序章 秘密の友達
私には、秘密の友達がいた。
初めて彼に出会ったのは、私が七歳か八歳の時だった。
毎年、夏休みや冬休みなどの長い休みになると、私達兄弟は祖父母の家に預けられた。
祖父母が住むのは、見事な段々畑と豊かな自然に囲まれた山間の村だ。町中に住む私達にとって田舎の生活は新鮮で、毎年楽しみにしていた。
畑で野菜を取ったり、川遊びをしたり、虫取りをしたりと毎日の遊びには事欠かず、普段は会えない年上の従兄達とのふれあいも楽しかった。
もっとも、一番年少だった私は体力が無く足も遅くて、彼らの遊びについていけないことが多かった。左目の視力が極端に悪かったせいもある。遠近感が掴めずにしょっちゅう転び、ボール遊びも鬼ごっこも下手くそだった。
ある日の夕方、山の上の神社で遊んだ後、従兄の一人が競争だと言って駆け出した。皆で競って山を駆け下りていく中、最後尾の私は木の根に気づかずに転んでしまった。
擦りむいた掌や膝は痛くて、薄暗くなっていく林の中は怖くて、置いて行かれた悲しさと寂しさで泣きそうになる。俯いて堪える私に、静かな声が掛かった。
「大丈夫?」
地面を見ていた私の目に映ったのは、白い鼻緒の下駄だった。
顔を上げると、紺色の浴衣を着た少年がいた。
この村の子供とは従兄を通して何人か知り合っていたが、初めて見る顔だ。真っ白い肌に濡れたような黒髪を持つ綺麗な子で、こんな田舎の山の中にいるのが不思議に思えた。
私より少し年上に見える彼は、腕を掴んで立ち上がらせてくれる。ひやりと冷たい手だった。
「麓の子だね。歩ける?」
私が頷くと、彼は怪我をしていない方の手を引いて歩き出す。
「送ってあげるよ」
「あ……ありがとう」
礼を言う私に、彼はおっとりと「どういたしまして」と笑う。
笑い方も話し方も、近い年頃の兄や従兄と違っていて、何だか大人みたいだった。
綺麗な子と手を繋いでいる状況が、急に恥ずかしくなってくる。しかも、彼は白魚のような手をしているのに、私の手は日に焼けて真っ黒なうえ、土で汚れていた。
「ひ、一人で歩けるから」
そう言って放そうとしたが、彼は構わずに手をぐいと引く。
「いいから。君は特別に、送ってあげる」
彼が一歩踏み出すと、周りの木が大きくしなった。葉擦れの音が強くなり、強い風が顔に当たる。ざああ、と緑のうねる波が私と彼を包み、眩暈がして思わず目を閉じた。
風が止み、恐る恐る目を開けると、そこには見覚えのある古びた鳥居と苔むした石段があった。いつの間にか、山の入口に私は立っていた。
隣を見ると、手を繋いだままの彼が悪戯っぽく笑む。
「着いたよ」
「あ……」
ぽかんと彼を見上げていると、石段の上から賑やかな声と足音が聞こえてくる。
「よっしゃ、俺がいっちばーん! ……って、りょう!?」
「え? うわっ、ほんとだ! いつ追い抜いたんだ?」
二番目の兄と、その兄と同い年の従兄が、石段の下にいる私を見て驚いたように叫ぶ。私も訳が分からずに隣を見ると、彼が手を放した。
白い指を赤い唇に当てて、微笑む。
「……他の人には、内緒だよ」
そう囁くと、彼は踵を返す。
引き留めようとしたが、そこに兄達が石段を飛び降りて到着する。目を逸らした間に、いつの間にか彼はいなくなっていた。
「りょう、お前どうやって降りて……って、怪我してんじゃん!」
私の怪我に気づき慌てる兄の後ろからは、従兄達が息を切らして降りてきた。
最後に降りてきたのは一番上の兄で、私を見るなり泣きながら怒った。兄は、なかなか追いついてこない私を心配し、神社まで引き返していたそうだ。だが、その道中で私が見つからず迷子になったものだと思い、急いで大人達に知らせに行こうとしていたらしい。
最後尾で足も遅い私が、どうやって一番に山を下りたのか。
自分でもよく分からない出来事だ。正直に話そうとも思ったが、結局、浴衣姿の少年のことは兄達に話せなかった。
『内緒だよ』
もし話したら、あの少年とは二度と会えない――。
そんな気がしたからだ。
話さなかったおかげかはわからないが、その年の冬に彼と再会することができた。そして二人だけで遊ぶようになり、友達になった。
他の人には話せない、秘密の友達だ。
しかし、中学校に上がった年から彼と会わなくなった。
その年の夏、祖父に「二度と山に行くな」と真剣な顔で言われたからだ。普段は優しい祖父が鬼のように顔を歪めていた様子が、ひどく怖かったことを覚えている。
その三日後、祖父は亡くなった。夏は慌ただしく過ぎ、山に行って彼と遊ぶ余裕なんてなかった。それに、祖父の忠告がまるで遺言のように思えて、山に近づくこと自体が怖くなった。
さらに三年後に祖母も無くなると、祖父母の家へ行く機会も少なくなり――
以来、私は秘密の友達に会っていない。
記憶は薄れ、名前も顔も思い出せない。
ただ一つ、心残りなのは。
私の名前は『りょう』ではなく『すず』だと彼に伝えそびれたことだ。