火災と、異界の魔神と
夜空が真っ赤に染まる。
パリーンという、熱で窓ガラスが弾けて割れる音。
ワンワンワンッという、けたたましい犬の吠え声が、貴族街のあちこちから聞こえてきた。
馬車から飛び出した俺とアセリア中佐は、プルシェンコ邸の門の前まで駆けつける。
鉄格子製の門から覗き込めば、火は恐ろしい勢いで屋敷全体に廻ろうとしていた。
とにかく炎の勢いが凄まじい。
俺たちが覗き込んでいる鉄格子の門は、屋敷から庭園を挟んでいてそれなりの距離があるのだが、それでも窓から噴き出す炎の熱気が伝わってきて顔が熱い。
「何だ、火事か?」
「火元はイメドエフ男爵の屋敷か?」
周囲がざわざわとしてきた。
火事に気付いた近所の人々が、通りへ様子を見に出てきたのだ。
「ま、まずいぞ。この火の勢いでは我が家に燃え移るじゃないか! 消防隊は何をしているのだ!」
大声で叫び、慌てて踵を返したのはプルシェンコ大尉邸の隣人だろう。
主人と一緒に通りへと出てきていた家の使用人を集めると、急いで屋敷の中へと飛び込んでいく。
確かにこの火の勢いでは延焼もあり得る。
火が廻ってこない間に、使用人たちとで金や貴重品類を運び出すつもりなのかもしれない。
気の毒ではあるが、今は隣家の事は置いておく。
鉄格子でできた正門をなんとかこじ開けようとしている俺たちへ、人影が走ってきた。
「部下だ」
不審者かと身構えた俺を制したアセリア中佐が、その人影から何やら耳打ちをされている。
一度、二度とアセリア中佐は頷くと、部下の人はまた別の場所ヘと走っていき、中佐が俺に小声で教えてくれる。
「周囲に部下を何人か潜ませていたのだが、屋敷へ近づく者、侵入を謀ろうとした者は見なかったそうだ。私と貴君も聞いたように、爆発音がして火の手が上がったそうだ」
「中佐は、ただの失火だと思いますか?」
「父親の帰還祝いで焼いたケーキのロウソクが倒れて、失火した……冗談だ。王都に召還された重要な証拠を握る人物の屋敷が、このタイミングで火に包まれる。そんな事が起こる確率なんて、万に一つも無いだろうよ。ク……」
「はい」
左手のひらへ右拳をパンッと打ち付けたアセリア中佐の顔には、悔しさが滲み出ていた。
王女暗殺を命じた何者かが、口封じを目的に、プルシェンコ大尉の屋敷へ火を掛けたに違いない。
「火が出てから屋敷の敷地より外へ出た者もいない。犯人はまだ中にいるかもしれない。それと生存者がいたら救出を」
俺とアセリア中佐、それに他にも中佐の部下なのか近所の者なのかわからないが、男たち数人で鉄格子の門の錠を体当たりで壊す。
そして数人がバラバラとプルシェンコ邸の庭へと足を踏み入れたのだが。
「うっ……」
炎の勢いも凄いが、何より熱気にモクモクと噴き上がる煙と火の粉がひどい。
煙が目に染みて、まぶたを半開きにするのがやっとだ。
大量の水があれば『操水』で放水を、と思って庭を見回したが、井戸のようなものは見当たらず、あったのは水深の浅い小さな池だけだ。
この程度の水の量では、この火勢では焼け石に水にしかならなさそう。
ガシャンッ。
またガラスの割れる音がした。
音のした方を振り返ると、二階のバルコニーから一脚の椅子らしき物が下の庭へと落ちるところだった。
そして割れた窓から、三人の人影が転がるようにして出てくると、そのままその場に崩折れるのが見えた。
生存者だ!
最後の力を振り絞り、椅子を使ってバルコニーに通じる窓ガラスを叩き割ったのだろう。
だがもう、バルコニーから動けるほど力が残されていないようで、その場にうずくまったまま動こうとしない。
もしかしたら意識を失っているのかも。
どのみち炎がバルコニーの下からも噴き上げ始めている。あれではもし意識があったとしても、庭へ飛び出す事は難しかったかもしれないが。
それよりももっとマズイのは、立ち昇る煙が三人がうずくまるバルコニーを包もうとしている事だ。
あれでは後数分もしないうちに煙に巻かれてしまい、熱気で気道を火傷するか窒息死してしまう。
「消防隊はまだ駆けつけないのか! 誰でもいい! 消防隊を呼んで来い! 急げ!」
アセリア中佐が強い口調で指示を出す横で、
「イオニスの名において命ずる。我が身を焦がす業火を退けよ――『耐熱』!」
「貴君!?」
アセリア中佐の隣をすり抜けて屋敷へ走り出すと、バルコニーの真下へ。
「イオニスの名において命ずる。我が身を彼方へ――『転移』!」
瞬間転移でバルコニーまで移動する。
バルコニーで倒れ込んでいたのは、初老くらいの男性が一人と若い女性が二人。
夜なので寝具を着ていたが、おそらく三人とも使用人と思われる。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
三人の肩を叩くと、煤で汚れた唇が微かに動く。
よし、まだ息がある!
と、その時。
ブオッという音がして、バルコニーの下の方から炎が噴き出してきた。
急がないと、俺はともかくせっかくの生存者が死んでしまう。
「中佐ぁ! 生存者をここから下ろします!」
「わかった! シーツか何か調達する! 下で何とか受け止めよう!」
「お願いします!」
アセリア中佐が部下に命じて走らせた。
その間俺は、立ち込める煙で目が痛い中、さっき見つけた庭の池へと目を移す。
池までの距離はそこそこあるな。
権能は、あの距離で届くか!?
ところで『耐熱』という権能、炎に炙られようとも全く熱を感じないのだが、煙には全然無力だな。
ケホケホと俺も咳き込むようになってきたところで、アセリア中佐の部下たちが大きなシーツを持ってきた。
あれで人を受け止めるつもりなのだろうが、問題はバルコニーの下でますます火勢を増す炎。
煙よりも猛烈な熱気に阻まれて、中佐の部下たちも近づけないようだ。
ならば、届いてくれよ。
「イオニスの名において命ずる。舞い踊れ水よ、静謐なる世界を導け――『操水』!」
お、権能はちゃんと届いた。
池よりズズズッと盛り上がった水が、バシャッとバルコニー下の炎へ叩きつけられ、一時的に火勢が弱まる。
今だ!
「よし、いいぞ貴君!」
火勢が弱まったのを見て、バルコニーの下でシーツらしい布が拡げられていた。
その四隅はアセリア中佐が創造した泥人形が握っていた。
なるほど。
泥人形なら、火や熱、煙を気にする必要が無いからな。
「落とします!」
少しだけ残しておいた『操水』で操った水を、俺と生存者三名にぶっ掛ける。
まずは女性から救出しよう。
バルコニーの手すりを『竜牙裂』で破壊すると、女性から抱えあげて下のシーツ目掛けて落とす。
それにしても、身体から力を失った人ってどうしてこうも重いのか。
一人、二人と女性から下ろしていくと、最後に初老の男性を担ぎ上げる。
「しっかりしてください。もう少しで助かりますよ」
「……うぅ」
と、その時。
うなじに覚えたチリチリとした嫌な感覚。
とっさに俺は男性をバルコニーから下へと落とすと、その場へ倒れ込むようにして伏せた。
その直後。
ドンッと再びくぐもった爆発音。
『耐熱』の権能のおかげで熱は感じないが、炎がゴウッと俺の身体を炙って行く感触を覚える。
今の炎の噴き上がり方、自然なものじゃないぞ。
身体を起こすと、割られた窓から見えた部屋の中に面妖な影がある。
何だ、あれは?
見たままに説明をすると、細くて黒い棒のような胴体に、うねうねとした薄っぺらくて細い手足。
そしてその全身はぼろきれのような、包帯に似た布が巻き付いて、熱気に煽られてゆらゆらと揺れていた。
最後は大きな玉子のような顔だ。
ぎょろりとした巨大な目と、大きな口がついていた。
人ではない。
そして魔獣のような獣系の魔物でもない。
となると、思い当たる正体は一つしか無い。
――魔神。
召喚士によって呼び出される者の中で、最も最悪の存在。
人に近い姿を取る魔神程、高位の存在とされているのだが、とりあえずこの棒のような魔神は人からは程遠い姿なので、下級魔神に分類される存在だろう。
それでも、『神』の名に相応しい力は持っている。
しかし、下級魔神によってこの火事が起こされたなら、アセリア中佐の部下の屋敷への侵入者を見てないという言葉に頷けた。
別の場所で下級魔神を召喚すればいいだけの話だからだ。
そして空でも飛んで屋敷へと侵入する。
俺が王立士官学校から出てきた手と同じ方法だ。
下級魔神の足下に倒れた二人の人影、そしてその奥の壁へもたれ掛かるようにして、今まさに炎に巻かれつつあるもう一人が見えた。
奥の壁にもたれ掛かった人物はプルシェンコ大尉。
そして魔物の足下に倒れているのは、馬車から覗いていた時に確認した大尉の妻と幼い息子だった。
三人とも脈を見る必要もなく、事切れているのがわかる。
なぜなら胸から腹部に掛けて、大きな穴が空いていたのだから。
「火元はプルシェンコ男爵の屋敷か?」⇒「火元はイメドエフ男爵の屋敷か?」
王国軍外では名前呼びじゃなかったことを忘れてましたので訂正。
プルシェンコ・ヴァン・レイ・イメドエフがフルネームです。




