ご褒美(?)と、戻ってきた相棒と
翌朝。
まだ寝ているルナレシアを起こさないよう眠い目を擦りつつ、朝五時に教室に集った俺たちは、リゼル教官の用意した馬車に乗せられて士官学校の正門を潜った。
王立士官学校は王都リーリアの人気観光スポットの一つなのだが、さすがにこんな早朝に観光客の姿は無い。
もちろん観光客目当ての露天も、小銭稼ぎのガイドの姿も無く閑散としていた。
そういえば、ルナレシアと一緒に王都へ到着した日に見に来たなぁ。
あの時は中を覗き込んで圧倒された覚えがあるが、実際に士官学校に入学してみて感じ方が変わった事がある。
通りの左右に見えた芝生とベンチ。あれ、休憩時間に候補生や職員が、のんびりと昼食を取ったりする休憩ポイントかと思ってたんだけど。
だが、現実は、食事はとにかく口に詰め込んでの訓練三昧。
ベンチで恋人同士が座ってキャッキャッウフフしている所なんて見たこと無い。
その奥に拡がる森は、外から覗き込む観光客の目から施設を隠すためのもの。
つまりベンチも芝生も森も、全てが外部の目を誤魔化すためのものなのだ。
騙された。
王立士官学校は紛うことなき軍事施設という事だった。
士官学校の正門を出た馬車は、御者一名、教官一名、俺たち普通科士官候補生六名を乗せて市壁沿いに通りを走る。士官学校に入学して以後数ヶ月ぶりの校外だ。
そのまま市壁の正門から外へ数キロ先の外壁へ。
そして外壁の門も通過すると、やがて川面が遠くに見えてきた。
「おいのろまの豚ども! 貴様らの中で泳げる者は挙手しろ!」
スッと手を挙げたのは俺だけだった。
「また貴様か……」
すみませんね、また俺で。
ふぅと一息吐いたリゼル教官は、御者に行く先を何やら指示している。
それからおよそ三十分の時が過ぎて、ようやく馬車が停まった。
馬車が停まった場所は峡谷。
谷底には緩やかに流れていく川、そして谷には一本の橋が掛けられている。
「全員こっちへ来い!」
リゼル教官が橋の上に全員を並ばせるた。
「イオニス候補生」
「――はい」
「貴様、ここから飛び下りて泳ぐ事はできるか?」
橋から水面までは七、八メートルくらいか?
「できます」
「なら、貴様の能無しな同期のために、手本を見せてみろ!」
「はい。教官、服は着たままでもよろしいのでしょうか?」
「着衣のままでも?」
「可能です、教官」
「ん……いや、水着に着替える事を許可しよう。着替えてきたまえ」
「はっ、イオニス候補生、着替えます!」
というわけで馬車の陰でさっさと短パン水着姿に。そして準備体操を終えると、
「お、おい、イオニスのあんちゃん。マジでこっから飛び込むんか? 死ぬ気か?」
「イオニスさぁん、止めておいたほうがぁ……」
「「「あ……」」」
ヒョイッと高欄を乗り越えて、飛び込んだ。
ヒャアア、結構深い! そして冷たい水が気持ちいい!
川の水は澄んでいて、たくさんの魚が泳いでいるのが見える。
水面から顔を出して上を見上げると、全員が唖然とした顔で橋の上から見下ろしていた。
「イオニス候補生! 向こう側の岸からこちらから上がって来られる!」
「――はい」
本音はこのまま川の流れに身を任せて、水にプカプカと浮いていたい気分だ。
でも言われたとおりにリゼル教官が指差した方へ泳いで行き、浅くなっている場所を見つけた。
そこから岸に上がって歩いて橋まで戻ると、皆は再び馬車に乗り込んでいて、リゼル教官だけが馬車の外で待っていた。
「ご苦労。身体を拭いて馬車に乗れ。貴様が乗り次第出発する」
言われた通りに馬車に乗り込むと、普通科の同期たちが一斉に青褪めた顔を向けて来た。
「な、何だよ?」
「いえ、先程リゼル教官から言われまして……、二週間で僕たちもあの橋から飛び込んで泳げるようになれ、と」
なるほど。バウスコールの言葉で話は全て理解した。
それで馬車の中がお通夜状態となっているわけだ。
再び馬車が停まったのは、先程の橋から二百メートルくらい下った場所だった。
さすがに水泳初心者を、足が付かない水深の川に放り込む程リゼル教官も鬼ではなかったようだ。
全員水着に着替えさせられて整列。
「泳げないのはイオニス候補生を除いた五人か。イオニス候補生」
「はい」
「先程橋から飛び込んだ褒美だ。貴様、エイリーン候補生とドム候補生に泳ぎを教えてやれ。それ以外はこっちで教える」
何ですと!?
(何やて!? きっつい訓練のほんの僅かな清涼剤、エイリーンちゃんとは別なんかい!)
「訓練中、諸君の集中を妨げるようなものは遠ざけておかないとなあ?」
俺たちにギリギリ聞こえるくらいの小声だったにも関わらず、リゼル教官がチットを見てニヤリと笑う。
(そんな殺生な……、それじゃあご褒美の訓練にならんやんけ……)
というわけで、俺がエイリーンとドムに水泳を教える事となった。
「はぅう。お、溺れるぅ、溺れますぅ!」
ちょっと顔を付けるだけで大騒ぎ。
「ひゃあ、い、イオニスさん! イオニスさぁん!」
きゃあきゃあ悲鳴を上げては俺の身体にしがみついてくる。
それも水着でだ。
そうなると、こう、俺の腹から胸元に掛けて押し付けられたり、腕が挟まれたりするわけだ。
エイリーンの、同年代と比べれば豊か過ぎる程豊かな胸に。
腕が挟まれた時なんてもう、ヤワヤワとした感触がダイレクトに伝わって……、二の腕がすっぽり挟まってしまって見えないんだぜ!?
信じらんねぇ……。
こ、これが今日一日中……いや、エイリーン次第では明日も、明後日も続くのか……。
精神はおっさんでも、身体は十四歳の男の子なんだ。
ルナレシアには悪いけど、今日この時程、同じ部屋だという事を悔やんだ日は無かった……。
◇◆◇◆◇
水練が始まって一週間。
その日の水練を終え、クタクタになって士官学校に戻った時。
「イオニス候補生は後で教官室へ来るように」
リゼル教官に呼び出された俺は、本校舎にある教官室を訪れた。
「イオニス候補生、入ります」
踵を揃えて中に入ると、リゼル教官の机の横に長い布包みが置かれてあった。
「来たか。まずは貴様に荷物が届いている。確認してくれ」
荷物?
リゼル教官の示した長い包みに記された荷主の名前を見ると、『アセリア・ヴァン・レイ・ルドリアム』の名前が。
アセリア中佐が送ってくれると言っていた俺の愛剣『ファナティカー』か!
「間違いなければこの受領書にサインをくれ」
「はい」
ペンを借りてサインをすると、リゼル教官は自分の椅子に座って足を組んだ。
「イオニス候補生。貴様が先日処理した侵入者について、警備部から報告が入ったので報せておく。侵入者の素性について王立士官学校関係者はもちろんの事、王国軍関係者にも当たってみた所、残念ながら奴を見知りする人物は存在しなかったという事だ。引き続き調査は続けるそうだが……まあ、このまま正体は謎のままか、他国の工作員という事になるだろうな」
つくづくあの時、生かしたままで捕らえたかった。大した情報は持っていなかっただろうけど。
「用件はそれだけだ。下がっていいぞ」
「あ、あの教官。実は一つ、聞いて頂きたい事があるのですが」
「何だ?」
「夏期に行われる山岳踏破訓練の事なのですが――」
教官室から寮へ布に包んだ『ファナティカー』を抱えて戻ると、皆が夕食のために食堂へ集まっていた。
「何やそれ?」
「故郷からの届け物ですか?」
「差出人はアセリア・ヴァン・レイ・ルドリアム……アセリアって女の名前やん!」
チットが目ざとく荷物の差出人の名前を読んでいた。
「まあ、アセリアからですか?」
ティアを胸に抱いたルナレシアが驚いた声を上げた。
「誰や!? アセリアって! あんちゃんのコレか? コレなんか!?」
小指を立てんな、小指を。
「――待て、チット。ルドリアムと言ったか?」
「おう、ヴァン・レイ・ルドリアムやって、この名前貴族やんか!」
「ルドリアムといえば西武に領土を持つ伯爵家だぞ? 過去には大将も排出した軍閥系の名門じゃないか」
「ルナの関連でね。ちょっとした知り合いなんだ」
「レイ――本家筋のお姫様とか? いや、姫様とも知り合いだったのだから不思議では無いのか……。それにしてもイオニス、お前は本当に農民の出身なのか? 何だか信じられなくなってきたぞ……」
「俺は血統書付きで正真正銘の農夫の息子だよ、イグナシオ」
「それよりもぉ、その荷物は何が送られてきたんですかぁ?」
「随分と重そうじゃったのぉ?」
包みを解くと中から現れたのは、鈍色の輝きを放つ大剣。
「ほほぉ……、両手剣か。そういえば、戦技試験でもイオニスは両手剣使っておったな」
ドムが感嘆のため息を吐いた。
「これをアセリアに頼んでいたのですか?」
「うん。エイジェスさんの最期に立ち会った事と、ルナを助けたお礼にだって」
「イオニスさん。ちょっと持たせてもらっても構いませんか?」
「ああ」
俺が頷いたのを確認すると、バウスコールが大剣を持ち上げた。
「うわあ、僕の背丈と変わらないくらい刀身があるだけあって、手にズッシリと来ますね」
「『ファナティカー』という銘で、タンガスの街から取り寄せてもらったんだ」
「ほ、タンガスの街といえば、名のある刀剣工房が多い事で有名な東部の街じゃな」
「ファナティカー……狂信者の大剣、という意味ですかね? 何だか呪いが掛けられていそうで、気味が悪い名前ですね」
「作らせた人物が狂信者っぽい人だっただけで、その剣が呪われている事は無いから安心しろ」
何しろ今の時点でこの剣が奪った命は、首を切り落とした馬一頭だけなのだから。
その程度で呪われているなら、肉屋の包丁の方がよっぽど呪われているだろう。
ただ、前世で俺が振り回していた大剣は、案外呪われていてもおかしくないかもしれない。俺の手に渡ってからは、三桁は軽く人の命を奪っているからな。
戦場で命を落とした後、大剣がどうなったかは知らないが、もしも誰かに拾われて持ち去られていたなら、いずれ呪われた剣として伝来されたりして。
「この刃の根元を握って使うんですか?」
大剣の刀身の根元と鍔の間には、刃を付けていないリカッソがある。
取り敢えず今の俺の腕力だと、リカッソを握って戦わなければ長い時間は戦えないな。
「イオニスのあんちゃんはそれが得物なんか? そういえばワイら、ここに来てから武器を使った訓練は一度もやっとらんな」
「自主訓練くらいはしとけよ。僕は朝夕、必ず剣を振っているぞ」
「素振りくらいはワイかてやっとるわい。でもなあ、一人でやってもやれることには限りがあるやろ?」
「それなら、ここにいる皆で試合くらいすればいいんじゃないですかね? 僕はぜひイオニスさんに手合わせして欲しいなって思っていたんですよ」
「へえ、コールは戦技に自信あり?」
「いえ、全然です」
「何や。自信ありじゃないんかい?」
笑いながら頭を掻いているバウスコールに、チットが突っ込んだ。
「……はあ、しっかしその話も水練が終わってからにしてくれや。水ん中で動くんがあんなにも疲れるもんとは思わんかったで」
「水練とはそんなにも疲れるものなのですか?」
怠そうに腕を回すチットに、ルナレシアが尋ねた。
「水の抵抗のせいで、陸で動くよりも体力を消耗してしまうからのぉ」
「夏の暑い日にぃ、遊びで泳ぐだけでしたらぁ、きっと楽しいんでしょうねぇ」
「エイリーンさんは泳げるようになったのです?」
「はいぃ、イオニスさんがぁ、あたしに教えてくれたのですよぉ」
「え? イオがエイリーンさんに教えているのです?」
「そやでぇ、姫様。ホンマ羨ましいやっちゃ。疲れる水練も、エイリーンちゃんとマンツーマンできゃあきゃあ言われて抱きつかれてたら、疲れなんか吹っ飛ぶやろ」
「だ、抱きついてなんてぇ……いませんよぉ」
「おい、誤解されるような事を言うなよ。ドムも一緒なんだからな!?」
「だ、抱きついた、んですか……!?」
ボッと赤くなったエイリーンを振り向いたルナレシア。
「こ、これが、イ、イオに……」
「ひ、姫様ぁ?」
ルナレシアにジーっと胸を見つめられたエイリーンが、居心地悪そうに腕で胸を隠す。
「さ、最初の頃だけですよぉ、今はもう、泳げますからぁ」
「ああ、なんでワイは泳げんかったんやろうなぁ。ワイが泳げていたら、あれがワイのもんやったのに……」
「――私の胸はぁ、誰の物でもありませぇん!」
それから更に一週間が経過して、水練最終日。
軍服を着たままで橋の上から川へ飛び込み泳ぐ所まではできなかったが、全員水着でなら泳げるまでになった。
そしていよいよ、山岳踏破訓練が始まる。




