(12)
その時、涼は気づく。
自分の名前を呼んだのは、天利じゃない。天利だったら『みたらしさん』と、わざと間違った名前を呼ぶはずだ。
そうして、呼んだ声が天利のものではなく、男とも女ともつかぬ響きだったことも、今さらながら気づいた。
『山で誰かに名前を呼ばれても、後ろを振り返ったらいけない。化け物に攫われるか、それとも――』
那岐の言葉を思い返しても遅い。木々が波打ち、視界が緑の渦に覆われて強い眩暈がした。夢の中で階段を踏み外したような、妙な浮遊感が身体を包み込む。
宙に放り出され、何の支えも無い。落ちる感覚というのは、なぜこうも不安になるのだろう。ひゅっと腹の底が冷えるような恐怖に身体が強張った時、腕を誰かに掴まれた。
強い力で引き寄せられ、温かな体温が伝わってくる。振り払おうとは考えなかった。命綱にしがみつくように、涼もまた、手に触れた布を強く掴む。
「っ……」
足裏が土と草を踏んで音を立てる。ちゃんと地面に足が着いたことに、涼は安堵の息を零しかけ、あれ、と気づいた。
腕と背中に回った長い腕。目の前で自分が掴むカーキ色のマウンテンパーカーの持ち主は――。
そろそろと上げた目に映ったのは、青白く、彫りの深い顔。癖のある黒髪の下から、明るい茶色の目が涼を見下ろした。
「大丈夫? 御手洗さん」
「ひえっ!?」
天利に顔を覗き込まれ、思わず悲鳴を上げて胸元を押す。涼の反応に、天利は「失礼だなぁ」と言うものの特に怒った様子はなく、あっさりと腕を離した。
「すみません……」
謝るも涼は天利から距離を取りつつ、辺りを見回す。もしや、さっきの抱擁の場面を瀬里達に見られていないだろうか。内心で焦ったが、幸いなことに瀬里達の姿は無い。
「……?」
いや、涼のすぐ前を歩いていた瀬里がいないのはおかしい。名前を呼ばれて振り向いて……十秒も経っていないはずだ。
それなのに、瀬里どころか那岐や、道案内をしていた敷野の姿も、まるで煙のように消え失せていた。
「……瀬里先輩? 那岐先輩!」
名前を呼ぶが返事はない。山道を登ったが、その先にも誰もいなかった。
まさか福本のように神隠しにあったのでは、と涼の頭から血の気が引く。
「あ、天利先生、先輩達がいなくなって……!」
「いや、違うよ。葉山さん達はいなくなっていない」
落ち着き払った様子で涼の後を登ってきた天利は答える。
「いなくなったのは、僕達の方さ」
「……え?」
あっさりとした言葉を聞き流しそうになった。涼は天利をまじまじと見上げる。
「御手洗さん、さっき名前を呼ばれただろう? そして君は振り向いた。だから、攫われたんだ」
「攫われたって……誰に……」
「この村の昔話で言うと、『山神様』になるだろうね」
天利は落ち着いた様子で辺りを見回した。
「僕らは現実から、山神のいる世界……異界へと連れて来られたんだよ。話通りなら、山女の迎えがあるはずだけど……」
「いや、先生、ちょっと待って下さい。なんでそんなに落ち着いているんですか? 私達、神隠しに遭ってるってことですよね!?」
名を呼ばれて振り向いた時に感じた、奇妙な感覚。強い眩暈と浮遊感。あれが、神隠しに遭う……異界に渡ったということだろうか。
だが、なぜ自分が神隠しに遭うのだ。分からないことだらけの涼をよそに、天利がさっさと山道を登っていく。
「ほら、御手洗さん。とりあえず先に進もう。迎えはまだ来ないみたいだから」
「ま、待って下さい!」
こんな場所に一人置いていかれるのは御免だ。涼は慌てて天利の後を追う。
ひっそりと静まり返った山道を登りながら、涼は前を行く天利の背を見上げる。不幸中の幸いというべきか、一人きりじゃなくてよかったと、涼は内心でほっとする。
天利のことが苦手なのは変わらない。彼と二人きりなんて、いつもだったら避けたいところだが、一人で放り出されるよりはましだ。こんな訳の分からない状況でも妙に落ち着いている天利を、少し頼もしく思えるくらいだった。
しかし、なぜ自分は天利のことが苦手なのだろう。日々の微妙な意地悪で嫌いになっているところもあるが、それよりも彼といるとどうにも落ち着かなくなる。天敵、警戒、反発……自分の中の何かが、彼を受け入れることをよしとしていない。
ちり、と左目が痛んだような気がして、涼は目を押さえる。
「御手洗さん、どうしたの?」
「い、いえっ……その、天利先生も名前を呼ばれたんですか?」
突然振り向いた天利に驚き、涼は咄嗟に別のことを訪ねる。天利は首を傾げた後、横に振った。
「いいや。僕は君に付いてきただけだ」
そういえば、眩暈がした時に腕を掴まれたが、あれが天利だったようだ。つまり彼は、涼の神隠しに巻き込まれたのだ。
顔を強張らせる涼に、しかし天利は平然としていた。
「まあ、御手洗さんがターゲットになるのは予測できていたから。君が振り向こうとした時点で捕まえておけば、一緒にこちらに来られる」
「……え? どういうことですか――」
尋ねようとした涼の言葉を遮ったのは、天利の「しっ」と唇に人差し指を当てる仕草と、背中が粟立つような感覚だった。
「あ……」
道の先に、誰かが立っていた。




