魔神ルードルードと、異空間と
うなじに覚えたチリチリとした感覚。
そして全身を包み込む生ぬるい空気。
精霊封じの結界を破った時、深山か滝壺の側にでもいるかのような清浄な空気だったのに、どこか息苦しい。
こんな感覚は久しぶりだった。
大きな会戦に参加した時、正面に手練れの兵士がいる時、前世では決まってこんな感覚を覚えたものだ。
甲板へと上がってきた爺さんから感じられる殺意。
プルシェンコ大尉の屋敷で出会った下級魔神ですら、可愛く感じられる程の殺気。
頬を伝う一筋の液体は、潮風に混じって飛んできた海水か、それとも俺の流した冷や汗か。
この爺さん、今世で出会った誰よりも強いかもしれない。
「さて、せっかく後輩に出会うたんじゃ、儂としてはお互いの魔法についてゆっくりと語らいたいところなんじゃが、積み荷をダメにしてくれた以上、のんびり茶飲み話とは行くまい」
腰の短杖を引き抜くと、胸の前で捧げつつ呪文を唱える。
「世界を分けし、鎖を断ち切り、我が血と名のもとに来るが良い。いでよ我が盟友――ルードルード!」
召喚魔法!?
「魔導士じゃないのか?」
「魔導士じゃよ。小僧とて、ドラゴンを呼んでおるでは無いか。召喚士のように幾体もの魔獣、幻獣を操れるわけでもない。紹介しよう、儂の契約する魔神ルードルードじゃ」
『フフフ、紹介に預かりましたルードルードにございます』
ルードルードと名乗った魔神。
外見はシルクハットにタキシード、そしてステッキを持つ人形の魔神。
サーカスで活躍する奇術師のような格好だが、明確に人とは一線を画している特徴があった。
顔が無い。
いや、顔だけでは無く、首も手も、足首も。
タキシードを着た時に露出するはずの人体部分が、綺麗さっぱりと存在し無い。
わかりやすく言うと、透明な人間に服を着せたらルードルードになる。
「イオニスの名において命ずる。遠き地より、汝の主たる我の元へ来たれ――『物質転移』!」
嫌な予感を覚えて、足場が悪いため今回は使わずにいようと思っていたが、『物質転移』で大剣を取り寄せた。
真龍を喚び寄せた時、俺は自重という言葉を放り捨てたと言ったが、どうやら本当に自重なんてしていられない状況な気がする。
「ふむ、ドラゴンの召喚に儂の結界の要じゃったブロンズ像の破壊、それから印を刻んだ物を別の場所より取り寄せる魔法か……。さて、小僧と契約している悪魔か魔神は何じゃろうかのぅ?」
『どうやら契約している存在は、一体だけでは無さそうですねぇ』
「っ」
ふわっと浮いたと思うと、凄まじい早さで飛んできた魔神が、ステッキを斜めに振り下ろして俺を打擲しようとした。
間一髪、そのステッキを大剣で受け止めたのだけれど、ガンッというまるで鉄棒で叩かれたような音がして、衝撃が剣身に添えていた左手に走って痺れた。
タキシードの見た目だと腕が細く見えるのに、力自慢の大男が振るう槌を受けたかのようだ。
一撃がとてつもなく重い。
「ほう? この私の攻撃を受け止められるなんて、良い武器ですねぇ。さては名のある名工のひと品でしょうか?」
「銘はファナティカーだ」
「『狂信者の大剣』ですか。それはなかなか良い名にございます。あなたを殺して我が物にしても良いかもしれませんねぇ」
『主様、相手する?』
頭の中に響いてきた声は真龍のものだ。
グルルルッという唸り声が、雷のように響き渡っている。
「ほっ、いかんいかん。小僧に手を出して、頭上のドラゴンが怒っておるわい。さすがにドラゴンをけしかけられては敵わんぞ。ルードルードよ、いつものように閉じ込めてはどうか?」
「そうですねぇ。さすがの私も、ドラゴンを相手にしては骨が折れます。それでは」
何だ?
魔神がクルクルとステッキを回した。
その瞬間、身体がグラリと揺れた。
波によるものではない
これは『転移』で瞬間転移をした時に覚えるものと同じ?
突然の視界の変化に、めまいを覚えたのだ。
『主様? 主様!? ある――』
真龍の声が消えた。
めまいに耐えきれずに一瞬だけ目を閉じた俺が、次に目を開くと、周囲の景色が一変していた。
そこは乳白色の霧に包まれた場所だった。
有視界距離は十メートル程度。
真龍が巻き起こしていた風が止んでいる。
それもそのはず。
上空にあった真龍の巨体が見えない。
別の場所へ飛ばされたのか?
足場も船の甲板ではなく、白い硬質な何かに変わっている。
そして波で上下左右に大きく揺られる事も無くなっていた。
「異空間じゃよ。ルードルードは空間を操るのが得意でな? ルードルードの定めた空間へは、許可されたものしか入れなくなるんじゃよ。つまり、小僧の切り札をここへ喚ぶ事は不可能じゃ」
なるほど、空間を操る力か。
その力を応用したものが精霊を封じていた結果か。
権能にも影響を及ぼすようで、真龍の声が途絶えてしまったのも、ルードルードの力のせいらしい。
そうなると『召魔狼』でアルルを喚ぶ事も、『影騎士召喚』で黒騎士を喚ぶ事はできないわけだ。
『その空間を操るという言い方は、あまり私の好みではありませんねぇ。空間では無く、『界』を操ると訂正していただきたいものです』
「どっちでも変わらんじゃろうに……魔神のくせに細かい事にこだわるのぉ。それよりも、ほれ。小僧が魔力を収束させておる。何かをやる気らしいぞ?」
ちっ。
小さく舌打ちをする。
不意打ちを仕掛けようと、小声で『光塵矢』を詠唱していたのに、魔力の流れを感じる事ができるのか。
後ろに隠していた右手を突き出し、右指に凝集していた赤光から光条を数発発射する。
『私の操る界にはこんな使い方もありまして』
魔神がステッキの先で、前面に大きな円を描く。
高速で撃ち込んだ『光塵矢』が、円形の板ガラスのような透明な壁に阻まれた。
俺の『光盾』にも似たような、障壁を生み出したのか?
ついでに一発は爺さんを狙って射ってみたのだけれど。
『遠距離攻撃もお持ちのようですね。アダン? 私の手助けは必要ですか?』
「要らんよ。主と契約しておるんじゃぞ。空間を遮断する事くらい造作も無い」
アダンの前にも魔神と同じ障壁が生み出されていて、『光塵矢』が弾かれる。
『そうでしたね』
クツクツと笑う魔神。
「ほれ、そんな事を言うておる間に、次が来るぞ?」
生み出した『光塵矢』の光条は数十発。
尾を曳いて伸びていく光条は、傍から見たら流星群のように美しかっただろう。
「ほほ、こいつは凄いのぉ」
しかし、数十発もの『光塵矢』も、光盾を破ることは破壊することはできなかった。
ただ、これだけの『光塵矢』を射ち続けている限り、奴らも障壁を解除して何かをする事はできまい。
その間に距離を詰めて、大剣による斬撃、もしくは『光塵矢』よりも強力な『光槍』か『竜牙裂』を試す。
ところが。
『界の使い方には、こういう方法もあるのですよぉ』
うなじがチリっとした。
背後に強い殺気を覚えて、咄嗟で力任せに大剣を振るう。
大剣の刃が、魔神のステッキを受け止めていた。
『不意をついたはずですが、よく防ぎましたねぇ』
正面の『光塵矢』を防いでいる障壁を囮に維持したまま、空間を転移して背後からの攻撃。
さらに連続でステッキが振るわれる。
横振り、突き、打ち下ろし――それを大剣で弾く、防ぐ。
一撃一撃が重いけど、両手剣という武器の重量もあって、防御が弾かれずにすんでいる。
「小僧、歳は十四、十五といったところじゃろう? その歳でようもルードルードの攻撃を防ぎよる」
『そこいらの兵士、魔法士よりもずっと強いですねぇ。戦闘勘も鋭い』
「ほほほ、攻撃手段も様々じゃ。どんな存在と契約しておるのか、興味が尽きんのぉ」
背後から仕掛けられたため、『光塵矢』の圧力が消えて余裕を見せているつもりか!
空間を転移できるのがお前たちだけだと思うなよ!
「イオニスの名において命ずる。我が身を彼方へ――『転移』!」




