奴隷狩りと、黒き狼と
倉の中に下りるまでの手順は、長老を助けた時とほぼ一緒。違ったのは『飛行術』を使って屋根に空けた穴から脱出するのではなく、エルフたちが精霊魔法で倉の扉をぶち破ると外へと一緒に出たことだ。
「な、テメエらいつの間に!」
突然の事態に慌てる見張りの声、火がついたように吠える猟犬の鳴き声。
奴隷狩りの男たちが武器を持って集まってきたが、そこに怒り狂ったエルフたちの魔法が降り注ぐ!
ほぼ魔力を使い尽くした俺は、エルフたちが閉じ込められていた倉の中から、戦闘に参加できないお年寄りや子どもたちと一緒に外の様子を窺っていたのだが――。
炎の矢が降り注ぎ、風の刃が吹き荒れ、大地が噴き上げる。
「うわああああ!」
「た、助けてくれええええ!」
「キャイン、キャイン!」
怒号はすぐに奴隷狩りと猟犬の悲鳴に。
気に掛かっているのはエルフの村の結界を破ったという魔法士の存在なのだが、追い回されている奴隷狩りたちの中にはそれらしき人物は見当たらない。
人間の魔法士は貴族、騎士階級の者が多いので、エルフたちを捕まえた後は配下の者たちに任せて帰ったのか。
「馬鹿野郎! 女、ガキ、何でもいい! もう一度人質にしろ!」
一番体格の良い奴隷狩りの男が叫んだ。
あいつが奴隷狩りの幹部か!
「そこのガキどもと爺だ!」
倉の中にいた俺やエルフの幼い子ども、そして長老様に奴隷狩りどもの視線が集まるのを感じ取った。
「イオニスの名において命ずる。大地を駆ける獣の王よ、我が前に顕現せよ――『召魔狼』!」
ウォオオオオオオオオオオオオオオオオン!
遠吠えが空気を震わし、その場に居合わせた全ての者が首をすくめて恐る恐る俺の方を見た。
雄牛を軽く上回る堂々たる体躯、黒く艶やかな毛並み、鋭い牙の覗く顎は人間など一口で噛み砕けるだろう。権能によって喚び出された巨大な黒狼は、一度俺の顔を確認するように一瞥するとそれから匂いを嗅ぐように鼻を近づけてきた。
な、何だ?
巨大な顎が近づいてきたので少しびびったが、黒狼はひとしき匂いを嗅いだ後でふいっと顔を俺から離すとギロリと周囲を睥睨する。
そんな黒狼の姿は貫禄と風格が漂っていて、まさに獣の王者だ。
「あ……う……あ……」
エルフたちも奴隷狩りも、引き攣った顔で黒狼を見上げていた。良く訓練されている獰猛な猟犬どもも、耳をペッタリと倒して身体を硬直させている。
「行け」
俺の命令で、黒狼が巨体に見合わぬ速さで動く。
「う、うわああ! た、助けてくれ!」
黒狼に最初の獲物とされた奴隷狩りが必死に振り回す斧を容易くかわし、前足で横殴り。鋭い爪が奴隷狩りの服を引っ掛けて、空高く放り上げられた。
放物線が二階建ての家の屋根を軽く超えて見えなくなり――遠くで盛大に物が崩れるような音がした時にはもう、黒狼は次の獲物へと踊りかかっていた。
狂乱状態になって剣を振り回す奴隷狩りへ次々と噛みつき、地面に引きずり倒していく。
(うわあ……)
怒り狂っていたはずのエルフたちですら、黒狼の暴れっぷりを見て逃げ惑っている。
もちろん黒狼が逃げ惑うエルフたちをターゲットにする事はなく、ちゃんと奴隷狩りだけに襲いかかっていたのだが、俺と一緒にいた子どもたちは長老様を始めとした村の年寄りたちの手で、倉の奥へと連れて行かれていた。
どの顔も青褪めていた。
奴隷狩りが来るまでは平和な村だったのだ。
これ程の暴力と破壊の嵐が吹き荒れる光景など、見ることなど無かっただろう。
もう十年以上も時が経てば、国中で見慣れた光景になるのだが――。
「もういい! もういいよ!」
俺の制止の声に、ようやく黒狼が動きを止めた。
咥えていた奴隷狩りの身体を離して地面にドサッと落とした後、グルリと身体を巡らせてトットットと俺の所まで歩いてくる。
そしてまるで褒めてくれとでも言うように、尻尾をわっさわっさと大きく振って俺の顔へ鼻面を近づけてきた。
(ち、血生臭い……)
が、我慢して撫でてやる。
「イオニス!」
そこへ村外れで待っていたはずのルーシアが駆け寄ってきた。
「そ、その狼……」
黒狼の血にまみれた口元と周囲の惨状を見て、ルーシアが目を見開いて絶句する。
「大丈夫。僕の言う事を聞くみたいだ」
黒狼は僕の傍らでお行儀よくお座りしている。そういえばこいつ、どうすれば消えてくれるのだろう。何か制限時間でもあって、時間でも来たら勝手に消えるのだろうか。
もしも消えなくて、そこらの山にでも帰っていくだけだったりしたら大変だぞ。
今、俺の傍で大人しく座っているのは権能による強制力が働いているからかも知れない。
時間が来て権能から解放された途端、暴れだすなんて事は無いだろうな。山に住み着かれたらもっと大変だぞ。こんな巨狼、軍の一部隊が相手にしなければならない魔獣だ。
爛々と輝く両眼で見下ろす黒狼に恐る恐るといった様子で俺に近づいてきたルーシアが、少し掠れた声で呟いた。
「なによこれ……何ていうか凄い事になってるわね」
噛みつかれて血を流して倒れている者、踏みつけられて骨が折れた者もいるようだが、身動ぎをして呻き声も聞こえてくるから、息のある者も残っているらしい。
「フラフラじゃない? 大丈夫なの!? 顔色も悪いわよ?」
「ああ、うん、ちょっと疲れただけ」
俺の顔が青褪めているのに気づいたルーシアが、心配そうに顔を覗き込む。
権能の連発で疲労の極みというか、視界が急転して酷い乗り物酔いに近い状態になる『転移』の連発が特にきつかった。時折、嘔吐感も覚えている。
「おおルーシア! 無事じゃったか? 主がこの幼子を呼んできてくれたんじゃな」
「長老様! ご無事で良かったです」
「うむ」
ルーシアに気遣われていると、長老様がやって来た。
長老は破顔すると、ルーシアの両腕に手を回して彼女を労っている。
「主にこのような優れた人間の魔法士の知り合いがおったとは知らなんた」
「いえ、長老様。彼とは、イオニスとは今日森の中を逃げている時に出会ったばかりです」
「なんと、それは誠か!? 瞬間転移の魔法に飛行の魔法。どの魔法からも濃密な魔力の残滓を漂わせておった。どの魔法も相当高位の悪魔か魔神と契約した者にしか使えぬ高難度の魔法じゃぞ。幼子よ、主は人間の……ええっとなんと言うたかな……貴族だったか? 高貴な家の生まれではあるまい?」
俺は首を横に振ってみせた。
「父さんはただの農夫だよ」
「魔法を使えるようになったのは随分前からか? 契約した時の事を覚えておるか?」
当然覚えている。
前世で死を迎えようとしていた時、俺の頭の中へやり直したくは無いかと語りかけてきた声。その声に頷いた時こそが契約を結んだ瞬間なのだろう。
だけど俺は長老の問い掛けには答えず、曖昧な笑みを浮かべて首を傾げてみせただけだ。
「ふむ……覚えてはおらんか。もっと幼い頃、物心もつかぬうちに知らずに契約を結んだのか。そういう事もあるのかのぉ」
何も答えなかったのだが、長老は勝手にそう結論づけていた。
「長老様、あまりそう詮索しては……」
「おお、そうじゃったな。村の恩人に大変失礼じゃった。何かお礼をせねばならんのぉ」
「お礼なんてそんな……それよりも僕、そろそろ村に帰らないと」
日がかなり傾いてきている。
日が落ちて暗くなっても六歳の俺が家に帰らなければ、村中で大騒ぎになってしまう。
「そうね。あいつらの後始末もあって村の皆もバタバタしてるし、長老様お礼は後日改めてということでどうでしょう?」
「そうじゃのぉ。落ち着いたら、お礼を受け取ってもらえるじゃろうか?」
「はい、その時には喜んで」
「村までは私が送ってあげるわ」
というわけでルーシアに村まで送ってもらえることになった。
「小さいけど私よりも強いのよね……送って行く必要ってあるのかしら?」
村までの道中、小声でルーシアがそんなことをつぶやいていたが、正直言って今の俺にはありがたい。
今の俺は体力が底をついている。魔物はもちろん獣に襲われでもしたら、魔法を使って追い払う事もできそうにない。
まあ、獣や魔物が出たところで――。
「この狼というか魔獣? このまま村までついてくる気なのかしら?」
そうなのだ、俺が召喚した黒狼があれからずっとついてきているのだ。
弱ったなぁ……このまま村までついてきちゃうのかな。
「ねえ、イオニスの村の人たちはあなたが魔法を使えること知ってるの?」
「知らないよ。お父さんやお母さんにも教えてない」
「そっか、あなたくらいの歳でこんな魔獣を召喚できるなら、村で平穏な生活を送るなんてできるとは思わないもの。これからもお父さんやお母さんと一緒にいたいなら、魔法が使えることは黙っていたほうがいいわ」
俺は頷いてみせた。
黙っていた本当の理由は、ある日突然息子が魔法を使えるようになったら、おかしいなんてものじゃないからとか、その程度の理由だったんだけど……まあ、いいや。
確かにルーシアの言うとおり、魔法士は国の財産と考えられているため、魔法が使える事がバレたなら貴族の領主の元へ連れて行かれかねない。
「ねえ、いつもあの場所で魔法の練習をしているの?」
頷いてみせる。
「魔法だけじゃないよ。山を歩き回って体力を付けたいんだ」
「ああ、魔法って体力使うものね」
「うん」
「じゃあ、明日も来るの?」
「多分行くと思うけど……何で?」
「あなたの魔法を見せてよ。どんな魔法が使えるのか興味があるのよ」
「ええ?」
「大丈夫よ、あなたの魔法のことは秘密にしておいてあげる。それに私もね、精霊魔法の練習をしたいんだ。どうせ練習するなら一人でするより誰かと一緒にやったほうが楽しいじゃない? それにもしもあなたの村の誰かに魔法を見られた時、私の魔法だって言うこともできるわよ」
「う……」
「私が上手く誤魔化してあげるからさ、私に使える魔法を色々見せてよ」
これは彼女のほうが上手だ。
それに考えてみると前世の俺は魔法が使えなかったので、今は手探りで権能の使い方などを考えている。魔法の専門家とも言えるエルフのルーシアと一緒に練習できれば、一人では思いつけない権能の使い方や効率的な訓練方法も教えてもらえるかもしれない。
「わかったよ。明日も必ず来る」
「ふふ、約束よ」
◇◆◇◆◇
「じゃあ、私はここまでね。私が村に入ると皆をびっくりさせちゃいそうだし」
「うん、ありがとう」
村の近くまでルーシアに送ってもらい、別れの挨拶とお礼を言った後。
「さて、お前をどうするかな。このまま村にまでついてこられると困るんだよなぁ」
まるで飼い犬のように俺の傍らでちょこんと座る黒狼を見上げて、俺がため息を吐いた時の事だ。
「うわ!」
黒狼からブワッと突風が吹き付けて、思わず顔を庇い――。
「……主様と同じ匂い。でも、違う」
たった今まで黒狼が佇んでいた場所に、女がいた。
外見は若い娘だ。烏の濡れ羽のような漆黒の髪が印象的な美しい娘。それ以上に驚いた事は娘の頭に狼の耳、そしてお尻からは髪と同じ漆黒色をした尻尾がわっさわっさと振りたくられていた事だ。
驚きに固まっている俺に近づいてくると娘は、俺の頬に両手を伸ばしてまるで壊れ物に触れるように恐る恐る触れた。
良い匂いがする。なんだろう、どこか懐かしい匂いだった。
「……主様じゃない。あなたはいったい、だれ?」
「イ、イオニス」
「イオニス……そうイオニス……」
名前を告げると彼女は何度も名前を呟いて頷いた。
「……私はアルル」
アルル? この娘、というか巨狼の名前か? 『マルコシアス』が名前じゃないのか。
アルルと名乗った娘は自分の頭に手を伸ばし、ぷつっと髪の毛を一本抜き取った。
そして僕の左手を取ると、薬指へ結ぶ。そしてそのまま僕の薬指へ軽く唇で触れるようにキスをした。
「……契約の証」
アルルが顔を上げた時には、不思議な事に左手の薬指に結ばれていた髪の毛は綺麗に消え失せていた。
「……召んでもらえて嬉しかった。またね」
待ってくれ、そう言おうとしたのだが、アルルはトンッと跳ねるように軽やかに後ろへ飛ぶと、そのまま木の陰に溶け込むように消え失せていた。
漆黒の毛並みを持つ巨大な狼。
耳と尻尾こそあったが、魔獣は人そっくりに化けられるものもいると聞いたことがある。
呼び止めようとしたのは、人語を理解できる彼女に聞きたいことがあった。
『――主様じゃない』
アルルという名前のあの黒狼は、この権能を与えてくれた存在を知っていそうだった。
あの声が何者だったのか、それを知れば権能をより上手く使いこなせるようになれたかもしれない。
『召魔狼』の権能で喚べば、またあのアルルが来てくれるのだろうか?
もしそうなら、その時にでも声の主が何者なのか聞いてみよう。
そう思い直すと、俺は日が沈んで暗くなりはじめたあぜ道を走って家に帰ったのだった。