第一話 シキの家(1)
「あ、ちょうどいい所に “みたらし”さん」
「“みたらい”です」
呼び止められた御手洗涼は、振り返りざま己の名前を訂正した。
果たして何度目のやり取りだろうか。通算二十回まで数えたところで飽きて――というか呆れて、カウントするのを止めた。
毎度毎度『みたらい』と言い直すのは面倒だが、ここで折れて受け入れるのは嫌だ。特に、相手がこの人では。
涼が振り返った先には、背の高い男がいる。
生白い肌に癖のある黒髪。彫りの深い端正な顔は、黙って真顔でいれば綺麗なのだが、大抵へらりと緩んでいる。長い手足に若々しい体躯で、スリムなチノパンやVネックシャツというラフな格好だと、少し年上の院生に見えるくらいだ。
しかし、胸元に下がったネックストラップの教職員証が示す通り、彼はこの大学の講師であった。
「……何か用ですか、天利先生」
人文学部の非常勤講師、天利優鷹。年配の教授陣が多い中、二十代で独身の彼は女子学生に人気がある。
今日も彼の周りには、数人の女子が屯っていた。彼女らは、「みたらし?」「変わった名前」「みたらし……団子? お団子頭だから?」と、涼を見てひそひそと囁き交わしている。
だから“みたらし”ではない。団子でもない。お団子ヘアは、量が多い自分の髪をまとめるのに適しているからだ。
涼は眉間の皺を深める。天利は涼の顰め面に気づいているのかいないのか、笑顔を向けてきた。
「今から研究室行くよね? これ持って行ってもらっていいかな」
と差し出されたのは、レポートの束と講義で使ったであろう資料の類だ。
「僕は今から学食に行ってくるから。ああそうだ、葉山さんに学会の要旨のチェックは午後にするって伝えておいて。よろしくね」
「……わかりました」
涼が淡々と了承して受け取ると、天利はさっと身を翻した。「それじゃ、行こうか」と周りの女子達と共に去っていく。
「――そういえば、みたらしって変わった名前ですね」
「そうだね。漢字で書くと『御手洗』だよ」
「ええー、おてあらいって……」
「あはは、今はトイレの意味があるけれど、そうじゃないよ。神社に行ったとき、参拝する前に手や口を漱いで、穢れを洗い清める所があるだろう? そこを『御手洗』と呼ぶんだ。今じゃ手水舎で洗う所がほとんどだけれど、昔は神社の近くに流れている自然の川や池の湧き水で、参拝者は身を清めていたんだ。伊勢神宮の五十鈴川や、京都の下鴨神社にある御手洗池なんかが有名だね」
「え? じゃあお団子は関係ないんですか?」
「いや、みたらし団子は、それこそ下鴨神社の御手洗池から名付けられたそうだよ。神社で夏に行う御手洗祭の際に、氏子が串に刺した団子を供えたのが始まりと言われている。境内の店で売られていた団子が名物になったという説もあるけれどね。ちなみに五つの団子を串に刺しているんだけど、この形になったのは、鎌倉時代、後醍醐天皇が御手洗池で水を掬った時に浮かんだ水の泡を模したという説や……」
さらさらと流れるように説明する天利の明朗な声や、感心する女子達の声が遠ざかる。
さすが講師というか、口達者というか……。呆れ半分に彼らを眺めやり、涼は背を向けた。
大体、そこまでいろいろと詳しいのだから、いい加減“みたらい”と覚えてもらいたいものだ。もっとも天利は、わかっていてわざと“みたらし”と呼んでいるような気もするが。
思い返すと腹が立ってくる。涼はムカムカとした気持ちを抱えながら、研究室に速足で向かった。
「もうっ、あの人、本当に、本っ当に! 腹が立ちます!!」
レポートの束と資料をやや乱暴に天利のデスクに置きながら涼が叫ぶと、流しでお茶の準備をしていた女性が苦笑する。
「そこで“ムカつく”って言わないとこ好きよ、涼ちゃん」
日本語はいろいろと使わないとねぇ、と言うのは、修士二年の葉山瀬里だった。学部三年の涼よりも三つ年上で、さらさらのストレートボブと銀縁眼鏡が良く似合う理知的な女性だ。
「はい、これでも飲んで落ち着いて」
涼の好きな玄米茶を、涼専用の水玉模様の水色マグカップに入れて渡してくれる。
「ありがとうございます、瀬里先輩」
涼は、瀬里とお茶の温かさに感謝して受け取った。部屋の中央にあるテーブルに置き、近くにあった椅子を引っ張ってきて座る。瀬里も自分のデスクからキャスター付きの椅子を引っ張ってきた。
瀬里は構内にあるコンビニで買ってきたサンドイッチと焼き菓子を、涼は家から持参したおにぎりをそれぞれ広げる。
学部三年で研究室に所属するようになってからというもの、涼は週の半分は研究室で昼食を取るようになった。人の多い学食よりも、静かな研究室の方がゆっくり食べられると知ったからだ。瀬里も研究室の方が楽だと、ほぼ毎日ここで昼食を取っている。
「あ、それ、季節限定のですよね」
「そう、レモン風味のバウムクーヘン。ロールケーキもあって迷ったけど。涼ちゃんは、今日のおにぎりは?」
「梅干しと鰹節と醤油を和えた具のやつと、梅とちりめんじゃことゴマを混ぜたやつです」
「梅づくしねぇ。まあ、そろそろ傷みやすくなってくる季節だもんね」
五月も半ばを過ぎ、気温は上昇していく一方だ。異常気象の影響か、県内で日中に30℃を超えた所もある。朝夕はまだまだ涼しいが、弁当を持ち歩くときに保冷剤や保冷バッグが必要になってきて、少し面倒であった。
「お弁当は研究室の冷蔵庫に入れておいていいわよ。電子レンジもあるし」
瀬里は部屋の右奥にある流しを指さした。
研究室の水周りは充実しており、流しの横には冷蔵庫に電子レンジ、食器棚代わりのカラーボックスに電気ポットが置かれている。さらにはカセットコンロやホットプレート、かき氷機まで完備していた。
「夏季休暇には、皆でかき氷パーティーやクレープパーティーをしたいんだけど……」
そういって、瀬里は部屋の左奥を見た。つられて涼も、そちらに視線を向ける。
本棚で仕切られたそのスペースには、教授用のデスクがある。デスクの上は綺麗に片付けられていた。
デスクトップパソコンのディスプレイにはうっすらと埃が被り、長らく使われていない形跡がある。ふた月前であれば、机上には開いた本が何冊も積み重ねられていたものだが、今は整然とブックスタンドに収まっていた。
「福本教授、いったいどこに行ったのかしら……」
「……早く戻ってきてほしいです」
デスクの主であり、この『福本研究室』の指導教員。福本敏明教授が行方不明になって、二か月が経っていた。