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立花道雪遺香~鎮西の片田舎で生まれた没落武士が天下の雄将へと成し遂げる行く末を見届けようと思う~  作者: 和本明子
一章 立花(戸次)道雪の初陣 大永6年(1526年)

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廿五 戸次氏十四代目当主、戸次 左衛門大夫 親守

 府内、上原館(うえのはるやかた)


 大広間の中央に戸次孫次郎(べっきまごじろう)が座しており、その背後に戸次親久(べっきちかひさ)(戸次分家・片賀瀬の当主)と安東家忠も腰を下ろしていた。


 孫次郎は(まげ)をきっちりと()い、良質の直垂(ひたたれ)を着込んで身だしなみを整えており、家忠たちも同様に正装していた。


 孫次郎は親家の葬儀を終えると、その旨などを報告をしにやってきていた。


 部屋の左右(さゆう)には宿老(しゅくろう)年寄衆(としよりしゅう))、聞次(ききつぎ)といった大友の中枢(ちゅうすう)(にな)う家臣団が列席しており、誰もが孫次郎に視線を向けていた。


 上座(かみざ)に座す大友家当主‥‥大友義鑑(おおともよしあき)も孫次郎を見つめていた。


 先の馬ケ嶽城合戦の勝報(しょうほう)の時と(くら)べて、(おご)そかな雰囲気に包まれており、孫次郎は(かしこ)まりつつ父・戸次親家(べっきちかいえ)の死去を伝えると、大友義鑑は沈痛な表情を浮かべて(くちびる)を震わせつつ口を開いた。


戸次丹後守親家べっきたんごのかみちかいえ身罷(みまか)れたのこと、(まこと)に残念であった。病弱ながらも大友家を長年支え奔走(ほんそう)し、あまつさえ此度(こたび)の宇佐神宮からの救援の申し出をに逸早(いちはや)く駆けつけ、大内の(はかりごと)を阻止した(こう)天晴(あっぱれ)である」


「御屋形様から、そのようなご()めの御言葉をいただき、父上も喜んでいると存じます」


 馬ケ嶽城の戦いの後、大内は宇佐神宮に使者を送り、弁明(べんめい)に参じた。


 大内の使者はふてぶてしく、“元”配下の間田と佐野たちが“勝手(かって)”に武器と兵を集めていたとして、宇佐神宮や周辺の国人衆に迷惑をかけた()びに、謝意の進物と巨額の金子(きんす)贈呈(ぞうてい)し、宇佐神宮との講和を持ちかけたのである。


 宇佐神宮としても豊前国で(あらそ)いが激化するのを危惧(きぐ)したのであろう。無難な落とし所としての講和を受諾(じゅだく)したのだった。


 発起人(ほっきにん)である宇佐神宮が手を引いてしまっては、大友(戸次)としても(ほこ)を収めるしかない。


 大義名分(たいぎめいぶん)を失った戸次軍は宇佐神宮からの撤退(てったい)要請(ようせい)を受け入れ、近い内に馬ケ嶽城から引き上げる予定となっている。

 その為、まだ戸次親延たちは残務処理で馬ケ嶽に滞在しており、今回列席できなかったのだ。


 多数の者が大内との全面戦争にならなくて済むと胸を()()ろしたが、


――まだ、その時ではない。


 大友義鑑や吉岡長増といった一部の宿老たちは、そう遠くない時期(じき)に大内とぶつかるだろうと推知(すいち)していた。


「大内との戦は今(しばら)くは収まるだろう。また、馬ケ嶽の勝軍(かちいくさ)における恩賞(おんしょう)祝宴(しゅくえん)などが(ないがし)ろになってしまっているが、()(もっ)て戸次家の家督相続について評議しなければならない」


 大友義鑑は声を大にして語りかける。


「だが、此度の勝軍(かちいくさ)‥‥戸次丹後守親家の嫡男(ちゃくなん)、戸次孫次郎は元服前にも関わらず、親家の名代(みょうだい)として軍の総大将を見事に務めあげ、勝利に導いた。戸次家の当主としての気質(きしつ)は適当であり、戸次の家督を継ぐに相応であると示したと思う。異議ある者はおるか!?」


 戸次親久が答える。


「戸次親延の名代、戸次親久。戸次親族衆(しんぞくしゅう)、異議はございません!」


 続けて安東家忠も自身の名を名乗った後、


「戸次御家来衆(ごけらいしゅう)、異議はございません!」


 そして周囲の宿老の誰かが「異議なし!」と発言すると、立て続けに「異議なし!」と連呼されていった。


 場が落ち着くと、大友義鑑は深く(うなず)き改めて口を開く。


「うむ。では、戸次孫次郎を戸次家当主として認める。また此度は元服の儀も兼ねて()(おこな)うとし、戸次孫次郎に偏諱(へんき)を与える。慣例(かんれい)(なら)い、わしの一字“鑑”を与えるとして、孫次郎よ。何か所望(しょもう)はあるか?」


「恐れながら、御屋形様。身共(みども)は此度の戦において、手柄(てがら)など何一つ挙げておりません。此度の勝軍(かちいくさ)父上(親家)のお膳立(ぜんだ)てがあったからこそ。身共は父上の尻馬に(またが)っていただけに過ぎません」


 宿老たちは健気(けなげ)珠勝(しゅしょう)な心持ちだと感心しただろうが、孫次郎の本心からの言葉だった。

 孫次郎は義鑑を見据え、話しを続ける。


「故に御屋形様より偏諱を(たま)わることは、まだ身共には不相応(ぶそうおう)であり、御屋形様の御名を(けが)すかと存じます」


「‥‥ならば如何(いかが)する?」


「身共が(まこと)一廉(ひとかど)と認められるまで、戸次家の通字であり、父上と同じ“(ちか)”を名乗らせて頂きたく存じます」


「“親”をか‥‥。して、下の名は?」


「守るの“(もり)”を考えております」


「“守”? 何故(なにゆえ)に、その名を?」


「父上との約束でありましょうか。父上が今際(いまわ)(きわ)に伝えてくださった心得(こころえ)を守り果たすための所願(しょがん)を込めております」


「戸次‥‥親守(ちかもり)か。ふむ、良い名だ。よかろう。“鑑”の偏諱は、そなたが一廉(ひとかど)と成した(あかつき)に与えようぞ」


 大友義鑑は息を吸い、気持ちを整えると、より一層大きな声で張り上げる。


「では、戸次家当主、戸次孫次郎を“戸次親守(べっきちかもり)”と改め、“左衛門大夫(さえもんのたいふ)”を官位を叙位し、“戸次左衛門大夫親守べっきさえもんのたいふちかもり”とする。また此度の勝軍の論功行賞(ろんこうこうしょう)として、戸次親家の官位昇叙(かんいしょうじょ)とし“常陸介(ひたちのすけ)”を叙位(じょい)する」


 戸次親久、安東家忠は叫びたい気持ちを抑えつつも、両眼から大粒の涙が溢れ出していた。

 孫次郎‥‥いや、戸次親守は驍猛(ぎょうもう)なる熱い意志が込もった大きな(まなこ)で大友義鑑を見据え続ける。


「して、戸次左衛門大夫親守よ。今月より在府(府内に駐在)し、館に出仕(しゅっし)して奉公するよう命じる。日々精進(ひびしょうじん)するよう(はげ)むがよい」


「かしこまって(そうろう)


 親守の(りん)とした声が響き渡った。


 大友義長、戸次親家を知る宿老たちは、在りし日の二人の幻影(姿)が大友義鑑、戸次親守に重なって見えた気がした。


 父たちの想いが子らの代で果たされても、また新たな想いが紡がれていくのだろう。



 戸次親守の名は、今はまだ府内・上原館でしか知られていないが、この若武者の名や武功が周辺国、鎮西(ちんざい)(九州)だけでは収まらず、天下に。

 そして遥か遠い未来にまで豪雷(ごうらい)のように(とどろ)くなど、この時、誰も想像だにしない。


 そこへ至る道は険しく、幾つものの苦難と戦いの日々が待ち受けているが、その時まで見届けていこう。見守るように。



第一章 初陣 -了-

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