拾伍 馬ケ嶽城の戦い-前編-
馬ケ嶽(現・福岡県行橋市津積馬ヶ岳)は、小高い山(二つの峰)の姿が鞍を置いた馬を彷彿したため、その名が付けられたと言い伝えられている。
麓の京都平野を一望できる立地と馬ケ嶽の周囲には大中小と様々な池が点在しており、水源が豊富であった。
そのような立地条件が良かったというのもあり、古より豊前北部の要衝として、この地を治める者の居城(住処)が構えられていた。
余談だが、馬ケ嶽の西側(御所ヶ丘)に“御所ヶ谷神籠石”と呼ばれる列石や石塁が築かれている遺跡が存在している。
その遺跡は、かの景行天皇が築いた行宮だと伝わっており、時の帝もこの地―馬ケ嶽―を重要視していたという証だろう。
要衝であるからにして、群雄たちによる争奪戦が繰り広げられ、幾度も戦場の舞台となった。
数ある戦の一つが、文亀元年(1501年)の足利将軍(義澄・義尹)の跡目争いにおける大友親治と大内義興の争いであり、その戦いにて八幡丸(孫次郎)の曽祖父・戸次親貞が、馬ケ嶽城を枕に討ち死となった。
それから25年後……再び馬ケ嶽にて戦が始まろうとしていた。
朝霧の中、戸次軍は後軍の一部(戦いに不慣れ者や荷物持つの陣夫たち)を天生田の麓にて待機させると、先軍・中軍の隊は引き続き、馬ケ嶽の北側・大谷方面へと出来るかぎり音を立てずに兵を進めていく。
やがて戸次軍は馬ケ嶽城へ続くを登山口前に着いた。
付近には幾多の館や家屋が建てられている。
馬ケ嶽城は山城の為、そこに常駐しているのではなく、平時は麓の居館で暮らしているものだ。
「火矢の手筈を」
そう戸次親延が側近に命じた。
弓を手にした兵卒たちが前線に集まり、鏃に油を染み込ませた布切れを巻きつけると、松明を持った兵士が順々に着火していき、火矢を番えた。
その様子を由布惟克は遠目で伺い、息子の家続に話しかける。
「一番槍、一番乗りは由布の矜持であるが、この戦いばかりは先駆けは譲らなければならぬな」
そう言い、先陣に構える松岡親之を見て、次に戸次軍の総大将・八幡丸の方に視線を移す。
愛馬・戸次黒に馬上している八幡丸は力強く握り締めていた金ノ麾を振るい、声を張り上げた。
「射ってええええ!!」
弓兵たちは八幡丸の号令と共に居館を狙い、火矢を一斉に射掛けた。
火矢が木板や屋根に刺さると、火は燃え移り、白煙が立ち昇っていく。まさしく戦いの狼煙が上がったのだ。
「行くぞおおおおおおおおおお!!」
続けて先鋒の松岡親之が鬨の声をあげると、率いる兵卒たちも同様に声を上げて先駆けていく。
兵卒たちはの大声は、まるで鯨の鳴き声のように響き轟く。故に鬨の声は“鯨波”とも呼ぶのだろうか。
「て、敵襲だっ!!」
外の異変に気付いた馬ケ嶽城の兵が戸次軍の姿を見るや否や叫ぶものの、松岡親之が彼の者に駆け寄り、手にした薙刀で斬り殺した。
その勢いに乗って松岡が率いる兵卒たちも、着の身着のままで館から出てきた敵方へと透間なく攻めかかり、斬り伏せていく。
馬ケ嶽城の兵たちは、まさか今日、戸次軍が攻めてくるとは夢にも思っていなかったのか、慌てふためいては前後左右を見失い、右往左往するしかなかった。混乱状態に陥った敵方は、巣の穴を突かれた蟻の如く、または蜘蛛の子を散らすようであった。
一方で目の前で行われる殺し合い(本物の戦)に、後に控える兵卒たちは臆してしまい、緊張と相まって嘔吐する者が少なからず居た。
いつの時代も命の取り合いは非日常であり、人が人を殺す行為は拒絶するもの。
武士は常人であってはいけない。
「あの館に敵の大将が居れば、山に登る手間が省けるのだが」
戸次親延が呟くと、すかさず安東家忠が口添えをする。
「斥候の話しでは、馬ケ嶽城の本丸に滞留しているとのことです」
「それはそうだろうな。さて……」
親延は横目で八幡丸を伺う。
もし、弱卒のように目を逸らし、竦み上がるようであれば、武士の器もなければ、戸次家の長(武家の当主)として認められないだろう。
だが、親延の心配は杞憂で終わる。
八幡丸は、その大きな眼を見開き、金ノ麾を突き出した。
「不意を討つは此の時なり! 皆の者、罹れや!罹れや!!」
幼き頃より源義経に憧れ、戦場に思いを馳せていた八幡丸にとって、今この時は待ち焦がれた瞬間であった。
強く打つ心臓の鼓動は、恐怖からではなく歓喜に似た感情が溢れ出していた。
猛ぶる総大将の号令に背中を押されるように、残りの先軍の兵卒たちは駆け出していった。
先軍と中軍の戸次隊の一部は引き続き館を攻めさせて、八幡丸と残りの隊は馬ケ嶽の頂上へと登り進めた。
馬ケ嶽は、先の通り様々な群雄たちに攻められて守ってきたというのもあり、大規模の土塁や畝状竪堀、堀切が築かれており、侵攻を妨げる。
しかしながら、戸次軍は前もって多数用意していた梯子にて路を作りだしていた。
土塁に梯子を掛けては攻め口を増やし、堀に梯子を橋の代わりとして渡っていく。
防衛機能が無力化されてしまい、急襲を受けた馬ケ嶽城の兵たちは時間稼ぎすら出来ない中、戦支度もままならず、鎧すら着ていない者が多々であり、大半が素肌をさらけ出して戦うしかなかった。
そんな不利の中、戸次軍の激しい攻めに堪えられず、次々と斬り伏せられていった。
「二ノ丸だ! 一度、二ノ丸に退き、体制を整えるんだ!」
敵方の侍大将格なる者の指示を出し、防守していた敵兵たちは足早に馬ケ嶽城の二ノ丸へと目指していく。
当然、戸次軍たちも目的地は同じである。
「我らも行くぞ! 後れを取るなよ!」
八幡丸は愛馬・戸次黒の手綱を引き、先行して山道を駆け上がっていく。
大谷側は緩やかな坂道であり、騎乗での移動に問題なかった。
「お、おい! 八幡丸、先走るな!」
戸次親延の抑止を聞かずに。
傍で見ていた十時惟安は思わず一笑した。
「はは。血気に逸っているのは良いが、不意を打たれて死んでしまったら目も当てられぬな。惟忠・惟次、若(八幡丸)殿にしっかりと付いてお守りしろ」
「承知しました。父上。行くぞ、惟次」
惟忠・惟次は先を行く八幡丸を追いかけていく。
「かたじけない。十時殿」と親延が礼を述べる。
「なーに、奥で縮こまっているよりはなんぼかマシだろう。さて、惟種たちも、そろそろ頂上に着く頃合い。さあ、我ら十時隊も続くぞ!」
こうして戸次軍は馬ケ嶽の谷々を攻め登っていった。
■□■
一方、八幡丸たちの鬨の声が聞こえてくる少し前――大谷より山向う(反対)側の花熊と呼ばれる地域に、二兒神社という小さな神社が在り、そこに多数の人影があった。
それは戸次軍が伊良原川を渡る時に分かれた五百名の別働隊(戸次家と十時家の合同編成)。
軍勢に気付いた二兒神社の宮司たちは縄で縛られて身動きを封じられていた。
馬ケ嶽城の麓にある神社のため敵方と通じている可能性があるため、神職(宮司)であろうとも念の為の対処であった。
別働隊は松岡親利と十時惟種が先導して、勾配がきつい山道を登っていく。
大軍で通れない道幅の山道は道なき道の獣道であり、人が通るために整備されていなかった。いや、あえて整備していないのだ。
城という拠点には万が一に備えて、いくつもの抜け道を用意しているものである。当然、抜け道は誰それと解らないようにしているもの。
だが、歩きづらく道と判別し難い路を松岡親利は迷い無く進んでいく。
途中、路が途切れており行き止まりと思わせるが、その際に梯子を掛けて、縄を木に結び、路を作って渡っていく。
その手際の良さに十時惟種が感服する。
「見事なお手並みで」
「……前にこの路を通りて城から脱出したからな」
「前に……ということは、二十五年前の……」
「ああ。二十五年前……落城した際にこの路を兄上と共に駆け抜けた。あの頃と、さほど変わっていないので首尾よく進めておる」
馬ケ嶽城が落城した光景が脳裏にちらつき、松岡親利は苦虫を噛むように食いしばった。
「しかし、惟種殿や十時の方々も苦も無く登ってこられておりますな」
「我らも鎧ヶ岳の山々を駆け巡っていましたから、これぐらいの山道は何の問題もござらんよ」
「それは頼もしい……ん?」
遠くから雄叫びが微かに聞こえてきた。
「松岡殿」
「ああ、どうやら開戦したようですね。我らも馳せ参じましょう」
然うして松岡親利たちは頂上を目指して、駆け上がっていくであった。
あの日の忘れ形見を取りにいくように。




