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怪・界・会

深淵

作者: 高野 真

 当代・今村仁左衛門が上七軒の茶屋、菊乃を発ったのは、

 夜も随分更けた頃合であった。

 馴染みの芸妓の手を取り迎えの円タクを待つ者、

 待たせてあった手代に率かれて帰る者。

 仁左衛門はしばし逡巡したが、堀川一条にある自宅へ帰るのは止すことにした。

 春に生まれたばかりの昭太郎はとうに寝んでいる刻限である。

 しかし、絹江はまだ起きているやも知れぬ。


 その家は、平野神社裏手にあった。

 菊乃から落籍いてきた折に仁左衛門が用意したのである。

 母子がひっそり暮らすに相応しい、平屋建ての小さな、

 それでいて端正な家であった。

 最近は市区改正で新たな大路の建設が始まったとは言え、

 稲穂と薄野原がいまだ広がる、閑静と言うには些かさびしい場所である。

 仁左衛門は、川面をゆく流し灯籠のようにぼんやりと灯る花街を独り後にした。

 少し歩けば北野の天神様、人の気配は絶え辺りは幾重もの夜の帳に覆われた。


 ざり、ざりと爪立て引き掻くような音だけが耳朶を打つ。

 空気は密度を増し、雪駄を引き摺る足取りをさらに重くさせた。

 埋み火を思わせる熱気が、膠となっていつまでも肌にまとわりついている。

 鼻腔を突くは、青臭い草いきれ。

 噎せ返るほどの湿気が、靄となって辺りに立ち籠める。

 幾重もの舌でもって身体を舐めまわし、

 毛穴のひとつひとつから身中に滑り込むのである。

 玉となって噴き出した汗は、胸を、背を幾筋も伝い、

 しとどに濡れた絽の長襦袢が、赤子の掌の如くぺったりと貼りつく。

 仕立てたばかりの能登上布が、毛織の袷のように重い。

 目を瞬かせつつ天を振りさけ見ても星ひとつ瞬かぬ。

 雲は線香の残煙よろしくたなびくばかり。

 その切れ間から、真っ赤に焼けた焙烙玉のような月が妖しげに微笑んだ。


 見世出し間もない舞妓もかくあるや、肌理細かなる漆喰塀。

 場末に立つ売笑婦の痘痕が如き、素地むき出しのぼろ土塀。

 天満宮をぐるりと囲み、どこまでもどこまでも続いている。

 仁左衛門は幼い頃からこの塀が恐ろしくて仕方なかった。

 正確には、塀そのものではなく、塀の向こう側に恐怖していたのである。

 あちらで蠢く異界の者どもを堰き止めるには、三尺四尺の厚みでは物足りぬ。

 木々は瓦を乗り越え粘土を穿ち、漆喰を食い破り、枝を幹を此岸へ突き出す。

 血脈を得た闇は一段とその濃さを増し、

 とろみをもってひたひたと現世へ流れ込んでくる。

 ああ、また怪しげな鳴き声がする。鶏を絞め殺すような叫び声。

 鵺か、はたまた化狐か。

 今にも逃げ出さんばかりの仁左衛門が目にしたものは、

 ―――絹江の姿であった。

 塀が途切れた先の紙屋川に架かる石橋で、

 赤黒い月明りを浴びて凝乎と立っているのだ。

 大方、涼みがてら迎えに出てきたのであろうが、

 それにしてもまるで幽霊ではないか。

 苦笑しつつも、人心地ついた気分であった。自ずと足取りも軽くなる。

 絹江も仁左衛門に気づいたと見えて、しきりに手招きしている。

 風にそよぐ柳の如く手を揺らし、おいでおいで、おいでおいで。


 さらさら流れる紙屋川、水面に重なる二つの影。

 襟もとにひたと寄せられた額、背中に控えめに添えられたか細い腕。

 細君からはとうに失われてしまった、

 いじらしいまでに愛を求める姿に仁左衛門は惹かれていた。

 仁左衛門は絹江の肩を抱こうとして、


 ―――それは絹江ではなかった。


 視点の定まらぬ四白眼、目じりは眉まで吊りあがり、

 赤黒くかさついた肌に無数に浮き出た茶色い染み。

 痩せこけた頬と深く刻まれた豊齢線、乱杭歯の隙間から舌がぬらぬら動いた。

「汝深淵を覗かば、深淵もまた同じう汝をば見返すものなり」


 どうやって逃げ出したかは覚えておらぬ。

 平野の家に着くと、絹江と昭太郎は仲良く並んで床に就いていた。


 ただし、二人共その首をねじり切られていた。


参加要件は以下のとおり。

◆内容◆ 小説内の時間を“夜”と限定した短編もしくはショートショート

◆期間◆ 本日より8月末日まで

◆長さ◆ 1文〜原稿用紙5枚程度



(平成28年8月29日脱稿)

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