日が暮れるのが早い。赤く染まる空の下で山の影は大きく暗く、夜の訪れを知らせてくる。
誰もいない空き地に喧騒などあるはずも無く、聞こえてくるのは草むらに潜む何かの虫の声だけだ。ここが都会ではなく山村なのだと、実感が湧いてくる。
――まさか本当に、福本教授を探しに来るなんて。しかもこんな急に。
天利に『福本教授を探しに行こう』と言われたのは、つい二日前のことだ。
涼に半ば無理やり行く約束を取り付けたうえ、天利は『それじゃあ、今週の金曜日に出発だから。二泊三日で』と無茶苦茶な日程を告げてきた。
そして天利は、研究室の他の学生にも声を掛けた。もっとも、いきなり二泊三日で福島まで行くと言われても、皆それぞれ予定がある。
何とか都合をつけられたのが、院生の瀬里と四年の那岐だったのだ。天利と二人きりにならずに済んだのは不幸中の幸いというべきか。
そうして今日、午前の講義を終えた天利と駐車場で待ち合わせ、午後からミニバンで移動――交通費を天利が全額負担すると言ったため、電車や新幹線を使うよりも安く済む車移動になった――してきたわけだ。
『僕ならきっと、福本教授を探し出せる』
天利は自信満々に言っていたが、本当に福本を探し出せるのだろうか。
涼は、福本が神隠しに遭ったという山――どの山なのかは全然見当がつかないが――を見上げる。
聳え立つ山々は、まるで大きな影だ。黒い化け物のようにも見えてしまう。少しずつこちらに迫っているような錯覚を覚えて、自分の想像に背が寒くなった。
気を紛らわすように、涼がえいっと足元の草を軽く蹴り上げた時、頬にひやりと冷たいものが触れる。
「ひゃっ!」
慌てて振り返ると、那岐が缶ジュースを手にして笑っていた。
「あはは、驚いた?」
「おっ、驚きましたよ、もう……」
「ごめんごめん。はい、団子ちゃんの分」
「ありがとうございます。……そして団子ちゃんって何ですか」
那岐からお茶の缶を受け取った涼は、礼を言いつつも不服を申し立てた。那岐は缶のプルタブを開けながら答える。
「ほら、天利先生がいつも“みたらしさん”って呼んでるじゃん? だから、みたらし団子の“団子ちゃん”で。いつもお団子頭だし」
「……」
ああ、みたらしの弊害がここに。
ぐっと臍を嚙む涼に、那岐は「それに」と言葉を続ける。
「『山で本名を呼ばない』ってルールもあるしね」
「え?」
「俺、研究テーマでいろんな迷信調べてるんだけどさ。山の中で本名を口にすると、化け物に狙われて攫われて、二度と戻ってこられないんだってさ。ほら、昔の人は本名以外に『米屋』とか『呉服屋』とか屋号で呼ばれることが多いじゃん。『越後屋、お主も悪よのう』みたいに」
那岐は悪代官の口調を真似てみせる。涼は思わず吹き出してしまった。
「なんかそれ、少し違うんじゃ……」
「え、そう? ま、とりあえず昔の人々にとっては、山は恐ろしい所でさ。通常では考えられないような不可思議なことが起こる場所なんだ。そうそう、山に住む化け物は、前からじゃなくて背後からそっと近づいてくるんだって。だから、山で誰かに名前を呼ばれても、後ろを振り返ったらいけない。化け物に攫われるか、それとも……」
おどろおどろしい言い方をする那岐に「そんな、まさか」と涼は返しつつも、腕には鳥肌が立っていた。
涼の様子に気づいているのかいないのか、那岐はからりとした顔で「ま、迷信だけどね」と話を終わらせる。
「それよりさー、ここの自販機すごいよ。横一列全部お茶! でもって、全部で六種類くらいしかねぇの。カフェオレどころかコーヒーもなかった。しかも三分の二は売り切れ状態!」
ほらほら見て見て、と那岐はわざわざ撮った写メを見せてくる。
明るい話題になったところで、「そろそろ行こうか」と天利の声がかかった。