新たな因縁と、沈み行く船と
振り切った大剣を一度頭上高く持ち上げると、強く斜め右下に向かって振り下ろす。
ビシャっという濡れた音を立てて、刃に付着していた肉片と臓物、血糊が白い床へ飛び散った。
さて、契約者を失ったこの魔神が、どう出てくるのか。
エルフを狩り集めて奴隷密売の商品とするために、バーンズ氏と契約を結んだのはそこで事切れている老魔導士であったはず。
魔神はその老魔導士へと力を貸す契約を交わしていたわけで、その老魔導士が死んでしまった以上、魔神が俺と戦う理由は無くなったはずだ。
魔神には、人族世界の富なんてものには興味無いだろうし、契約者だった老魔導士が死んでしまった以上、これ以上ここに留まる理由もないはず。
それとも魔神が、契約主とはいえ下等生物と蔑む人族のために、敵討ちなんて殊勝な考えを持ったりする事があるのだろうか?
『お、おお、おお! ……なんということでしょう。我が契約者アダンよ……。まさか、このような死に方をなさるなんて……』
その魔神は、ヨロヨロとした足取りで老魔導士の亡骸の側まで歩み寄ると、その場へと跪いた。
そして大仰な仕草でシルクハットとタキシードの間にある透明な隙間へ、まるでそこへ本当に顔があるかのように、真っ白な手袋に包まれた両手を持っていって覆う。
『アダン……君との付き合いは六十年以上にも及びましたが……まさかこのような最期を遂げようとは。まさかこのような地で果てようとは。フフフ……フハハハ! フハハハハハハハ! 愉快! 愉快! 想像だにしていなかったこの呆気ない幕切れに別れに、私は今とてつもなく愉快な気持ちですよ!』
契約者の死を嘆いているかのように跪き、顔を覆って見せた態度とは裏腹に、魔神の声音には喜悦が混じり、それはとても楽しそうな笑い声を上げていた。
いや、魔神にとってみれば、契約者の死など、そんなに気にかけるものでは無いのかもしれないけど。
『さて――』
ひとしきり哄笑したところで、魔神ルードルードはクルリと俺へと向き直った。
どう出る?
『火の鳥』の権能は、まだ消滅させておらず、俺の頭上で火の粉を辺りへキラキラと舞い散らせつつ羽ばたいている。
俺の命令一つで、即座に魔神へと突っ込ませる事ができる状態だ。
「契約者が死んでしまった以上、あんたが俺と戦う理由は無くなったはずだ。契約の対価は、その爺さんの心臓か? それとも魂か? どちらであろうと俺には関係ないが、その対価を回収した後にでもこの空間を解除して立ち去ってもらえるのなら、俺は退いても構わない」
『フフフ……そうですねぇ。確かにアダンが死んでしまった以上、私があなたと戦う理由もない。あなたの言われる通り、契約に基づきアダンの魂を回収し、心地よい異界にて悠久の時をアダンの魂と共に過ごすのも悪くは無いでしょう。ですが――』
老魔導士の亡骸の側で跪いていた魔神が、立ち上がる。
『私の目の前で契約者を殺されてしまったこの失態、払拭せずにはいられませんねぇ』
ち、大人しく退いては貰えないか。
俺は腰を落とすと、左足をすり足で前へと出し、大剣をいつでも振り切れるように構えた。
そして頭上に舞う『火の鳥』を、いつでも突っ込めるように魔神へと狙いを定める。
超常的存在である魔神であっても、『火の鳥』の権能の威力は、相殺するのが難しいらしい。
正面から『火の鳥』を急降下させて隙を窺い、接近して大剣で切り裂くか、『竜牙裂』で魔神の作り出した障壁ごと抉るか。
『――とはいえ、今日はアダンとの六十年以上にも及ぶ契約が満了した日。我ら魔神といえども、しばし感傷に浸りたい時もございます。私にしてみれば六十年など一瞬の時に過ぎないとは言え、なかなか退屈しないひと時を過ごすことができましたので……。あなたとはいずれ決着を望みますが、今日のところは退かせて頂くことにいたしましょう』
退いてくれた!?
魔神はそう言うと、左手に持ったステッキでカツカツッと二度程床を叩き、右手で頭上のシルクハットを脱ぐ。
そしてシルクハットを胸に当てて一礼すると、魔神ルードルードはスーッと何も無い空間へと溶け消えて行く。
すると次の瞬間。
パリンッというガラスの割れるような甲高い音がして、俺の頬を冷たい潮風が撫でていった。
ここは……船の上か?
そこは白い部屋に取り込まれる前に俺がいた場所。
外洋船の甲板の高台だった。
もう船長の姿は見当たらなかったが周囲を見回せば、船の縁ではボートを降ろそうとしていたり、浮き輪を投げる水夫の姿があった。
波間では、真龍の破壊したマストの破片を掴んで、人がプカプカと浮いている。
この様子だと、白い部屋に閉じ込められてからそれほど時間が経っていない?
『主様! 主様! 良かった……』
頭の中に響いた声は、上空を舞い続けている真龍のものだ。
「(ラフラ! 俺が異空間に飛ばされてから、どのくらいの時間が経った?)」
『それほど長い時間じゃ無かったよ? ……三百を数えるくらい?』
なるほど、五分程度だったか。
現実世界とあの空間では時間の流れが異なっていたらしい。
「(ラフラ、お前の働きはもう十分だ。そろそろ姿を隠してくれ)」
『え!? もう? ……うぅ、ラフラはもっと主様と一緒にいたい』
「(その気持ちは嬉しいけど……、お前がいつまでもここにいると、そのうち軍艦が来て戦闘になってしまうからなあ)」
『うう、うう! だってだって! せっかく主様が喚んでくれたのに! ラフラも主様と遊びたい! 主様はいつもいつもアルルばかり喚んでるんだもん! アルルばかり贔屓してる……』
贔屓にしているつもりは無いんだけど、アルルの正体は巨躯の黒狼で人目につきにくいとまでは言えないが、ラフラに比べれば全然マシだ。
外洋船よりも巨躯を誇る真龍を喚び出せば、それも王都で召喚でもしようものなら、国中がパニックになる事間違いない。
この世の滅亡が訪れたような光景が見られる事になるだろう。
『アルルばっかりズルい! ズルい! ズルい! ラフラだって主様との卵、授かりたいのにぃ……』
真龍は卵生なの!?
というよりも俺との卵を授かりたいって、何を言っているんだコイツは!?
俺は鶏でも無いし、爬虫類でも無いぞ?
「(わかったわかった。また後で喚び出してやるから、今はひとまず戻っていてくれ無いか?)」
『……本当に? 主様、またラフラ喚んでくれる?』
「(必ず喚ぶ)」
『絶対だよ? 約束だよ?』
ルナレシアにもラフラの事を紹介しておきたいからな。
事前に『招竜』を使って、真龍を召喚するとは話していたけれど、港で実際に見てさぞ気を揉んでいるに違いない。
『うぅ……じゃあラフラ、戻る』
「(ああ、ご苦労さん。また後でな)」
ラフラは一度大きく船の上空を旋回すると、ウォオオオオオオオオオン! と咆哮を一つ上げた。
そして真龍の身体がパッと光の粒子状に散って消える。
元いた場所へと戻ったのだ。
やれやれ。
深く大きなため息を吐き、気がつけば船上に残されているのは俺一人となっていた。
海上を見てみれば、さっきまで真龍がいたからだろう、水夫たちを乗せたボートが全力でこの船から離れようとしていた。
ボートに乗れなかった者も、浮き輪や木片にしがみついて、必死に船から遠ざかろうと泳いでいる。
ただ、冬の海は冷たいからなぁ。
もしかしたら、もうそれなりに溺死者が出ているかもしれないな。
やってた事がやっていた事なので、同情する気持ちは全く湧いてこなかった。
それよりも。
「やべぇ、寒い!」
羽織っていたコートを『幻影投射』で俺の身代わりにし、その上『招火』で燃やしてしまったため、俺はこの寒風吹きすさぶ船上で、シャツだけになっていた。
それも潮風を浴びて、濡れ濡れのスケスケです。
誰が喜ぶんだこんなもの!
って、冗談を言っている場合ではない!
「寒い! 寒い!」
ガチガチと歯の根が合わない程に震えている。
慌てて『耐熱』の権能(熱さだけでなく、寒さも防げる) を使ったけれども、一度失われた体温が戻るわけじゃない。
ちくしょう、コートを燃やすんじゃなかった。
よく考えてみたら、あれ士官学校の配給品なんだよね……。
弁償というか、どのみち新しいの買わなくちゃならない。
と、とにかく一刻も早く! 酒――もとい温かい飲み物で身体を温めたい。
後はこの船も沈めてしまえば俺の仕事は終わりだ。
さっさと済ませて町へと戻ろう。
「イオニスの名において命ずる。その静謐なる世界へと沈め、昏き水底へと誘え――『奪浮力』!」




