アルキメデス VS 走れメロス
「助手君……?」
暗がりの事務所の中を歩き回りながら、真田は手探りで電気を付けた。明かりが部屋の中を照らしても、自分以外の影は何処にも見当たらなかった。
「おかしいな……。いつもならこの時間、事務所に来ていたはずなんだが……」
念のために倉庫になっている隣の部屋を覗いて見ても、学生服の少女の姿はなかった。仕方なく彼が元いた部屋を振り返ると、事務所の入り口の小窓の向こうにいつの間にか小柄な人影が立っていた。
「……?」
その人影は、少なくともいつも来ている助手の背丈ではない。真田は一つ咳払いをすると、扉を開けながら人影に声をかけた。
「すいません……今日はもう、事務所を閉めようかと思っていたところで。依頼でしたら、また後日……」
「ヤァ。久しぶリ、お兄サン」
「!」
小柄な人影は人懐っこい笑みを浮かべると、真田に笑いかけた。彼は目を見開いた。
「お前は……!」
小学生くらいの背丈に、特徴的な猫耳の飾りの付いたヘッドフォン。何時ぞやの路地裏で出会った謎の少女が、そこに立っていた。彼女は八重歯を見せながら微笑むと、事務所の真ん中にあるソファに飛び乗った。
「中々良い活躍っぷリじゃないでスか。お兄サンのご活躍、僕ノ耳にもちゃンと届いテいますヨ」
「何しに来た……?」
真田は怪訝な顔をした。果たして敵なのか、味方なのかもよく分からない。『謎』を売り歩く正体不明の少女。彼女はヘッドフォンの飾りの耳の部分をピコピコと動かして微笑んだ。真田はそのヘッドフォンに見覚えがあったが、一体どこで見たかまでは思い出せなかった。彼女の目的がいまいち掴めず、真田は首をかしげた。
「また、新しい『謎』を買って欲しいのか?」
「ネエお兄サン。助手君はどこ?」
猫耳少女は真田の質問には答えず、部屋をきょろきょろと見渡しながら逆に彼に聞き返して来た。
「助手君? さあ……私も探していたところだ。今日はここには来てないみたいだが……」
「フウン……。ネエ、こないだ渡した【二人三脚】のカードは持ってル?」
「カード? 嗚呼、確か……」
なおも質問を繰り返す少女に、真田はズボンの右ポケットを探った。以前目の前の少女から買い取った、『謎』が記載されたカードを取り出す。トランプのようなそのカードを見ると、少女は猫のような目を細めて満足そうに頷いた。
「イイネ。流石お兄サン」
「何が?」
「ネエお兄サン。この前話したことを覚えてル? 『探偵が出向くから、その場所で殺人事件が起こる』っテ話……」
猫耳少女はそう言ってニヤリと唇を釣り上げた。
「もし助手君に会いタクなったラ、そのカードに書かれた場所に行っテ見るんだ。真田一行目探偵」
「何……?」
真田は顔をしかめた。
「タダシ……そのカードの場所でモ、もちロン殺人事件が起こル……」
「まさか……!?」
意味深な彼女の言い方に、真田は何か引っかかるものを覚えた。
「また、助手君に危険が迫ってるとかじゃないだろうな……!?」
「何……犯人にとっちゃ、自らの邪魔をしてくる探偵自身や、その助手を狙うのは当然だよ」
いつの間にか、彼女の声は低くなり、流暢な日本語を語り始めていた。喋り方をガラリと変えた少女が、いつもと違う異様な雰囲気で息を飲む真田の前に佇んでいた。
真田は激怒した。
「貴様……助手君に手を出したら……!」
「落ち着けよ。実は君にもう一枚、渡したいカードがあるんだ」
怒りの形相で詰め寄って来た真田に、少女は涼しげな顔で尻ポケットから何やら黒いカードを取り出した。近づいて来た真田の目の前に、彼女はそのカードをかざして見せた。
【二百万人】
黒いカードには、白い文字でそう書かれていた。真田は黙ってその文字を見つめた。
「……真田一行目探偵。君はアルキメデスを知っているかい?」
「アルキメデス? 確か【てこの原理】を発見した……」
眉を潜める探偵に、少女は満足そうに頷いた。
「嗚呼。支点、力点、作用点……。この【二百万人】のカードは、君にとっての【支点】だよ」
「【支点】? 意味が良く分からないが……」
「【二人三脚】は、君にとっても助手君にとっても、どうしても避けられない事件なんだ」
少女はそう言って少し悲しげに目を伏せた。
「だけど【支点】があれば……覆らない真実が、或いは覆るかもしれない。アルキメデスはかつてこう言った。『我に支点を与えよ。されば地球をも動かさん』」
「さっぱり訳がわからないな。さっきから抽象的な話ばっかりして、一体何が言いたいんだ? どうしても避けられない事件って、どういう意味だ?」
真田は逸る気持ちを必死で抑えながら、今一度少女に詰め寄った。
「御察しの通り、君の大事な大事な助手君に危険が迫っている」
「どうしてそれを……!?」
「僕は情報屋なんだよ。”人”の口には戸は立てられぬ、って奴さ。真田一行目探偵。もし君がこれから【二人三脚】の事件に出向くつもりなら……助手君を助けたいと思うのなら……その【二百万人】のカードのことを思い出して欲しい」
「…………」
真田は黙って少女を睨みつけた。実際、何を言われようとも真田は【二人三脚】のカードの裏に書かれた場所に行ってみるつもりだった。助手の身に何かあったとなれば、なおさらのことだ。
「だけど、真田一行目探偵。流石にそのカードに書かれた数字の意味は分かるだろう?」
少女が真田の陰に顔を半分隠しながら、ニヤリと歯を剥き出しにした。
「君が天秤にかけて……その重さを見極めるんだ。【一人の命】か、それとも【二百万人】か」
「おいおい……」
真田は顔を引きつらせた。【二百万人】……まさか本当に、それだけの数の犠牲者が出るとでもいうのだろうか? だとしたらそれは最早、殺人事件の域を超えている。真田は背中に冷たいものを感じた。
「じゃあネ。またどこかで会おうネ、お兄サン!」
突然、猫耳少女は喋り方を元に戻すと、ぴょんとソファから飛び上がった。困惑する真田をよそに、彼女はさっさと事務所の扉の向こうに駆け抜けて行った。
「お、おい! 待て、待ってくれ! まだ聞きたいことがたくさん……」
慌てて真田が事務所の外に飛び出すと、すでに階段には猫耳少女の姿はなかった。代わりに下から登って来ていたのは……一人の女性だった。
「よっ! 久しぶり、真田探偵!」
「あ、あんたは……」
階段の下にいる女性は、真田の顔を見るなり白い歯を見せた。かつてとある事件で知り合った、心霊探偵・夜霧涼子がそこに立っていた。
「たまたま近くに来たからさ、ついでに遊びに来ちゃったよ。お邪魔だったかい?」
「いや……」
扉の前でぼんやりと立ち尽くしながら、真田は目をこすった。
「今ここから、猫耳のヘッドフォンをつけた少女が飛び出していかなかったか?」
「猫耳? いや、人間も幽霊も、どっちも見かけてないよ。私が言うから確かだ」
第六感を持ち、幽霊相手に探偵業を営む夜霧が真田の問いかけにそう答えた。
「そうか……」
「あれ? 今日は助手の女の子いないの?」
真田の肩越しに事務所の中を覗き込みながら、夜霧は不思議そうに首をかしげた。真田は先ほどの猫耳少女との会話を思い出した。
「嗚呼。それが、実は助手君はもしかしたら……」
「珍しいね。あの女の子の幽霊、いつも君につきっきりだったのに」
心霊探偵・夜霧はそう言って真田に笑いかけた。




