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立花道雪遺香~鎮西の片田舎で生まれた没落武士が天下の雄将へと成し遂げる行く末を見届けようと思う~  作者: 和本明子
一章 立花(戸次)道雪の初陣 大永6年(1526年)

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17/30

拾参 宇佐神宮~駅館川を越えて~

 大神村を発った戸次軍は木付家に仕える沓掛尚之(くつかけ なおゆき)の先導によって道に迷うことなく、日が暮れる頃には宿営予定地の立石村に到着できた。


 立石には規模が小さいながら城(といっても砦)があり、沓掛が前もって手配してくれていたお陰で孫次郎たちはそこに宿泊する運びとなった。


 兵卒たちは故郷・藤北も山里(やまざと)であり、山道(さんどう)に慣れている者が多いとはいえ、武具や荷物を抱えての見知らぬ道や土地に、普段よりも疲労が溜まったのか、夕飯(夕餉(ゆうげ))を(たい)らげると兵卒たちは泥のように眠り、八幡丸(孫次郎)も同様に寝入った。


 特に何事もなく夜が明けて、孫次郎たち戸次軍は手早く朝飯を食べ終えると(すぐ)ちに立石村を発った。

 前日と同じように山道を(のぼ)って行き、(とうげ)へと差し掛かる。

 ここから先は緩やかな下り坂となり、兵卒たちは幾分かは楽になると一息(ひといき)ついた。


 (せば)まってきそうな谷間の山道を下って行くと、やがて開けた場所に出る。

 辺り一面に田畑が広がっており、山々(やまやま)の圧迫感から解放されて、解放感で満たされる。


 ここは西屋敷村(にしやしきむら)と呼ばれる地域であり、ここまでくれば宇佐神宮(うさじんぐう)まで目前だと宇佐の使者が(はげ)ました。


 西屋敷村から“豊前国(ぶぜんこく)”の領域になるが、八幡丸を含む多くの兵卒たちにとっては初めての“異国”の地に足を踏み入れたのだが、とりわけ感心するものはなく、直近の目的地・宇佐神宮の方に早る気持ちが高まっていった。


 二時間ほど進み行くと、大きな鳥居(とりい)が見え始め、その先の深緑の(もり)に包まれた亀山(現在の名は小椋山)と呼ばれる小高い丘陵(きゅうりょう)の頂上に赤い建物……壮大な社殿が姿を(あらわ)した。


 各地に在る八幡宮(八幡大神)の総本宮…宇佐神宮だ。


 古来、豊前の地を治め、朝廷(ちょうてい)とも縁が深く、かの伊勢神宮に次ぐ格式がある神宮(じんぐう)


 八幡丸を先頭に戸次軍は神橋(かみはし)を渡り、菱形池(ひしがたいけ)を横目に鳥居をくぐりて境内に進み入り、緩やかな傾斜がある参道(さんどう)を上っていくと、やがて本殿(上宮(じょうぐう))に到着する。


 本殿は宇佐神宮の分社である由原宮(ゆすはらぐう)と似た造り(八幡造)であるが、建物は何倍も大きさであり、加えて(いにしえ)の重みと八幡宮の総本宮(そうほんぐう)である風格による厳粛の雰囲気をまとわせており、圧倒されそうになる。


 使者の案内によって宇佐の大宮司(だいぐうじ)を紹介され、出軍(しゅつぐん)の謝礼の後、由原宮の時と同様に戦勝祈祷(せんしょうきとう)を受けたのである。


 一通り御祈祷(ごきとう)が終わると大宮司や禰宜(ねぎ)たちから馬ケ嶽城の近況を伺い、軍議が催されたが、申し合わせた内容は簡易な確認だけで終わった。


 救援の申し出をしてきた宇佐神宮の宮司たちであれど、戦わない第三者に詳細な作戦や戦略が漏洩(ろうえい)されないよう(おおやけ)に言い()らす訳にいかない。


「では、お(ひら)きとしまして、粗餐(そさん)ではありますが、如何でしょうか?」


「かたじけのうございます。ありがたく頂戴いたします」


 と親延が頭を下げると一旦散会(さんかい)となった。

 各自が馬ケ嶽城に向かう為の支度(したく)や休息を取る中、合間に八幡丸は十時惟忠と惟次、そして由布家続を連れて、亀山の(ふもと)に下りて菱形池(ひしがたいけ)(ほとり)にやってきていた。


 畔の先に(さく)で囲まれた中に、三つの“井戸”が存在しており、それを見た八幡丸が(つぶや)く。


「ここが…戦いの神、八幡大神様が示顕(じげん)なされた場所か」


 ただの井戸ではなく“御霊水(ごれいすい)”と呼ばれる霊泉であり、その由縁(ゆえん)は、先の通り八幡大神が顕現(けんげん)(出現)した場所……聖蹟(せいせき)である。


左様(さよう)でございます、戸次様」


 ここに道案内をした禰宜(ねぎ)(神官の職称)が相槌(あいづち)を打つ。


 (はた)から見れば、ただの井戸が三つ点在しているようだが、(おごそ)かな空気に神聖なる気配が(ただよ)っている。


 ここが日本中の武士から崇敬(すうけい)を集める武運の神・八幡大神の始まりの地。


 八幡大神にあやかって名乗っている八幡丸だけではなく、武士としての自尊がある十時《惟安と惟通》や由布家続たちも心の内で高揚していた。


「宇佐神宮に訪ねたのであれば、武士ならばここには必ず来ないとな。そうだそうだ……」


 八幡丸は腰元にぶら下げていた金糸で織り込まれた金ノ(さしずばた)(軍を指揮する旗)を手に持ち、井戸水(御霊水)を振りかけた。


 それは八幡大神の霊験(れいけん)あらたかな御加護や神威(しんい)を得られる気がしたからだ。

 宇佐神宮の本殿(上宮)で戦勝祈願をしているが、幾重(いくえ)も縁起を担いで勝運(かちうん)を呼び寄せるのに越したことはない。


 御霊水で清めた金ノ(さしずばた)を井戸の奥に鎮座(ちんざ)している少し大きめの“石”を程よい置き場として供えようとすると、すかさず禰宜が話しかける。


「あ、戸次様。その石は影向石(ようごうぜき)と呼ばれているものであります」


影向石(ようごうぜき)?」


「はい、その石は八幡大神様が降臨した御座(みくら)であります。そして八幡大神様が顕現(けんげん)なされた時、共に神馬(しんめ)も召されたそうです。八幡大神様が神馬に(また)がり、天へ駆けていった時に足場としたそうです。その証拠に影向石(ようごうぜき)馬蹄(ばてい)の跡がございましょう」


 確かに石の表面に小さな(くぼ)みが在った。

 遥か昔のことであり、(まこと)しやかに口伝で伝わってきた。真相が真実であるかは不明ではあるが、八幡大神の顕現の地であり、千古(せんこ)の時より斧が入られていない深緑の森の中で(たたず)んでいる場所柄(ばしょがら)傍証(ぼうしょう)性を助長させて真実味を深めさせる。


「それなら、なお縁起が良いではないか。ここより武神・八幡神(はちまんしん)が示顕し、出立したのならば、お導きがあるだろう」


 八幡丸は影向石の上に金ノ麾を供えてから深く『二礼』すると、十時たちも同じ所作を取る。

 続けて『四拍手』し、手を合わせて黙祷。改めて必勝を祈願したのち、締めに『一礼』をした。


 大半の神社での参拝作法は『二礼・二拍手・一礼』であるが、宇佐神宮では『二礼・四拍手・一礼』としており、他では出雲大社などのごく一部だけである。如何に宇佐神宮が大和朝廷から特別視されていたか(うかが)い知れよう。


「八幡丸たち、ここに()ったか。(めし)の用意が出来たぞ。さっさと来い」


 呼びに来た十時惟種(ととき これたね)がやってくると、八幡丸は金ノ麾を拾い上げて、早々に御霊水から立ち去ったのであった。


 八幡丸の初陣で八幡大神の降臨(こうりん)の地-宇佐神宮-が関与していたのは、なんと因果なことか。

 またこの時に八幡大神の御加護を得られたのか……神のみぞ知るのだろう。



   ■□■



 早めの夕飯(ゆうはん)を食べ終えると、まだ()が沈まない内に八幡丸や兵卒たちは寝に入り……深夜に八幡丸たちは起き上がった。


 用を足す為ではなく、戸次軍は出立の準備を始めたのである。

 当然、戸次軍の作戦の一つであり、前もって深夜の内に宇佐神宮を出立する取り決めをしていたものだ。


 暗闇の中、出立までに少々手間取ったが、兵卒たちは寝ぼけ眼ながらも隊列が(そろ)うと、戸次軍は宇佐神宮の西を流れる寄藻川(よりもがわ)に架かっている神橋(かみはし)を渡っていく。


 その神橋の横に呉橋(くれはし)と呼ばれる屋根が建てられた婉麗(えんれい)な橋がかけられている。

 鎌倉時代より前の時代に、呉国(今で言う中国)の職人が手掛けたと伝えられており、誰それと渡れる橋ではなく、朝廷の勅使(ちょくし)または帝(天皇)のみが通れる橋だ。


 その為、戸次軍勢はその横に架けられた神橋を渡っていく。


 闇夜で呉橋の優美な姿を目視できないのは不憫(ふびん)ではあるが、その全貌(ぜんぼう)(いくさ)に勝利した時の後の楽しみとした。


 夜道でも行軍(こうぐん)できるのは、予め宇佐神宮に夜目(よめ)()く、もしくは目を(つぶ)っても馬ケ嶽城まで辿り着けるほどの地理に詳しい者を先導にと派遣(はけん)して貰っていたからだ。


 宇佐神宮を出発し、微かに照らす月明かりを頼りに(しば)し進んでいくと“駅館川(やっかんがわ)”に差し掛かる。


 寄藻川と同様に古くより歴史に名を残す駅館川は、かなり川幅は広いが浅瀬のところがあり、橋が無くても大勢が渡るのには支障はなかった。


「今ここが戦場であっても背水(はいすい)の陣は敷けないな……」


 八幡丸は愛馬・戸次黒に跨がって川を渡る中、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に仕えた名将・韓信(かんしん)が用いた兵法(背水の陣)を口にした。

 敵軍は自軍の何倍も多く、勝ち目が無かった戦で自軍の士気を高め、決死の覚悟で(のぞ)ませる為に、韓信は背水に陣を敷いたという。


 話を聞く限りでは馬ケ嶽城に()もる敵方は五千人ほどで戸次軍より数が多い。

 ましてや此度の戦は、建前上(たてまえじょう)は独断で挙兵(きょへい)したことになっている。

 もしこの(いくさ)(やぶ)れてしまえば、全責任は戸次家が負い、戸次一族としても存亡(そんぼう)の危機にあった。


「既に戸次家は背水……死地(しち)にあるようなものだ……」


 (ゆえ)に八幡丸だけではなく叔父の親延や安東家忠などの家臣、そして参与してくれた由布や十時たち。戸次家に関わる人々は藤北を()ってから……いや府内から討伐の下命(かめい)があった時から決死の覚悟を決めている。


 何も見えぬ真っ暗な闇夜が戸次家の行く末が一寸先は闇だと、八幡丸は思わず身震いしてしまった。


 (しか)れども、八幡丸は御霊水で清めた金ノ麾の(つか)を強く握り締める。


()うに覚悟はできている。我は八幡大神の化身、八幡丸ぞ。いくぞ戸次黒!」


 八幡大神の威光(宇佐神宮)を背に、今、八幡丸たち戸次軍は駅館川を越えていく。


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