野イチゴKiss
入社四年目の十一月。
大阪への出張を控え忙しい日々を過ごしていた。木、金曜の二日間の出張だったので、金曜の夜もそのまま大阪で滞在することにした。インターネットで、ある高級ホテルの一室を二泊分予約しておいた。夜景が一番きれいに見える最上階の部屋だ。
普段は高級ホテルなど泊まらないのだけれど、これはちょっとした自分へのご褒美だった。その出張は、今年の四月から取り組んでいた企画の最終打ち合わせ。ようやく、半年間の努力が実を結ぶのだ。東京に戻ってから、企画部の同僚と打ち上げをする予定だった。けれど、大阪での最終打ち合わせの金曜の夜は、一人でそっと大阪の夜景を見ながらワインでも飲んで、自分だけの「打ち上げ」をして自分へのご褒美にしたかったのである。
企画、といっても、何も巨大プロジェクトではない。
私の勤める会社は中堅の製菓会社で、幅広い年齢層に向けてお菓子を販売している。その中で企画部は市場調査などを繰り返しながら、お菓子の味だったりパッケージだったりさまざまな視点から検討を加え、新商品を開発している。
新商品の開発は、試食会を何度も繰り返しアンケートを何度も精査して一つのお菓子を作り上げていく作業だ。それは膨大な時間と根気を要する。だから、そうやって出来上がったお菓子というのは、多くの者の努力の結晶であり、魂の込められたものなのだ。
今回の企画もそのようなそういう地道な作業をずっと繰り返してきた。その作業に直接携わった私にとって、これから販売される予定のお菓子は大切な宝物だった。
その新商品は『野イチゴKiss』。
マシュマロをさらにやわらかくした食感で、中には甘酸っぱい苺クリームがたっぷりと入ったお菓子だ。普通の苺マシュマロよりさらに食感をやわらかくするために工場で働く職人さんに何度も何度も研究を重ねてもらった。また、女の子向けの商品だから、カロリーを少しでも低くしようと糖類の研究書を熱心に読んで自らレポートを作成したりもした。
そして先月、『野イチゴKiss』はほぼ完成した。最後まで検討されたパッケージは、ピンクを基調とした背景に雪が降っているファンタジックな絵図が採用されることになった。いよいよ企画部の仕事は最終段階に入っていた。
今回の私の出張は、大阪支社でこの『野イチゴKiss』の最終説明を行うことが目的だった。東京本社と大阪支社は、菓子の種類によって企画を単純に振り分けており、お互い新商品の開発を行うときにプレゼンテーションをして、意見を出し合うなどしている。今まで何度か私も大阪支社に足を運び『野イチゴKiss』のプレゼンテーションをしたが、今回はプレゼンテーションというよりはほぼ完成したこの商品の最終的な説明を行うだけであって、少し気楽であった。
いよいよ、出張の日が来た。
朝一番の新幹線に乗り、座席に座ると、私は眠りこけてしまった。その2時間位の眠りの中で、この半年の仕事の夢を見た。
ネーミングを巡って上司と口論したこと、自宅で「糖類事典」なるマニアックな事典を読みまくったこと、大阪のプレゼンで女性の上司に恐い顔で睨み付けられたこと……。
京都駅でふと目をさまし、自分がすっかり仕事人間になっていることを思って一人で苦笑した。
そうだ、この半年は仕事しかしていない。
恋愛もしばらくご無沙汰だった。1年前くらいに恋人と別れて以来、何の出会いもなかった。
この仕事が一段落してから、少し恋愛もしたいな、と窓にうっすらと映る自分の疲れた顔を見つめてみた。
会議場に着いてからは、あっという間に二日が流れた。
大阪に着いた初日は、最終の企画書を配布しパワーポイントで説明しながらようやくこの企画もいよいよ最終段階かと思うとちょっと感傷的な気分に浸った。しかし、大阪のメンバーは次の企画のことで頭がいっぱいらしく、会議が終わるとさっさと帰っていった。
二日目は、前日の説明についての簡単な質疑応答などが行われるもほとんど質問がなく予定より早く会議は終了した。私にとっては大きな企画だったが、彼らにとっては多くの企画のうちの一つに過ぎないようで、いちいち感傷にも浸れない、という空気だった。
とてもあっけなかった。
会議場で東京から持参した資料などを片付けていると、後ろから女性に声をかけられた。
「長居さん、よくがんばったわね。これで『野イチゴKiss』は一段落ね」
振り向くと、大阪支社企画部の女性が立っていた。
彼女は、香坂さん。三十代半ばなのにすでに課長だった。かなりのやり手でいくつものヒット商品を生み出し、異例の出世街道を突き進んでいる女性だった。もちろん、彼女のそんな早い出世を妬み、「彼女は上司と寝たから出世できたんだよ」なんて意地の悪い噂を流す者もいたが、その実績は誰もが納得するもので、私もそんな噂を信じなかった。
その時期、香坂さんはいくつか企画を掛け持ちしていて、大阪の会議では頻繁に顔を合わせるわけではなかった。けれど、私が担当していた企画のことはいつも気にかけていたのか、会議の後はよく声をかけてきた。
「ありがとうございます」
と頭を下げると、彼女はにこりと微笑んだ。
いつも、眉間にシワを寄せて、厳しい質問ばかり投げかけてきた彼女がこんなに笑うのは初めて見る気がする。仕事上で顔を合わせる以上あまり気にしたことはなかったが、こうやって目の前でじっと見ると、こんなに美人なのか、とハッとした。
切れ長の二重まぶたと冷たく通った鼻筋、そして、それらに不釣合いなぷっくらとした唇。官能的な顔を描け、と言われれば私は間違いなく、この顔を描くだろう。そりゃ、こんな顔だと性的な悪口を言われるはずだ。はれぼったい一重まぶたを隠すため、アイラインとマスカラで毎日努力している私は何だか惨めな気分になった。
「長居さんって、メインでやるのはこれが初めてなのよね?何だか終わってしまうと寂しいでしょ?」
私の心を見透かしたように、香坂さんは言った。
そうなのだ、ずっとサブで企画に関わってきた私にとってこの『野いちごKiss』は、メインでやる初めての企画。さすがは課長だ、何でも知っている。
そして、彼女はそのフワフワとした緩いパーマのロングヘアーをかきあげながら、
「今日はもう帰るの?新幹線?」
と聞いてきた。
彼女がその髪をさっとかきあげたとき、辺りに苺のような甘ったるい香りがぱあーっと広がった。
「え?」
「いや、せっかくだから食事でも、と思って。でも、新幹線に乗らなくちゃね」
「は、はい。ちょっとまだ東京でも片付けがあって」
私は嘘をついた。
なぜあの時嘘をついてしまったのだろう。それはわからない。
ただ、目の前に立つその人に一瞬で恋に落ちた、ということだけははっきりしている。
もしかすると、中途半端に食事をして切ない気持ちになるより、嘘をついてさっさとその人の前から消えたかったのかもしれない。
「じゃあ、あまりこれから顔を合わせる機会も少ないかもしれないけど、東京で元気にがんばってくださいね」
そう言って、香坂さんはすっと右手を差し出した。あまり仕事上で握手というものはしたことがなかったが、彼女のそのあまりに自然な動作につられて、私も自然に右手を差し出し握手をした。彼女の右手は、透き通るように白くて青い血管が浮かび上がり、その指は細くてしなやかで、そして握る力が変に強くて……何だかとても悲しくなった。
大阪支社を出て、時計を見ると七時半だった。
このまま直接ホテルに戻らず、どこかで飲みたい気分だった。
仕事が終わったというのに、まだ変な緊張を感じていて、早くそれを解きほぐしたかった。そして、その緊張とともに全身が敏感になってきているのを感じた。無性に誰かと抱き合いたい。簡単に言ってしまえば、セックスがしたかった。疲れているときほど、決まってこうなのだ。しかも、香坂さんとの握手をしたときの感触が妙に手のひらによみがえってきて、しかもその感触がだんだん淫らなものに変化して、どう扱っていいのかわからなくなってきた。
私は、バッグからA4用紙にプリントされた地図を取り出した。
大阪の出張を告げられたとき、インターネットで、レディース専用のバーを検索してその地図をプリントアウトしておいた。仕事の後、そのような場所に行きたくなるはずがないだろうとも思ったが、万が一そんな気分になれば、と一応調べておいたのだった。
レディース専用のバー、すなわち、レズビアンやバイセクシャルの女性が集まるバーである。もちろん、彼氏のいるストレートの女性も、女性同士で気軽だからという理由で来店することもある。東京では、新宿にそのような店がゲイ専用バーと共に密集している。バイセクシャルである私は、女友達とよく新宿に遊びに行っていた。大阪では新宿のような密集地帯というのはないらしく、予めネットで地図を用意しなければたどり着けないと聞いたので、一応プリントアウトしておいたのだ。
自然に足はそのバーに向かった。一夜限りの相手を見つけようという気持ちではなかったが、ひょっとしてという期待がなかったわけではない。
大阪の街は、どの通りもパチンコ店と居酒屋ばかりで、その店に行くにはいくつもの通りを抜けていかなければならなかった。紙を片手に、どちらが北なのかよくわからないまま当てずっぽうで進んでいくと、少し寂しい場所に出た。大阪では、こういう店はこういった人目につかない場所にあるのかもしれない。ぽつんと立ち尽くしたそのノッポのビルの真ん中あたりを見ると、三階の窓にその店の名前『hers』を見つけた。
「ここだ」
エレベータで三階に上がり店の扉の前に立つと、『hers』という木製のかわいらしい表札がかけてあるものの、何も話し声は聞こえてこない。何だか引き返したい思いがこみあげながらも、「せっかくここまで来たんだし」と勇気を出して重い扉を開けた。すると、中は人の話し声であふれていて、私は少しホッとした。しかし、そこはバーというには、あまりにも照明が明るかった。こんなに明るいと何だか気恥ずかしい。
「いらっしゃい」
二十代半ばの女性の店員が明るい笑顔で迎えてくれる。バーにはカウンター席しかなく、ほぼ満席で、右の端っこの二席だけが空いていた。
一番端に座るのも変なので、端から二番目の席に腰掛けながら、
「ここ、座らせてもらいますね」
と左横の女性にうつむき加減に話しかけると、横の女性は何も言わず私をただ呆然と見つめていた。何かおかしい事でも言った?と、横の女性を見ると、私は息を飲んだ。
そこにはスーツ姿の香坂さんが座っていた。
「あっ」
私が思わず声をあげると、店員が興味津々といった様子で、
「え〜。お二人って知り合いなんですか。同じ会社とか?」
と大きな声を出し、店にいた客もみんな私たちのほうを見た。
「あ、違いますよ。得意先か何かで何度か顔を合わせたことがあるんですよ。ね?」
香坂さんがすぐにそう答えると、店の客もそんなに興味を持たなかったのか、すぐに自分たちの会話に戻っていった。私は彼女の機転に感謝して頭を下げながら、参ったな、と居心地が悪くなった。
もし私が大阪に住んでいたら、「ちょっと興味があって、初めてこの店に来た」くらいの言い訳ができただろう。しかし、出張の夜にわざわざこんな場所に寄るなんて、何だか「慣れた」人みたいだ。しかも、新幹線で帰るというのも、嘘であることがバレてしまったではないか。彼女には、私が「この店に寄りたかったから嘘をついた」と思われたかもしれない。
私は、オムライスと生ビールを注文した。
早く酔って、この居心地の悪さを何とかしなければ。
生ビールを待つ間私たちには何の会話もなく、香坂さんは彼女の左横に座っている二十歳くらいの若い子とずっと話していた。
注文した生ビールが来た。
私がグラスに口をつけようとすると、突然彼女が私の方を向いて、
「今日はお疲れ様」
と小さい声でささやいた。
自分の生ビールのグラスを私のグラスに軽く「乾杯」という感じで、コツンと当てて、彼女はそっと優しく微笑んだ。それは、ここにいる誰もが知らない私たちだけの「乾杯」だった。ここは、世間からすれば「隠れ場」なのに、「隠れ場」の中にさらに「隠れ場」を見つけて、私は少し落ち着いた。
「香坂さんだって気まずいはずだ」
一口、生ビールを口に含むと、気持ちが落ち着いてきた。
だって、同じ会社の部下、つまり私に、こんな店に来ているということがばれてしまったのである。入社四年目の私に知られて彼女は大打撃かもしれない。もし、私が誰かにしゃべれば彼女の地位が危うくなることだってあるだろう。そんなふうに一瞬でいろいろ考え始めると、変な優越感を覚え、ちらっと彼女を見た。
ところが、彼女はそのチャーミングな笑顔をふりまきながら、隣の女の子と楽しそうに話している。私と同じ店に来てしまったことを、何にも気にしていないがごとく。
「で、その人とどうなったの?ね〜教えてよ」
そんな感じで、若い子と盛り上がっている。私のちっちゃい優越感はぐちゃっと音を立てて潰れた。
私はそれからひたすら注文したオムライスをガツガツ食べた。彼女が私に話すこともなく、いや、彼女がこっちを振り向くこともなかった。
結局、ビールを三杯も飲み干した。
「すみません、ソルティードッグで」
ビールを飲んでも一向に酔いが回らないので、きつめのカクテルを注文した。
すると、香坂さんがこっちを向いて、笑った。
「結構、お酒強いの?」
彼女の顔は少し赤らみ、艶っぽくなっている。
「あなたのせいだよ」と思いながら、私はひきつった笑いを浮かべた。彼女は隣の若い子との会話がいったん途切れたのか、こっちを向いていろいろ話をしてきた。
「あの企画は何ヶ月かかったの?」
「東京には、恐い女性の課長がいるんだって?」
「次の企画は、いつから始まるの?」
仕事の話ばかりだ。仕事モードに引き戻された私は、ますます酔えなくなってしまった。
そんな私の様子を察したのか、彼女は、
「なんか、私、仕事の話ばかりしてるね。ごめんなさいね」
と悲しそうな顔をして謝り、少し間をおいてからこう聞いてきた。
「そうだ。それより、今日は大阪に泊まるんでしょ?どこのホテル?」
嘘をついたことを責めているのだろうか。私は蚊の鳴くような声で答える。
「××ホテルです」
「えっ?あそこって夜景がきれいなんでしょ?何階に泊まってるの?」
興味津々の彼女に、私が、
「最上階です」
と得意げに言うと、「いいな〜」と彼女はうらやましそうに私を見つめた。
「今から、来ますか?」
このセリフが喉元まで出掛かって、私は言葉を飲み込んだ。
こういう店に来ているという時点で、一応お互い恋愛対象になる可能性はある。だとしたら、そのセリフは誘い文句になってしまう。
結局、私たちの会話はそれ以上続かなかった。横の若い子がまた香坂さんに話しかけ始め、再び取り残された私はきついカクテルばかりを注文した。
そのうちどれくらいカクテルを飲んだのかよくわからなくなってきていて、さすがに酔いが回ってきた。
これ以上この場にいても仕方がない。もう帰ろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、ふと「もう二度と香坂さんに会えないかもしれない」という不安に襲われた。
そのふらつく頭ではそれ以上何も考えることができなかった。
しかし、私は何者かに命令されたかのように、手帳を取り出しメモをした。
「××ホテル○○○号室。二人で今日の『打ち上げ』をしませんか?」
そして、そのページを小さく破って左手でそれを手に取り、カウンターの下で彼女のひざに軽く握ったその手を置いたのだった。
お酒は人を大胆にする、とは言うものの、その時の私は大胆すぎるくらい大胆だった。彼女にもう会えないかもしれないという気持ちがさらに私の大胆さに拍車をかけたのかもしれない。
私が突然彼女のひざに触ったものだから、彼女は目を大きく開いて私の顔を見つめた。
そして、その目が少し和らいだその瞬間、彼女はその右手でやさしく撫でるように私の左手を握り返してきた。メモを渡すつもりが手を握り返され、私は反射的に左手を引っ込めてしまった。
不安げな彼女の顔を見ながら、
「あの、これ」
私は泣きそうな声で、メモをカウンターの下で見せるようにして手渡した。
手を握られて引っ込めてしまったという情けない気分と、彼女に恥をかかせたのではないかという不安、そして、絶対に彼女はホテルに来るだろうという確信で、混乱しながらその後すぐに料金を支払って、私は店を出た。
店を出て、駅はどっち方向だろうときょろきょろしながら通りを歩いていると、後ろから、
「ちょっと待って!」
と叫ぶ声が聞こえた。
振り返ると、香坂さんと彼女の横にいた若い子が走って追いかけてきていた。
「私たちも、もう出ようってことになって」
「あ、そうなんですか」
これなら一緒にホテルの部屋に行ける。
でも、もう一人がちょっと邪魔だ。
通りを三人で歩いている最中、私たちはほとんど会話をしなかった。冷たい外気は私たちを余計に無口にさせた。
何か話さなくては。
無言の空気に堪えられない私は、ばかな質問をした。
「お二人はカップルなんですか」
私がその質問を言い終えたかわからないうちに、香坂さんが、
「違うよ!」
と叫ぶように否定した。
その時、若い子がそのふっくらとした頬をさらにぷーっとふくらませた。その様子を見て、この子は香坂さんのことが大好きなんだなと悟った。なかなか可愛らしい。
「そちらの方は、恋人とかいはるんですか?」
その子が機嫌悪そうな関西弁で、私を睨み付けた。
「そちらの方」という表現に戸惑いつつ「いないよ」と答えて、この子が私の香坂さんへの想いにうすうす気がついていることを感じた。
駅が近くなり、香坂さんがわざとらしく私に聞いてきた。
「大阪に泊まるんでしょ?どこのホテル?」
「××ホテルです」
「あ、私もJR線だから一緒だね」
彼女がそっと私に目くばせをする。
すると、その若い子は、
「え〜、香坂さんっていつも地下鉄じゃなかったですか?」
と頬をふくらませたが、
「ちょっと今日は用事があるのよ」
と香坂さんは諭すように言った。
そして、駅の改札近くの「JR線」「地下鉄線」の矢印が逆向きになっている看板のある場所で、私たちはその若い子と別れた。
その子は「香坂さん、もっとメールしてよ。ね?それから、うちはいつでもヒマやし、遊びにいけるし」と香坂さんに懇願しながら去っていった。
「あの子さ、しつこいのよ」
別れたとたん、香坂さんが言った。
「女子大生って疲れるわ」
彼女はため息をついた。
あの子は女子大生なのか。
香坂さんの魅力は女子大生まで虜にするのだ。
その後、私たちは電車ではなくタクシーに乗ってしまおうということになり、大通りでタクシーを拾った。
タクシーに乗ると、彼女は窓からずっと外の景色を見ていた。私も反対側の窓を見つめていた。窓からの景色でなく、窓に映る彼女の姿を見ていた。窓に街のネオンが反射して、そこに浮かび上がる彼女の端正な横顔を見つめながら、私は甘い幸福感に浸った。
これが夢でも構わない。
私たちの手は軽く触れ合っていた。そのうち、彼女は軽く指を絡めてきた。私もそれに応じるように、強く指を絡めた。
お互いの顔を見ないまま、指だけが何度も何度も絡み合い始めた。顔を見ないということがさらにその感覚を鋭くした。
すでに私の身体は火照り始めていた。ほとんど前戯をしているようなものだった。
タクシーがホテルに着いて、私たちは指を解いた。
きっと香坂さんがお金を出すだろうと予想し、私はそれを封じるかのように、すぐに財布を手にとって代金を支払った。
私たちはタクシーを降りて、ホテルに入りエレベーターに乗ってホテルの最上階までたどりついた。
私たちには一切会話がなかった。
部屋に入ると、香坂さんは小さく声を上げた。
「うわ〜。きれい」
彼女のような端正な顔立ちの人が喜んだ顔をすると、水面にパッと花が咲いたような感じがする。
「大阪城が見えるね」
と、彼女が指さした方向に大阪城がライトアップされ、きれいに浮かび上がっていた。
「本当だ!」
「昨日、見なかったの?」
と彼女が笑った。
昨夜は、緊張して、まったく夜景を見る余裕がなかったのだろう。大阪城のライトアップなどまるで気がつかなかった。
「やっと仕事が終わった」
妖しく浮かび上がる大阪城を見て、実感がわく。
彼女は、ゆっくりベッドに歩いて腰掛けた。
「ちょっとここで話す?」
私はベッドに歩み寄り、彼女の横に座った。
そして、私たちは話をした。
最近どんな映画を見たとかどんな音楽を聴いているとか。まるで友達のように。
その会話には、何も意味はなかった。それは、前戯に過ぎないのだから。次に待ち受ける「何か」につなぐためのクッションでしかないのだから。
十分ほど経って、私たちの会話は、途絶えた。
無言になって、私たちは見つめあった。
「あのね……」
香坂さんはうつむいた。
「長居さんの次の企画って、地域限定版のお菓子だよね?それってうちの会社では初めての試みでしょ?しかも、どんどんシリーズ化していくって噂を聞いたの。だから、その企画はきっと一年以上かかるし、しかも、大阪支社はその企画に参加しないのよね」
「だから?」私は混乱した。そして、次の言葉を待った。
「だから……、だからさ、長居さんは当分大阪に来ないのよね?つまり、その、今さ……ここで二人で、その……『何か』をしちゃうとさ、もうこれからほとんど私たちは会うことがないわけだし、かえって辛くなっちゃうよ」
そして、言葉を続けた。
「やっぱり……やめておこうよ」
火照った身体から、すぅーと熱が冷めていく。
やっぱりこの人は大人なんだ。二十代の私とは違う。この期に及んで、情欲に流された後の空しさを想像して、冷静に理性のスイッチを押すことができるのだ。
何だか私は、この大人の女性を前にして打ちのめされた気分になってしまった。
「ごめんね」
潤んだ瞳で、私をじっと見つめる彼女の顔は少し赤らみ、むしろ私を誘っているのではないかと思うほど淫らな雰囲気をかもし出していた。
一体、どの時点で心変わりをしたんだろう。このままベッドで抱き合ってしまえばすべてはどうでもよくなるのに。そんな乱暴な解決を提案する勇気もなく、私は言った。
「わかりました。何だかここまで連れてきちゃって、こっちもごめんなさい」
ううん、と彼女は首を振った。
私は、大きなため息をついてふらふらと立ち上がり、そのままドアのほうへ歩いていった。そして、左手をドアノブにかけ、うつむきながら震える声で言った。
「ここで、何もせずに香坂さんとおしゃべりをしてたっていいんです。だけど……私、今、香坂さんに何もしないって自信がないんですよね。香坂さんのこと、好きになっちゃったんですよ、すごく。だから、無理なんです。申し訳ないですけど……帰ってください」
もっともっと香坂さんの事を知りたかった。一晩中語り明かしたかった。
でも、私の中には、石を池に投げ入れた時の水面のようにざわざわと、彼女を抱きたいという欲望ばかりが広がり始め、それらをかき消した。
「ごめんね」と言われて、香坂さんを部屋から追い出すなんて、最低だ。それじゃ、セックス目的みたいだ。頭ではわかっていたけど、自分では、こうするしかなかった。私はまるで、大好きなおもちゃを突然取り上げられた子供のように惨めだった。
彼女は、静かに私の方に歩み寄ってきた。そして、その場で立ち尽くした。
そのまま彼女が何も言わないので、私はゆっくりと顔をあげた。すると、彼女はじっと私を見つめていて、その顔は、真冬の寺院の境内に佇む観音のような穏やかさと激しさを含んだ表情をたたえていた。
彼女のその顔に見つめられて、私は感じた。
このまま石に変えられてしまう。
その顔から放たれる静かな視線は恐ろしくもあった。
数十秒経って、いよいよ私は自分が石になったのではないかと思ったその刹那、ゆっくりと彼女は私に歩み寄り、静かにその両手で私の両肩を壁に強く押さえつけた。私のドアノブにかけた左手はだらしなく外れた。
そのまま彼女は、私にゆっくりとキスをした。
両肩を強く押さえつけられたまま身動きの取れない私を弄ぶように、ゆっくりとその半開きになった彼女のやわらかい唇は私の唇を味わっていった。スローモーションのようなその動きに、私は、地球を支配する時間の流れが一定でないことを知って、ただうろたえた。
そのうち、彼女の唇は私の首筋に浮かびあがる血管をたどっていき、時にはその唇からはやわらかい舌がいやらしく私の首筋にまとわりつき、そのたびに熱い息がかかった。彼女の髪は私のあごのあたりにさわさわと触れ、そこから甘い苺の香りがふんわりと漂っていた。
両肩を押さえつけられていなかったら、確実に私はそのまま膝から崩れ落ちていたに違いない。
そして、私の首から耳に彼女の唇が静かに移動して、そのまま彼女は私の耳たぶをそっと口に含んで、軽く噛んだ。
「あぁっ」
私は、思わずホテルの廊下まで聞こえそうな淫らな声をあげて、恥ずかしさでいっぱいになった。まったく力の入らない身体から、熱いものがどっと噴き出した。
「ベッドに、戻ろうか?」
耳元でそうささやく彼女の声はかすれていた。
私はコクリとうなずき、そのまま彼女に手を引かれ、まるで叱られた子供のようにベッドに連れて行かれた。
一晩中、私たちはお互いの身体を激しく求め合った。
このまま二度と朝がやってこないのではないかと気が遠くなるほど、私たちはお互いを知り尽くして、果てた。
朝は来た。
部屋で朝食をとって、ベッドの上に香坂さんと並んで座って歯を磨きながら、窓の外を見ると、雲ひとつない青い空をバックに大阪城が見えた。
二人の甘い余韻をかき消すような、圧倒的に健康的な景色だ。
「私、今日は、午後から出勤なの」
彼女は、歯磨き粉でいっぱいになった口を動かし、そのまま立ち上がって洗面所に消えた。
何分かすると、メイクを終えた彼女が現れた。
すっかり出勤モードだ。
「いったん自宅に戻るから、もう行かなきゃ」
そのスピードについて行けず、戸惑う私に彼女は右手をすっと差し出した。
「長居さんが大阪に来るときは連絡してね。私も東京に行くときは連絡入れるから。また会いましょう」
「はい」
そう言って、私たちは握手をした。
昨日の会議の後のような悲しさは、そこにはもうなかった。
彼女は部屋を出て行った。
それ以来、私は彼女と一度も会っていない。
三ヶ月くらいして、「香坂さんが、結婚するから、と突然退職したらしい」と同僚から聞いた。
結婚すると言って退職した、ということはわかった。ただ、彼女が退職した理由が結婚だったのか、そして本当に結婚したのか、わからない。
彼女にもう会えないことは、握手をしたときにわかっていた。
また会おうとするならば、お互いの連絡先を交換したはずだ。それをせずに私たちは、「また会いましょう」と言って別れの握手をした。
それが大人っていうものだ。
大人のルールなんだから、仕方がない。
でも、彼女と会えないことに不思議と辛さは感じなかった。彼女の笑顔を思い出すと、あの甘ったるい香りが辺りに広がって私を包み込んだ。
「『何か』をしたら辛くなるって言っていたけど、辛くなんかならないじゃない……」
そうつぶやいて、私は『野イチゴKiss』をほおばった。甘酸っぱいクリームが口の中に広がって、すーっと溶けた。