(2)
それは、一か月前のことだ。
「涼ちゃん、大変なことになったわ」
春休み明けの四月初め。
涼が福本研究室に入るなり、瀬里が告げてきた。
「どうしたんですか、瀬里先輩。学会の申し込みを忘れたとか……?」
涼は学部二年の頃から福本研究室に顔を出しており、すでに瀬里とは顔なじみになっていた。
気さくな瀬里は研究室の姉御的存在で、皆から慕われている。だが、理知的な見た目と反して少し抜けたところもあり、学会やレポートの締切りをうっかり忘れて焦る姿や、図書館で借りた本の期限ぎりぎりで返却しに走る姿を時々見かけた。
「え? 申し込みの期限って四月末じゃなかった? うそ、ちょっと待って、一応確認を……って、そうじゃなくて!」
瀬里は自分のデスクに重なったプリントの束を漁りかけるが、すぐに涼の方を振り返る。
「福本教授が、行方不明になったって!」
「……え?」
福本教授は民俗学を専門とする、この研究室の指導教員だ。
温厚で博識な人で、涼にとって敬愛するおじいさんのような存在である。
民話や昔話に興味があった涼は、一年の時に彼の講義を受けた。東北地方を中心とした各地の民俗と歴史、伝わる民話や昔話などに関する講義はとても面白かったものだ。
涼は二年でも彼の別の講義を受けて、レポートを提出するついでに研究室に顔を出すようになった。
福本は普段は落ち着いているが、民俗学の話をするときは子供のように目を輝かせる。話を聞いている涼も楽しくなって興味は深まり、二年後期のプレゼミでは第一志望に彼の研究室を選んだ。そうして、三年から福本研究室への所属が決まったのである。
いよいよ研究室生になったと思った矢先の出来事に、涼は言葉を失う。
福本は御年六十歳ながら、現地に赴くフィールドワークを好んでいた。各地の奥深い山村に滞在し、民話や昔話を収集するのだ。
春休み前に、長期休暇を利用して東北地方を回ると彼から聞いていたが、まさか行方不明だなんて。
涼は慌てて瀬里に詰め寄った。
「ほっ、本当なんですか!?」
「本当よ。学部長から連絡があったの」
学部長の話では、福本は三月初めから、二週間ほどかけて福島県や宮城県などの山村を回っていたそうだ。家族には二日に一度連絡を入れていたが、その連絡も途中で無くなり、二週間経っても戻ってこない。
旅慣れた福本は旅程を変更することは度々あったし、電波の入らない山村に籠って連絡が取れなくなることもよくあったそうだ。だが、そんな時は前もって連絡が入るのに、今回に限って突然ぷつりと連絡が途絶えたらしい。
さすがにおかしいと思った息子が捜索願を出したが、四月になっても福本は戻ってこなかった。
連絡を受けた大学側は、内密に研究室の学生を呼んでその旨を知らせた。もっとも、研究室に入りたての三年生は除外されたようだ。
大学側は福本の行方について何か手掛かりはないかと聴取もしており、緘口令が敷かれているらしい。だが、もうすぐ新年度の講義も始まるため、近いうちに学生の知るところとなるだろう。
「それで……この研究室の存続も、難しいかもって」
瀬里が顔を曇らせる。
確かに、指導教員がいなくては研究室が成り立たない。そうなると、学生は他の研究室に異動することになる。
だが、三年の涼はともかく、修士課程でより専門の研究を行い、論文のテーマも固まってきた瀬里にはなかなか難しい話だ。
一応、民俗学に関する研究室は他にもあるのだが、そこはアジア圏の民族や文化の研究が中心で、福本研究室と少し方針が違う。また、そこの教授が福本と折り合いが悪いこともあって、受け入れてくれるかも難しい。
そもそも、福本は無事なのだろうか。
何か事故に遭ったのか、山の中で遭難とか……。
最悪の想像をしてしまった涼は、よほど不安な顔をしていたのだろう。瀬里は元気づけるように涼の肩を叩く。
「きっと大丈夫よ! 福本教授、ひょっこり戻ってくるかもしれないし。それに、代理の指導教員を探すって学部長も言っていたから、研究室が廃止になるって決まったわけじゃないわ」
一番不安なはずの瀬里の励ましに、涼も落ち込んでばかりはいられない。
「そうですよね!」と、何とか笑顔を作って返した。
その三日後、福本研究室に学部長から連絡があった。
福本教授が見つかった……ではなく、代理の指導教員が決まったと。
そうして、講師の天利優鷹が福本研究室にやってきたのだ。
***
天利は、福本が受け持っている講義の代理も兼ねて急遽雇われた非常勤講師だ。もともと、別の大学で助教をしていたそうで、そこの教授の紹介で来たらしい。
彼のおかげで、福本研究室の廃止は免れた。福本の不在も、行方不明ではなく病気のための療養と名目がつき、事実を知るのは学部長を含む大学関係者と研究室の学生だけとなった。
そうして学生達は無事に研究を進めることができているが――
涼は、天利のことがどうも苦手だった。
初めて彼が研究室に来たとき、他の女子は若い彼にきゃあきゃあと喜んでいたものだが、涼はただただ緊張した。
天利がイケメンだったからではない。何というか『蛇に睨まれた蛙』のような、天敵に出くわしたような心持ちになったのだ。
最初は気のせいかと思ったが、彼と接する機会が増えてから、反射的に警戒する自分がいることに気づいた。
苦手意識が付いてしまってからは、できるだけ彼を避けているが、相手は研究室の指導教員。避け続けるわけにもいかないし、天利はなぜか妙に雑用を涼に押し付けてくる。荷物運びやレポートの回収など、涼を見つけると用事を言いつけるのだ。しかも、わざわざ名前を呼び間違えて。
警戒する涼の態度に気づいていて、意趣返しのつもりなのか。
周囲に相談したくとも、天利は他の学生には非常に受けがいい。男子にも女子にも愛想が良く、講義も面白いと評判だ。むしろ、警戒する涼の方がおかしいと言われそうだ。
涼の愚痴を聞いてくれるのは瀬里くらいだったが、その瀬里も天利の研究指導は良いと褒めていた。
天利が嫌だからと、研究室を異動することもしたくない。ただ、早く福本が帰ってきてくれることを、涼は願うばかりだった。