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立花道雪遺香~鎮西の片田舎で生まれた没落武士が天下の雄将へと成し遂げる行く末を見届けようと思う~  作者: 和本明子
一章 立花(戸次)道雪の初陣 大永6年(1526年)

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八 大神に由布あり

 戸次軍は三つの隊(前軍・中軍・後軍)に分けて行軍(こうぐん)していた。


 軍の総大将である戸次孫次郎は中軍の真ん中に。大叔父の親延は副将として中軍の先頭に立ち、軍隊を引き連れていた。


 先軍は片賀瀬を統治している戸次親久(戸次親家の弟。孫次郎から見れば叔父にあたる)が大将を務め、後軍は戸次家重臣である内田宗直(うちだむねなお)が指揮を取っていた。


 そして戸次一門や他家臣(松岡親之、松岡親利の松岡兄弟など)たちが各隊の隊長として、招集した者たちを取りまとめていた。


 弔い合戦という大義名分の元に行軍は(おごそ)かな空気に包まれており、兵たちの口数(くちかず)は少ない。


 さて、戸次軍一同は真っ直ぐに豊前・馬ケ嶽城へ向かわず、別府と府内を塞ぐように屹立(きつりつ)している高崎山(かつては四極山(しはつやま)とも呼ばれていた)の東南(とうなん)の方角に、小高い地に静寂の森が広がっていた。

 その地は二葉山(ふたばやま)と呼ばれ、(ふもと)に建築されている由原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)(現在の柞原八幡宮)を目指していたのである。


「義兄上(安東家忠)、やはり由原宮(ゆすはらぐう)に立ち寄らず、一刻でも早く馬ケ嶽城に向かった方が良いのでは?」


 孫次郎は(そば)にいる安東家忠に不服を申し立てるように話しかけた。


「その旨は承知しているが、由原宮には宇佐神宮の使者殿が待機しているのだ。その使者から詳しく相手方の話を訊いたり、馬ケ嶽城までの道案内をしていただく手筈(てはず)となっている。それに由原宮にて戦勝祈願をして、より必勝を誓わんとな」


 先の出陣式もそうであるが、大一番の勝負をする上で神社での戦勝祈願(願掛け)も不可欠であった。


 (いくさ)とは命のやり取りであり、負ければ死ぬ。


 勝敗の行方は戦力・戦略・戦術などが大いに左右するものではあるが、どんな準備をしたとしても実力があったとしても、万全を期してより勝利を掴むために、厄払い、験担ぎ、神頼み、神仏の御加護などで勝運(かちうん)を呼び寄せたいのだ。

 それは戦いに対する心持ち…いわば精神面に影響する。


 武家の子である孫次郎は何よりも戦勝祈願の重要性を心得ているが、戦の準備を整っていない内に襲撃をした方が勝算が高くなると(すい)していた。

 モタモタしていては千載一遇の好機を逃すのではないかと不安視する。


「そう急くな。それに(いそ)がば(まわ)れと云うだろう。気がはやる時こそ落ち着け」


 とは言っても孫次郎は此度(こたび)(いくさ)初陣(ういじん)である。

 安東家忠は自身も初陣の時は極度の緊張で落ち着きが無かったのを思い出す。孫次郎より少しばかり年上であり、何度か戦に参加した経験はあるが、今でも浮足立っている。

 先の忠言(ちゅうげん)は孫次郎だけではなく、自分にも言い聞かせていたものでもあった。

 また孫次郎の義兄であるが為、恥ずかしい姿は見せられないのだ。


 進軍していると、先を行っていた斥候(せっこう)の兵士が戸次親延のもとへ駆け寄ってきた。


「親延様、先の由原宮への通り道に、少なくとも百人以上の武装した集団が(たむろ)しております」


 その報告に周囲に居た兵士たちに緊張が走る。


 豊後国内ではあるが、未だ食料を安定受給できない時代であり、周囲の村々から食料獲得の為に略奪があったり、または水利(すいり)争いが勃発したりする。大小あれど簡単に(いくさ)が起きる治安状態。

 荘園(しょうえん)を治める領主にとって、(せん)以上もいる大軍が近づいているとなると警戒して当然だ。


 また、この行軍は戸次家と、その一門が独断で軍を(おこ)したことになっており、大友家の守護領地(豊後国内)に御触(おふ)れは出ていないので、当然馬ケ嶽城攻めについても知られていない。

 民衆は何も把握しておらず、騒ぎになってもおかしくはなかった。


 親延は落ち着いて尋ねる。


「して、その集団の旗指(はたさし)は何処のだったか?」


「はっ。左三つ巴紋(ともえもん)(えが)かれておりました」


「三つ巴紋……由布殿か」


 親延は予期した通りの軍勢だったので、傍にいた近習に進軍の停止と、後列の孫次郎に前軍の方へ来るようにと伝えたのだった。


 ~~~


 孫次郎は安東家忠と十時惟忠に惟次たちを連れて言われた通りに前軍に向かうと、既に叔父の親延が左三つ巴紋(ともえもん)(えが)かれている旗指の集団を先導している者と馬上のままで話し合っている姿があった。


 その者は孫次郎もよく知る人物…由布惟克(ゆふ これかつ)


 由布は、その名の通り豊後の中央に在る由布郷(ゆふのさと)(現在の大分県由布市)の地域を治める豪族。

 由布郷は古く柚富郷(ゆふのさと)とも呼ばれ、この地は(たえ)(いわゆる布地)の原料となるコウゾやカジノキが多く生え立ち、木綿を生産していて栄えていた。いつしか平安時代には由布郷と言うようになったという。


 戸次孫次郎の実母は由布惟克の妹(お光…正光院)であるので、惟克は孫次郎の伯父(おじ)にあたる。

 また惟克も戸次親家の妹を(めと)っており、戸次家と由布家は強く結びついた親戚関係を築いていた。


「由布の伯父上(おじうえ)殿!」


「孫次郎、正月以来だな。ふむ、その大鎧。よく似合っているぞ」


「由布の伯父上もご息災で何よりです。伯父上、由布家もこの弔い合戦に参じてくれるのですか!」


「ああ。お主の父、親家は我が義理の兄でもあり、お主の母、お光は我が実妹。由布家は戸次家と親戚筋である故に、参陣は当然であろう」


 由布家も十時家と同じく大神惟基(おおが これもと)の出自の家である。


 大神出自の家(一族、一門)同士が婚儀を結ぶのは珍しくはなかったが、両家の兄妹同士が婚姻されたのは偶然ではない。

 本意は惣領家の大友家による政略によるものであった。


 大神派寄りの一族である由布家を戸次家との婚姻で大友派に取り込もうとしたのは誰の目から見ても明らかであった。

 無論(むろん)、この婚姻は豊後……特に大神派の氏族に衝撃を与え、周囲の反発もあったが、当事者である戸次家と由布家の関係は良好であった。


「親家の様態が良くない時に、この弔い合戦とはな。どうなるものかと思って心配したが、取り越し苦労だったかな。初陣の(わり)に堂々としている。なあ、家続」


 惟克は自分の横にいる息子の名前を呼んだ。

 由布家続(ゆふ いえつぐ)は先の親家の妹と惟克の子であるので、孫次郎とは従兄弟同士となる。

 孫次郎と同じほどの年頃であり、身長も同じ高さ。孫次郎に引けも劣らぬ上等な(よろい)(まと)い、手には長柄(ながえ)の槍を握っていた。


家続(いえつぐ)此度(こたび)の戦が初陣となる。よしなに頼みもうす」


 黙したまま家続は軽く頭を下げた。


「家続、共に(はげ)もうぞ」


 孫次郎がそう声をかけても「ああ」と短い言葉を返した一方で、十時惟忠と惟次と視線が合うと、その視線を逸らしたのであった。


「……(あい)()わらず、無愛想(ぶあいそう)なやつだな」


 家続の素っ気ない態度に惟忠が孫次郎へ聞こえるように言葉を漏らした。


「昔から家続と忠たちは折り合いが悪いな。何かあったのか?」


「俺たちの名の“惟”というのが気に食わないのでしょう」


 家続は先の通り孫次郎と親戚であり、十時惟忠たちと同じく幼名(ようみょう)の頃からの顔見知りである。

 そんな幼い時から、遊戯(ゆうぎ)稽古(けいこ)でも、家続は十時や孫次郎にも強い対抗意識を持っていた。


 家続は子供ながら……いや育った環境によって、由布家の立場を理解しているからこその態度だった。


 孫次郎たちを余所(よそ)に、親延が改めて惟克に話しかける。


「惟克殿。参陣していただき、感謝いたす。当主の親家に代わりに改めて礼を申し上げる」


「なーに、先に述べた通り親家は我が義兄だ。義兄のために一肌脱ぐのは当然であろう。だが、急ごしらえ(ゆえ)、所々不足があるのには失礼いたす。それに美作守(みまさかのかみ)の連中は来ておらぬ」


「いやいや、(おそ)(おお)い。それでも惟克殿たちは来てくださった。かつて大神(おおが)に由布ありと(うた)われ、大神武士団の中で特に武に秀でた由布家、そして十時家が加勢してくれたのだ。まさに百人力の加勢を得たとはこのことだ」


「はは、あまりおだててくれぬな。しかし、十時の惟安(これやす)、それに惟通(これみち)。戸次の縁者でも親戚筋でもないのにお主達も参じていたのか?」


 惟克は十時たちに視線を向けて呼びかけた。


「由布の惟克。此度(こたび)の参陣は親家殿、戸次の家が難儀(なんぎ)の時。また戸次家は元を辿れば大神の出自。同族ならば義を持って助太刀をするのは当然ではないかな」


 そう十時惟安が応える。


「なるほど、名目(表向きの理由)としては相応だな」


「どうとでも云うが良い」


 十時惟安は由布惟克の意地悪な問答をはぐらかす訳ではないが、孫次郎や家続たちの方に視線を向ける。


「元服を迎えたと聞いたが、(せがれ)の名は“家”続か……」


「ああ。(てい)(しめ)さんとな。戸次との縁談は余所(よそ)から何だかんだ言われたが、これもまた大神の()を示す為の手段でもある。だが、親家だったからこそ、由布家は戸次家と結びついたのだ」


 大神氏族にとって始祖の大神惟基の『(これ)』の名を付けるには大きな意義があり、慣例である。

 それを破ってまで戸次親家の一字を、自分の子(家続)に偏諱(へんき)を貰い受けたのは、まさに由布家が戸次家、そして主君である大友家への主従を示している(あかし)


「解ってるよ。お主(由布)は大神氏族で(もっと)(さと)いのを。そして親家殿への信頼も」


「……このぎこちない関係を()れと我が子たちで片付けて貰いたいが、美作守(みまさかのかみ)の連中は来ておらぬし、まだ由布家とて家中で揺れている」


「そうか、そちらはまだ分かれているのか……」


大神(おおが)()を受け継ぐ一族の誇りと意地がある。俺みたいに割り切れないものだ。ところで、親家の様態は?」


「思わしくないな。この戦いが終わる頃までもつかどうか……」


「そうか……ならば急がないとな」


「では由原宮に急ぎ()せないとな。宇佐神宮の使者殿を待たせているとのことだ」


 由布と十時、そして戸次。(もと)は同じ祖を持つ大神氏族。時流に翻弄されて生じてしまった境遇の(いびつ)さ。

 戸次家は豊後に下向してきた大友能直の孫である重秀が名跡を継ぎ大友庶子家となってしまい大神と分流してしまった三氏族だが、この弔い合戦で結束しようとしていた。


「ならば、由原宮までの道案内は由布家が先導しよう」


 短い休憩(きゅうけい)の後、行軍が再開されると、由布軍を先頭に一同は由原宮へと目指していくのだった。



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