犯人は田中殺人事件
「一体犯人は誰なんだ……っ!?」
姿の見えない殺人鬼に、男は苛立ちを隠しきれず握った拳で壁を叩いた。
もうこれで、三度目だった。今回は、紅茶に毒を盛られていた。たまたま溢した紅茶を飼い犬が舐め、突然痙攣し始めたから発覚したものの、一歩間違えれば間違いなく自分が死の淵に追いやられていただろう。男は歯軋りを繰り返し、残り少なくなった髪を掻き毟った。
「今すぐ、大広間に全員を集めろ! 全員だ! 早く!」
「か、畏まりました! 旦那様!」
先ほどから、床に溢れた紅茶を拭いていた女中の佐々木が、男の怒鳴り声にビクッと肩を震わせ立ち上がった。逃げるように部屋から出て行く若い女中を、男は扉の影からじっと疑り深く眺めていた。
……紅茶を運んで来たのは佐々木だった。年端もいかない小娘とはいえ、男にとっては彼女も立派な『容疑者』の一人だ。
「フン! 警察は一体何をしているんだ……くそっ!」
部屋の窓を打ち付ける激しい雨粒を、男は恨むような目で見上げた。連日続いている嵐のせいで、一等地の別荘は今や陸の孤島と化している。およそ犯罪とは無縁なはずの穏やかな避暑地が、自分に殺意を持った狂人と一緒に閉じ込められることになるなんて、笑えない冗談だった。
「そうだ……」
男は深々と牛革の椅子に腰掛け、時化た煙草を咥えなおした。警察の手に負えないというのなら……とある大富豪のツテで知り合った、あの『名探偵』に助言を乞うのはどうだろうか。どんな難攻不落な怪事件も、開口一番解決してしまうなんて逸話すら持つ、あの名探偵……真田一行目に。
男は苛立ちの治らない頭を掻き毟り、早速教えてもらった番号に電話した。
□□□
「嗚呼。犯人は田中ですよ」
「何だって!?」
ワンコールも待たずに通話に出るなり、開口一番探偵はさも面白くなさそうにそう言ってのけた。まだ男が自己紹介も、別荘で起こっている出来事も何も言ってないにも関わらず、だ。噂に違わぬ電光石火っぷりに、男は舌を巻いた。
「じゃ……そちらに行けないのが心苦しいですが……。また何か面白い謎があったら是非事務所にお電話ください。では」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 理由は!? 田中が犯人だという理由は何なんだ!?」
即座に電話を切ろうとする名探偵に、男は流石に慌てた。
「え……? 何ですか……? あ……で、な……だか電波が……るくて……」
「真田探偵!? おい!? おい!!」
急に窓の外を叩く雨音が激しくなり、突然通話が途絶えた。それっきり、例の名探偵と電話が繋がることはなかった。時折海の向こうから稲妻が、明かりを落とした部屋の中を白く照らす。男は唇を噛んだ。
『犯人は田中』。
彼は確かにそう言った。一体どうしてそういう結論に至ったのか分からないが、これは助けの来ない閉ざされた孤島の中で、唯一届いた貴重な助言に違いなかった。
今現在、この別荘にいる人間は男以外に七人だ。
彼の妻の光代。古い友人であり、ビジネスパートナーでもある佐藤。還暦を迎えた別荘の管理人兼警備員の鈴木に、女中の浜田、佐々木。若い庭師の武田。それから専属料理人の、田中……。
……この中の誰かが、連日彼の命を狙っているのは間違いなかった。何せここは人里離れた山奥にある個人の別荘で、一番近くの町まで、車で飛ばしても最低一時間はかかる。ここに来てすぐに嵐に見舞われてしまったので、他に誰か部外者が侵入したとも考えられなかった。
犯行動機については直接心当たりはなかったが、『自分の命が狙われている』ということに、彼は不思議と驚きもしなかった。小さいながらも長年社長をやって来たものだから、何かと恨みは買っている自覚はある。生来短気な性格が災いして、使用人だけではなく、女中や妻に思わず手を上げたことも一回や二回ではない。誰かは分からないが、たとえ身内だったとしても自分は驚かないだろう、と彼は思った。だが、だからと言って黙って殺されるわけにもいかない。
「田中、か……くそ! 今に見ておれ……!」
彼は唇を噛むと、急いで全員の待つ大広間に向かった。
□□□
そういえば……。
暗がりの廊下を早足で駆け抜けながら、ふと男は思い出した。一回目に命を狙われた時は、夜の庭園で突然後ろから刃物で襲われた。生憎犯人は逃してしまったが、あの時ヤツが慌てて落としていった凶器は、果物ナイフだった。
二回目の殺人未遂は、男が離れでうたた寝している際に、あろうことか飲んでいたウイスキーを床にぶち撒けられ、そこに火を放たれた。幸いこの嵐ですぐに火は収まったのだが、火は離れ全体に広がり、一歩間違えれば焼け死んでいたかもしれなかった。そして今回の紅茶の毒……。今回の三つの事件、その共通点は……。
「そういうことか……!」
男は拳を握り締めると、足早に階段を駆け下りて行った。
□□□
「し、失礼します。旦那様、全員を呼んで来ました」
「……入れ」
木製の重厚な扉が開かれ、別荘にいた全員がぞろぞろと大広間に集まった。男は『容疑者』の彼らをジロジロと眺めた。その中にはもちろん、料理人の田中の姿もある。そわそわと不安げな彼を憎しみを込め睨みつけ、男は咳払いをし重々しく口を開いた。
「諸君。集まってもらったのは他でもない。まただ。また私の命が狙われた」
「何ですって?」
「静かにしてくれ」
ざわつき出した周囲を右手で制し、男は先ほどの経緯を話して聞かせた。その間、『容疑者』達に何か不審な動きはないか、彼はじっと観察していた。
「……で、あるからして、この中に犯人がいることは間違いないだろう」
「まさか!?」
「私達の中に、犯人ですって!? そんなバカな……」
「いいや、そうだ。それに実は、犯人はもう検討がついておる。実は先ほど東京の偉い名探偵の先生に、電話でアドバイスをいただいてな……」
「ええ!?」
今思えば碌なアドバイスではなかったが、犯人を特定する良い『とっかかり』にはなった。男は重々しく、白い制服を来た料理人の田中を指差した。
「そうだろう? 田中! ……君が犯人だ!」
「ええ……!? だ、旦那様……そ、そんな……!」
「黙れ!」
狼狽える若者を、年季の入った男は一喝した。
「一回目の殺人……私はかろうじて一命を取り留めたが、君は凶器を落としてしまった。そう、果物ナイフだ。そして二回目の小火騒ぎ。皆、覚えているだろう。あの時、犯人は燃やすためにアルコールを使ったんだ。今回の紅茶にしてもそう……今思えば全部……」
「私は……決して……!」
三つの事件の共通点。それは全て凶器が調理道具だということだ。
このことを指摘され明らかに動揺する田中に、男は確信した。まるでドラマの探偵になったかのように、彼はゆっくりと皆の前へと歩みを進めた。怯える田中だけを残して、周りがさっと一歩引いた。彼は皆の輪の中心で、もう一度若き料理人を指差し重々しく言い放った。
「田中! 貴様が犯人だな!」
「違います、旦那様」
突然、背中に熱いものを感じ、男は振り返った。
彼の背中から、果物ナイフが生えている。男は目を見開いた。刺されたのだ、と彼が気がついた時には、激しい痛みが背中から全身を駆け巡っていた。そのまま顔を歪め、男は立ってられなくなり膝をついた。赤黒い液体を刺し口から溢しながら、ナイフの刃が彼の背中から抜けていった。彼は目を見開いたまま、今しがた自分を刺した人物を見上げた。天井にぶら下がるシャンデリアの逆光の中、ナイフの柄を持っていた人物が彼の目に飛び込んでくる。薄れゆく意識の中で、彼は『犯人』の言葉を聞いた。
「……私たち全員が、貴方を恨んでいたんですよ。貴方を殺そうとしていたのは、ここにいる全員です。殺意の元凶、こうなるまで皆の恨みを買った張本人……その犯人は田中様、貴方です」




