二 雷神
豊後、藤北――今で言う大分県豊後大野市に位置する場所にあり、そこが戸次鑑連の生まれ故郷だった。
四方を山に囲まれ、僅かな耕地に田畑を耕して営んでいた。決して豊かな土地柄ではないが、暮らせる土地があるというのは先祖代々より幸甚の至りだと教えられていた。
それは元々、府内(現・大分市)の近い場所に戸次川(現・大野川)と呼ばれる川が流れており、川周囲の地域を戸次荘と呼ばれていた。その名の通り、戸次家は地頭職として、ここに住んでいたのだ。
なお、“へつぎ”から“べっき”と云うようになったのは、おそらく時の流れで呼びやすい方に変化していったか、地名と紛らわしかったので言い換えられたのではと考えられるが、定かではない。
戸次氏は、元は豊後に古くより住まう大神氏流の臼杵氏の出の者だったのだが、鎌倉時代――戸次家に嫡子が無かったので、守護としてこの地に任じられた源家と深い縁がある大友氏初代当主、大友能直の孫を養子として迎え、引き継がれた。正しく言えば、大神氏流だった戸次氏が平和的に大友家へと取り込まれたのだ。
こうして戸次氏は大友能直公を祖に持ち、その系統から時の幕府の要職に就くほどの名門だった。
しかし、先祖が時の幕府から勘気を受けて蟄居されたりと先祖伝来の地である戸次荘から追われてしまい、戸次家は各地に流転したという。
流れに流れて、府内より遠く山深い場所――ここ藤北へと辿り着いたのである。
といっても、藤北は府内と大野群(現・豊後大野市)の境目に在り、中継地として重要な地。そもそも藤北の地は大友能直公が鎌倉から豊後へ訪れた時に初めて切り拓いた土地。
その縁もあってか藤北には能直公の菩提寺(勝光寺)が建てられており、またその近くに戸次家の菩提寺…常忠寺には能直公の供養塔が奉られている。戸次家にとっても縁のある地なのだ。
戸次鑑連(後の戸次道雪)……この時、親守の名であった頃。血気盛んな年頃であり、一族の名誉回復と繁栄の為に粉骨砕身で奉公(軍役)に勤しんでいた。
畏怖するものはなく、我先にと戦場を縱橫に駆け巡り、何度も一番槍、一番首の手柄を立てるほど武勇に秀でいた。
今回も軍場で手柄を立て、馬にまたがり意気揚々に一足早く藤北へと帰った時だった。
藤北の村の広場で村民たちが集って話し合っていた。
自分(親守)たちを迎え入れる準備をしていると思ったが、そうではなかった。
「鎧ヶ岳に化物が出ると?」
「ええ、そうでございます。つい最近、山(鎧ヶ岳)へ山菜を採りに行った女たちが熊や猿とは明らかに違う生き物と遭遇しまして、命からがらに逃げてきたのです」
「熊や猿などではない?」
「ええ。動物とは違う只ならぬ気配だったそうです。まさかと思いますが、妖かしの類かもしれません。女たちは怖がって山に入りたくないと。これでは山菜や狩りができません」
「なるほど」
「それで山狩りをしようと人手を集めていた……というより、戸次さまたち戦に駆りだされた若者が帰ってくるのを待っていたのです」
「あい、解った。あとは俺に任せておけ」
馬上のままで長老から話しを聞いた親守は手綱を引き、馬を歩かせる。
「戸次さま、何処へ?」
「決まっているだろう。化物退治をしに行くのだ」
「戸次さま、お一人でですか?」
「ああ、他の者は歩きで帰ってきたのもあり疲れている。化物の一匹や二匹、この親守に任されよ!」
得意満面に宣言すると長老たちの呼び止めも聞かず、鎧ヶ岳へと向かって走りだしたのだった。
藤北の北西には、鎧ヶ岳、烏帽子岳、雨乞岳と名付けられた三つの山(峰)があり、その麓に戸次家の居城・鎧ヶ岳城が築かれていた。
城といっても普通の家屋(大きめ屋敷)が建てられ、柵や堀、岩を積み重ねた塁が築かれている程度のものだった。
城ではなく館といった方が相応しく、周囲からも藤北館と呼ばれていた。
つまり、鎧ヶ岳城は敵を食い止める戦う城ではなく、その地域の支配権を誇示するのが主で、敵からの侵攻を受けたとしても足止めの時間稼ぎをする為の場所なのだ。
親守は藤北館には立ち寄らず、そのまま鎧ヶ岳へと向かっていった。
幼き時より鎧ヶ岳の周囲は鍛錬場であり遊び場だった。夜遅くまで駆け巡り、勝手知ったる我が庭。目を瞑って進んでいても何処へ行くのか把握できるほどに。
「やはり熊と見間違えたのだろう」
一通り散策したが野鳥や野兎しか出くわさなかった。
当時、まだ九州に熊が生息しており、藤北の山奥でも出没してもおかしくはない。ただ、九州の熊は大きくても人間の大人ぐらいの背丈であり、出くわしたとしても自分一人で充分立ち向かえられると自分の実力を自負していた。
また本当に化物や妖怪であるならばと、より心が高鳴ってしまう。
もし仕留めることが出来たのなら、その名声は豊後どころか九州、いや全国へと響き渡るだろう。
もう一廻りしようとしたが、馬が疲れている目をしているのに気付く。
「これまでずっと休まずに歩かせたからな。しょうがない、暫し休むとするか」
鎧ヶ岳と烏帽子岳の中間地に一際高い大樹が生えていた。馴染みある大樹の変わらぬ姿に、故郷に戻ってきた実感する。
馬を放し、親守は大樹の下に腰を落とそうとした時だった――眩い閃光が奔り、親守の背後で爆発が起きた。
衝撃波と共にけたたましい爆音が轟き、親守は吹き飛ばされてしまう。
受け身を取り、すぐさま身体を起こしては何が起きたのかと見渡す。
「なっ!?」
大樹は真っ二つに裂けて、燃焼していた。
晴天にも関わらず、雷が落ちたのだ。まさに青天の霹靂。
だが、驚天の出来事はそれだけではない。燃えゆく大樹の先に“人影”が見え、一目でただの人間ではないと判断できるほど異形の姿をしていた。
成人男性の三倍ほどある大きい体躯から放電が迸り、頭に尖った角が生え、睨むだけで刺し殺してしまいそうな冷徹な目つきに、骨すらも軽く割ける牙が見えた。
古より伝わる鬼のような姿。
だが、鬼に怯える親守ではない。
「貴様が村を騒がしている化物だな。我が千鳥の錆にしてくれよう!」
親守は腰元に携えていた鞘から刀―千鳥―を抜いた。
柄に鳥の飾りが在ることから名付けられた千鳥は無銘なれど、戸次家の祖である大友能直公が、鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝公より拝された、戸次家の宝刀であり守り刀。その切れ味は名刀と比肩する。
元は大太刀であったが、長い年月をかけて研ぎに研がれて短くなり、脇差に仕立てられたのだった。
切先を向けられて親守の敵意を感じとったのか、異形の者……鬼もまた鋭い目つきをより鋭くして睨んできた。
「ワレ…ニ、逆ラウ者ハ、死ヲ…与エン……」
そう聞こえた。人の言葉を語られるのかと驚嘆する間もなく、鬼が右腕を上げて振り下ろすと雷が放たれた。
親守は咄嗟に跳び避ける。
轟音と爆発が起こり、先程自分が立っていた場所に大きな穴が出来ていた。
大樹を割いたのも、この力……雷によるものだと察した。相手は雷を自在に操る。まさしく妖かしの類。
尋常ではない者と組みして戦っては勝てないのと判断し、親守は鬼へと向かって駆け出した。
戸次家――武士の子と生まれた者に、退却の文字は無い。
それにこの化物をここで見逃し、麓に下りてきたとしたら村に害を及ぼすだろう。
――そうはさせてなるものか!
乾坤一擲。千鳥を振り上げて、飛びかかった。
「ウオオオオオオオッッッッーーー―!!!!」
全ての力を込め、鬼に斬りかかる――も、鬼が雷を放った。
「っ! ぐああああああっっっ!!!」
巨大な雷が親守に直撃する。
バチバチと電撃が身体を駆け巡り火傷が覆い、激しみ痛みが襲う。
だが、親守は倒れなかった。止まらなかった。
目は見開き、鬼を捉えたまま。
柄を握り潰すほどに力を込めて、千鳥を振り下ろした。
一刀両断――
「ウギャャャャァァオオオオオァァァァ!」
鬼は真っ二つとなり、醜い声の断末魔をあげると、その身体は霧のようにあとかたもなく消えていったのであった。
「成敗! ……っあ!」
鬼を打ち倒して張り詰めた気が緩み、今になって雷で打たれた痛みが激しく全身を駆け巡り、親守は気を失ってしまったのであった。
■□■
「と、まあ……鬼の身形をしており、雷を自在を操っていた……あの化物は雷神の化身だったのだ。その雷神を斬り払ったと言う訳だ」
立花山城、評定の間。
親守という名乗りから何十年も経過しており、その間に鑑連、そして道雪と号し、入道して剃髪したのも相まって年齢相応に老いていた。
親守の名残は、そのギラついた瞳に残すだけだったが、その瞳の情熱に劣らず、誾千代と彌七郎は瞳を輝かせては、道雪の昔話……雷神との戦いを聞いていたのだった。
「さて、誾千代に彌七郎。この話しで偉大なことは雷神を斬ったという武勇ではない……」
先ほどの雷切の話しと打って変わって、道雪は真剣な眼差しを誾千代と彌七郎に向けた。
「お主たちに常日頃より、五常(仁・義・礼・智・信)の中で、特に義を尊い、義に尽くし、義を貫けよと申しておるが、何故そう申しているのか理解しておるか?」
誾千代は力強く、彌七郎も凛とした声で「はい」と答えた。
「では、改めて訊く。義とは何か? 彌七郎、申しよ」
「義とは、正しい行い、我が身の利害よりも他の人に尽くす行為だと存じます。それに、孔子が『義を見てせざるは勇なきなり』と申す通り、義というのは、武士である第一の心構えであり、それがなければ戦に出られない臆病者でございます」
道雪は「うむ」と頷くと、彌七郎は内心で安堵する。
「では、正しい行いとは何か? 他の人に尽くす行為とは何か? 義に尽くすべきとはなんなのか? 彌七郎、申しよ」
「それは……」
彌七郎は言葉に詰まってしまう。
正しい行い、他の人に尽くす行為……漠然過ぎて、語る内容として幾つもある。しかし、道雪から求められる答えは斯く斯く然々な内容を羅列するのではなく、義の本質を説明しなければならない。が、彌七郎の考えが足りていなかった。
今まで人や本(書物)を聞きかじった内容しか知らない自分を恥じ入ってしまう。
居心地が悪そうにうつむく彌七郎を余所に、誾千代は得意げな表情を浮かべている。
道雪の子である誾千代は、女性ながら自身の後継者としての教育は施されているので、道雪の心持ちを理解できていた。
「義というのはですね……」
代わりに答えようとするが、道雪が静止させる。
「誾千代、よい。では続きを語るとしよう、わしがお主たちに伝えたい話しを。雷神を斬り伏せた後……」