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立花道雪遺香~鎮西の片田舎で生まれた没落武士が天下の雄将へと成し遂げる行く末を見届けようと思う~  作者: 和本明子
一章 立花(戸次)道雪の初陣 大永6年(1526年)

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九 由原八幡宮

 孫次郎たち軍勢は緩やかな(のぼ)り坂を進んでいくと、日ならず多数の樹木が立ち並ぶ風景に変わっていき、二葉山の山道にさしかかった。

 程良(ほどよ)く整備された山道なので歩き易かったが、武具などの重い荷物を抱えてはきついものである。


 また孫次郎たちも下馬して自らの足で進んでいた。

 山の斜面での馬の足を案じたのもあるが、二葉山は由原宮の敷地内であり、いわば境内。礼儀作法として下馬していたのである。


 やがて道は石畳の階段となり、その先には立派な木造建物…日暮門(ひぐらしもん)が見えた。

 門上部に掛けられている神額(しんがく)には、物々(ものもの)しく『由原八幡宮』と書かれている。


 ようやく目的地に到着したが一息入れず、まずは孫次郎、親延を始め戸次一門の頭分(とうぶん)や家臣、近侍(きんじ)たち、そして他家の由布惟克や十時惟安にその子たちと隊長格のみが大門を通ろうとすると、孫次郎たちは思わずを足を止めた。


 日暮門の(そば)に天高くそびえ立つ“大楠(おおくす)”が鎮座(ちんざ)していた。


 巨大な樹木であり、他の木々と比べて悠久の年季が入った風体で佇んでいた。その大木の雄大さに、どこか懐かしく、えも言われぬ温かさと優しさを感じた。


「見事なものでしょう。その大木(たいぼく)は由原宮の御神木(ごしんぼく)。かの大友能直(おおとも よしなお)公や大神惟基(おおが これもと)公がこの豊後の地に訪れるより遥か(いにしえ)の時より、この地を見守ってきたと云い伝えられております」


 ふいに声をかけられた方を向くと、神職の装束を身に(まと)った男性が立っていた。


「戸次殿、皆様方。お待ちしておりました。ここ由原宮の大宮司(だいぐうじ)(つかまつ)りましております、賀来鑑綱(かく あきつな)と申します。以後お見知りおきを」


 鑑綱が会釈すると、孫次郎も同様に一礼をする。


「さあ、こちらへ。社殿の方に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の使者様と、もう一方(ひとかた)がお待ちしております」


 そう述べると鑑綱が先導して先を進み行き、孫次郎たち一同もその後を静かについていった。


   ~~~



 由原八幡宮(通称…由原宮。現代の名称は柞原八幡宮)。


 豊後一宮(ぶんご いちのみや)として格式が高い国鎮守。

 祭神に仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇、神功(じんぐう)皇后が(まつ)られている。


 創建は天長四年(西暦829年)、延暦寺(えんりゃくじ)の僧・金亀(こんき)が、宇佐八幡宮で参籠中(さんろうちゅう)(神への祈願…いわば、おこもり)に神託を受けて、八幡神(はちまんしん)(先の応神天皇と同一とされる武運の神―また名を八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ))を、ここ豊後国に勧請(かんじょう)したと由来される。


 その際に、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)初衣(はつごろも)である八足の白幡(しろはた)が宇佐神宮から飛び渡り、あの大楠(おおくす)の下に舞い落ち、そこに八幡大菩薩を祀ったのが始まりとする。


 その経緯と由縁(ゆえん)から宇佐八幡宮の別宮とも称され、由原宮は豊後国の大祭である祭祀(さいし)神事(しんじ)を執り行い、やがて大和朝廷、大神惟基の大神一族、大友能直の大友一族と豊後を統治する者が移り変わっても、由原宮は豊後国の祭祀を司る立場を(たも)ち、各時代の領主(りょうしゅ)と深い関わり得て、豊後一宮の格式と伝統を築いていった。


 宇佐八幡宮の使者が、まずは由原宮に救援を求めた理由でもある。


 また由原八幡宮を崇敬(すうけい)する第一の理由は、先の武神の神である八幡神(はちまんしん)の加護を求めており、戦勝祈願はここで行うのが必須であった。


 孫次郎たちは由原宮の拝殿(はいでん)に座し、その先にある礼拝空間である申殿(もうしでん)に大宮司・賀来鑑綱(かく あきつな)祈祷(きとう)が行われていた。


 此度の弔い合戦の大勝利と再興を成し遂げる旨を書き記した願文(がんもん)と戸次親家の愛刀(あいとう)寄進(きしん)し、戦勝祈願の儀式はつつがなく終わった。


 いや、ここからが本義であった。


 この場には孫次郎たち以外に、先の大宮司の賀来鑑綱(かく あきつな)。その横に居る年配の男性は、鑑綱(あきつな)の父・賀来治綱(かく はるつな)

 此度の弔い合戦の事端(じたん)(しら)せにきた宇佐八幡宮の使者。そして、大友義鑑の近習…角隈石宗(つのくま せきそう)が同席していた。


 この戦における申合(もうしあわ)せをするための評定が行われようとしており、面々の前に豊前と豊後が大まかに描かれている地図を広げていた。


「あ、私はただの参拝客なので気なさらずに。また他言無用でお願いいたします」


 と、角隈石宗が発言した。

 この(いくさ)は大友家は関わり無いものであるとしての体裁(ていさい)を取り(つくろ)ったつもりだが、ここに同席している時点で説得性に欠けるものである。


「えー、では仕切り直しまして。此度の宇佐八幡宮の存亡の危機において、ご加勢いただき恐悦至極にございます……」


 改めて宇佐八幡宮の使者が孫次郎たちに礼を述べるものの、不安が胸の内を(おお)っていた。

 討伐の軍を(おこ)してくれたのには謝意するものの、てっきり大友本軍も参戦してくれるものと考えていたからである。


 先に到着していた角隈石宗から事前に大友本軍は参戦しない旨は受けていた。だが、宇佐八幡宮の大宮司の下命(かめい)である為、失錯(しっさく)は許されない。


「あの……私が(もう)すに(はば)れるのですが、敵方は五千人近くの兵を集めております。その戸次様方は千と五百人ほど。我が宇佐神宮からの兵を出しても二千人に達するかどうか……。(ゆえ)に大友様から、これ以上の援軍は必要になるのではないでしょうか」


 いつの時代も戦いや争いごとは数の多い方が勝利の為の絶対条件と思うだろう。

 その考えは間違いではないが――


(へい)は多きを(えき)ありとするに(あら)ざるなり」


 孫次郎が堂々と発言した。


「宇佐神宮の使者殿。確かに数が多い方が有利でしょうが、“(へい)は多きを(えき)ありとするに(あら)ざるなり”と、孫子の兵法にそう記す通り、古来、寡兵(小勢の兵力)でも衆兵(大勢の兵力…大軍)に打ち勝った戦いは多数あります。時として、兵数よりも情況が左右するものでもあります」


 戸次親家(べっきちかいえ)の名代とは言え、まだ十代の若造であり、この合戦が初陣である孫次郎の言葉に重みや説得力が無かったかも知れない。

 宇佐神宮の使者は物言(ものい)いをつけようとしたが、瞬時に角隈石宗が口添(くちぞ)えをする。


「なるほど、よく勉強をなさっている。そう、だだ(ひろ)い原っぱで一斉に合戦するのであれば、確かに兵の数が多い方がものを云いますでしょう。だがしかし、戸次殿がどのような戦略を思い描いているかは解りかねますが、此度の(いくさ)……おそらくは“城攻め”をお考えでは?」


 戸次親延(べっきのちかのぶ)を始めとして、戸次家の重臣たちは内心驚嘆(きょうたん)してしまう。

 どのような戦法を執るかは機密事項であり、指揮官(総大将)や一部の重臣(隊長)のみしか把握していないものだ。

 親延(ちかのぶ)は驚きを顔を出さずに落ち着き払いて訊ねる。


如何(いか)にして、そう思われますか?」


(いち)に宇佐神宮の使者様が云う通り、敵方が五千人も居るとなれば、それ以上の数が居た方が宜しいでしょうか。しかしながら、それだけの人数を早急(さっきゅう)集めるのは至難。(げん)に……。ならば正攻法(せいこうほう)の戦法は取れない。(ゆえ)に人数が限られた戦場で合戦するのが望ましいでしょう。つまりは、奇襲で一気に城を攻め落とす算段(さんだん)をするのではないかと」


 角隈石宗(つのくま せきそう)の推考は見事に言い当てていた。

 様々な情況を考えれば辿り着けれる(かい)ではあるが、それを戸次軍の様子を見て瞬時に判断をした。

 もちろん仔細な戦略は有るが、角隈はそれすらも見据えているようだった。


「それでも(わず)三日(みっか)で千人以上を集めて、軍立(いくさだ)ちしたのは御見事(おみごと)であります。その迅速な行動の(みょう)。敵方には、まだ大友(豊後)から兵が発したと知られていないでしょう」


 孫次郎は立ち上がった。

 やはり由原八幡宮に立ち寄らず、豊前国・馬ケ嶽城に向かべきだったと改めて是認(ぜにん)したのだ。


「ならばこそ奇襲を成功させるためには急ぎ馬ケ嶽城に向かい、一刻でも到着しなければならない。叔父上(親延)殿、皆の者、すぐに出立(しゅったつ)を!」


 焦燥感に駆られて今すぐにでも飛び出そうとする孫次郎を、すぐに角隈石宗が(なだ)める。


「孫次郎殿、落ち着きなされ。下手に慌てて急いで、敵方に気取(けど)らてしまっては()にもつかない。せっかく、(もっと)(とき)を要する、兵集めと軍立ちを三日(みっか)為遂(しと)げた(こう)が泡になってしまうでしょう」


 角隈石宗は改めて孫次郎を優しく見つめ、説くように冷静に話しかけた。


「それに、そこまで焦ることも無いでしょう。早く着くことよりも、その先を考えるべきなのでは?」


「その先を?」


「どんなに急いでも人の(あし)では、ここから馬ケ嶽城まで二日間はかかりますでしょう。しかし着いたから終わりではありません。始まりなのです」


 誰もが、さも当然と思うものの口には出さず、角隈石宗の話しに耳を傾ける。


「戦わなければならない。そして勝たなければならない。無理強いをして行軍を進めたとして、疲弊困憊(ひろうこんぱい)で合戦する力が残っていないでは目も当てられない。辿り着く日にちよりも……」


「……そうか!」


 話しの途中で孫次郎は気付いた。

 すぐさま場に広げられていた地図に目を移し、馬ケ嶽城への経路を親指と人差し指を物差(ものさし)し代わりにして距離を測っていく。


「どうしたのだ、孫次郎?」


 突然の行動に親延が訊ねた。


「我らが一刻(いっとき)で進める距離を(さん)して、夜明け前に馬ケ嶽城に着く頃合(ころあい)いを見計らっております」


 孫次郎の返答に角隈石宗は「ほう……」と漏らし、感心する。

 先程(さきほど)の会話で瞬時に察して、本旨(ほんし)を汲み取ったことに。


 小勢の兵力で城攻めをするのであれば、奇襲が最も効果的な“攻め時”が要点になる。

 古来、奇襲するのなら寝静まった夜討(ようち)だ。

 しかし真っ暗闇の中で戦うのは味方側にも不利な点がある。ならば夜明けのうす明るくなる頃が望ましい。


――孫子の兵法など、しっかり勉強をしているようだが、まだ上辺(うわべ)の方しか理解していない。だが、これが初陣ならば(いた)(かた)ない。この(いくさ)を無事勝ち生き残ってくれたのなら、大友家の先行きは明るいが……さて。


 角隈石宗は孫次郎の素質を心の()に潜めて、話しを続ける。


「これは独り言になりますが、先遣(せんけん)……おっと。既に知人(ちじん)が馬ケ嶽城までの様子を見に行かせています。もし何か動きがあれば戸次殿たちに伝えるようにしておりますので、その場合は臨機応変に対応していただければと存じます」


 大友家として表立(おもてだ)って兵を出せないが、(ひそ)かに支援してくれると、事前に大友義鑑(おおともよしあき)と取り交わした約束を実行してくれているのに戸次親延たちは胸を()で下ろす。


「そして、木付(きつき)宇佐(うさ)の方たちに、食糧や武具の他に“梯子(はしご)”もあるだけ用意して欲しい旨も伝えております」


 此度(こたび)の城攻めを予想して必須道具までも事前に通達をしていたのに、親延は感嘆を超えて身の毛がよだってしまう。


――伊達(だて)御館様(大友義鑑)の近習を務めてはいないか。


 角隈石宗の深慮遠謀(しんりょえんぼう)に底知れない人物と見定めた。


「角隈殿、お気遣(きづか)い感謝いたします」


 三日で人を(そろ)えたとはいえ、それだけの頭数の武具などは揃えられていない。

 しかし豊前国の馬ケ嶽城までの道のりは遠く、荷物が増えた分、行軍(こうぐん)の歩みは遅くなってしまう。


 戸次親家たちは様々な事情を考慮(こうりょ)した末に、出来る限り最小限の荷物に抑えて、梯子(はしご)などは道中で作成して間に合わせようとしていたのだ。


「あと老婆心(ろうばしん)ながら、道程(みちのり)についてもご助言(じょげん)させていただければと」


 角隈石宗は(おもむろ)に地図の元に近づき、指差す。


「ここより別府(べっぷ)木付(きつき)へと向かい、立石(たていし)の方へ進むと良いでしょう」


「立石に? その道のりでは幾分かは遠回りになるのでは?」


 親延が訊ねた。

 木付(きつき)(現代の名は“杵築”)への兵糧などの荷物を受け取りに別動隊を出して、本軍は安心院(あじむ)方面の先を進めようと考えていたのだが。


「承知しております。本当ならば木付殿に日出(ひじ)の方までご足労いただいて、兵糧(ひょうろう)などを受け取り、戸次殿たちは北西(ほくせい)安心院(あじむ)から宇佐神宮へ行くのが最短(さいたん)でしょうが。その道のりに妙見嶽城(みょうけんだけじょう)があります。あの城は元は大内の者が築いた城。そして今だあの地域には大内の手の者が居る可能性があります。(ゆえ)にうかつに近づいて気づかれてしまっては、馬ケ嶽城(うまがだけじよう)に知らされてしまうでしょう」


 先と同じように理屈が通った説明を述べていき、親延たち面々(めんめん)を納得させる。


 親家や親延たちが講じた戸次軍の戦略を読み見据えては、力添(ちからぞえ)えの手回しの良さに、角隈石宗が才覚のある人物だと各々は敬意(けいい)を抱かせる。


 角隈石宗(つのくま せきそう)――(のち)に大友家の軍配者を務める(さい)を示したのであった。


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