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山頂のお茶会は神様と。

作者: 星空歩

「あの山には、神様が住んでいるの」


 あの時母さんは、何の前触れもなく、突拍子もなく、確かにそんなことを言った。

 その当時、僕はまだ知識量の乏しい純朴な子供だったため、当然のことながら何を言っているのか分からなかった。なので聞き返したはずだ。

「やまのかみさまって?」

 と。すると母さんは、微笑みながらこう言った。


「神様……と形容していいのか分からないのだけれど、ずっとずーっと昔から住んでいる人よ。私が子供の時に会ったことがあるから、三十年以上はいるわね」

 懐かしむように母さんは目を閉じる。そのまぶたの裏に映し出されていた景色は、一体どのようなものなのだろうか。今になっても、結局それだけは分からなかった。


 僕は……どう返しただろうか。ふーん、とでも相槌を打っていたのだろうか。興味津々に、目を蛍のように煌々と輝かせていたのだろうか。

 どちらにせよ、母さんはこう続けた。

「それでね、その神様はとっても物知りなの。お母さんと初めて会った時も、色んな話をたくさんしてくれたわ」

 母さんが話したその話に、僕は思いっきり食いついた覚えはあった。それもそのはず、その当時から僕は本が大好きで、就寝前には必ず母さんに本を読むことを強要していたからだ。あの愛情に溢れ、明るい色を灯していた母さんの朗読は、今となっても脳裏に焼きついている。


 昔話をして満足したのか、母さんは母屋へ洗濯物を干しに踵を返した。それを良いことに、記憶の中の僕も回れ右をし、母さんが話しながら真っ直ぐ見据えていた山へと一目散に駆け出す。あの山頂揺らめく陽炎は、傾き始めた太陽と、僕と山の距離を目測して、セミと一緒に笑っている。ということに気づくのは、果たして山の中腹部だったか、山頂間近まで近づいていた時か。記憶力の悪い僕には、到底思い出すことができなかった。



 結論から言ってしまえば、僕はその日、山の登頂に成功していた。普通に考えれば、子供一人が山に登る――しかも登山用品など一切持たず手ぶらで――なんて自殺行為でしかなかったはずだが、僕にはその重要な点である道中を思い出すことができずにいた。なので、ここではロープウェーに乗った、ということにしておこう。そんなもの、今も昔もあるはずがないのだが。

 記憶は、階段状になっている岩を、早足で登っているところから始まった。辺りはもうすっかり暗く、汗滴る肌に夜風が強く吹き荒れていたことを覚えている。灯りは月のぼんやりとした光のみで、いつ野生動物に襲われるやもわからない状況下であるのに関わらず、不思議と恐怖心もなく、軽い足取りで天辺を目指していた。今にして思えば、僕は俗世間一般的に言われる変人だったのだ、と思う。ただ話を聞く程度だったら、近くの図書館にでも行って読み聞かせしてもらえば良いものを。それとも、山の神様という未知の物質について興奮していただけなのか。その時の感情について思い出せない僕には、分からない。

 石の階段が終わり、急な斜面になっている草原を抜けると、頂上から光が放出されていることに気づいた。星灯りとは違い真っ赤な光が、空に向かって伸びている。星光の中紅一点に、まるで僕を誘惑するようにユラユラと揺らめく光に、幼い僕は夜間群がる虫のごとく引き寄せられていったのだった。



 山頂では、少女が空を見上げていた。

 黒のミディアムヘアに、スカートの部分のみ小さな花が散りばめられている白のワンピース。少々大袈裟な比喩表現かもしれないが、その容貌から、僕には天使が空を仰いでいるように思えた。


 気配に気づいたのか、少女はこちらを振り返る。鬱陶しげに髪を掻き上げ、こちらを見下ろす瞳は、予想とは全く違い無感情で、無明瞭で、無存命的だった。

 少女は小さな口を開く。

「あなたが、山の神様ですか」


 投げかけられた言葉を咀嚼し、全く違うことに気づいた僕は、激しく首を横に振りながら近づいた。少女はコクリとうなずく。

「そうですか」

 そう小さく声を漏らして、また空を見上げる。まるで幻想郷から転げ落ちてしまった遊女が、懐かしげに母国を眺めているような。そう思えるほど、彼女は儚げで、透明色だった。と言えば、解りにくいだろうか。

 駆け足で駆け寄って隣に立つと、少女が僕よりも五センチ前後ほど背丈が高いことに気がついた。更に僕は、少女が小さな黒い懐中電灯を持っていることに気がついた。僕はそのことについて質問する。

「ねぇ」

「なんですか」

 不機嫌ともとれる対応に全く動じず、僕は懐中電灯に指をさした。少女は一呼吸置いて首を傾け、黒い懐中電灯をつける。

 懐中電灯からは一筋の赤い光が伸び、空へと伸びていった。その瞬間、僕は山を登る時、山頂から出ていた赤い光の正体がこれだったんだ。と理解し、ひどく落胆したのを覚えている。


「この光は星を見えやすくしてくれるんです。なので、暗い夜の時はこうやって、照らすのですよ」

 僕の心情を察したのか察していないのか、少女は空から言葉を選び、解説を交えながら赤い光線をブンブンと振り回した。表情筋の固い顔と行動の矛盾が何となく可笑しく、僕は笑った。

 そして、僕は続けてこう質問したはずだ。

「どうして星を見てるの?」

 すると少女は依然として変わりなく、僕の顔を見ずに、こう言った。

「だって、悲しいじゃないですか。せっかく星は光っているのに、みんな外に出ないで家にいるんです。それってなんだか、光り続けている星に対して失礼ですよ」

「そうかな?」

「そうですよ。誰も見ていないのに懸命に光り続ける。それって誰にも見つけられない虹のように。誰にも読まれることも、聞かれることもない物語のようで、」

 かわいそうですよ。と、少女はそう言った。


 その時僕は、急に饒舌になった少女に向かってなにかを言ったはずだ。でも僕にはそれを思い出すことができなかった。どうしても、思い出すことができなかった。

 その返答を聞いたであろう少女は、目を丸く広げ、柔らかな笑みを浮かべた。

「その考えは、とても素敵ですね」

 ――この時の僕は、これが最初で最後の彼女の笑顔だ。ということに気づけただろうか。何年も一緒にいて、一度しか笑わせられなかった無様で情けない自分を、少しでも想像できただろうか。

 記憶の中の少女はその後も、気分高揚と高らかに言葉を続ける。

「私は、父から山の神様の話を聞きました。なんでも知っていて、面白い話をしてくれて、一緒に星を見てくれるような。そんな―――」




 (結局、)

 空気が凍りつき、先日降った雪が霜のように彩っている草原を懐中電灯で照らしながら、回想を停止して進み始める。

 空はすっかり闇に包まれ、頼りになる光は懐中電灯の光のみとなっていた。

(いくら考えても、あの時僕が言ったことは思い出せない……)

 どうやって彼女の顔を緩めたのだろう。どんな言葉を用いて、彼女を笑顔にしたんだろう。

 それはもう、時間という歳月を経て、完全に忘れてしまった。人間の記憶力は六十年続くと言われているが、明らかに嘘だろう。十年経った今でさえ忘れてしまったというのに。


 いつの間にかネバネバしている右手に、クモの巣に触れてしまったのだろうか? と顔をしかめながら草原を抜ける。そして、山頂から赤い光線が飛び出ていること確認すると、呆れたようにため息を吐いた。どうやら、昨日の説得も無意味だったらしい。




「お待ちしていました」

「……あぁ、うん」

 山頂は、過去の記憶と照らし合わせると全く風景が変わっていた。

 まず、草が生い茂っていたはずの場所は、ただの石と砂のみになっており、その上には、ホームセンター等で庭用に売っているであろう白く小さなテーブルと、二つの椅子が置いてある。更にその脇には小さな花壇が設置されていて、今は花の代わりに雪が積もっていた。これら小物たちは僕が持ってきた記憶がないので、彼女が持ってきたのだろう――その彼女というのは、先程声をかけてきた女性のことだ。

 厚手のダウンジャケットに手袋。マフラーと耳あてとニット帽に、下はスカートと黒タイツ。そして何故かピンク色のエプロンを着ながら、深々とお辞儀をしていた。その服装をふと疑問に考え、問いかけてみる。

「毎回思うけど、スカートって寒くない?」

 その言葉に呼応するように顔を上げ、口を開いた。

「いえ。着てみると案外防寒性能は高いですよ。着てみますか?」

 そう言いながら彼女は、ぴらりと下着が見えないギリギリまでスカートを持ち上げる。僕はなるべくそれを視界に入れないように首を振った。

「いや、やめておくよ。僕にそういう女物は似合わない」

「そうですか」


 この話題に執着はなかったのか、彼女は即座にくるりと背中を向けた。僕もその後に続く。

「……何度も言うけど、夜遅くにこんな山奥に来てはいけないよ。君みたいないたいけな女の子に、何かあっては困る」

 背中に問いかけてみたが、彼女は振り向きもせずこう言った。

「それは、貴方にも言えることでしょう」

 それはいたいけな女の子という辺りだろうか。

「僕はこう見えても鍛えているんだ。心配も問題もない」

「なら、私は貴方に守ってもらえば安全ですね。今日の飲み物はどうしますか?」

 反論する隙もなく、彼女は椅子の上に置いてあったバッグの中から幾つかのティーパックの箱を取り出し、僕に突きつけた。呆れながらも僕はあごに手を添えて唸る。


「……今日はジャスミン茶とヌワラエリアのどちらにしようか」

 そう言うと、これは名案! とばかりに手を軽く叩き彼女は言った。

「じゃあ私がジャスミン茶で貴方がヌワラエリアにしましょう。一口ずつ飲み比べれば二つの味を楽しめます」

 僕は少し考えた後に首を振る。

「いや、やめておこう。僕にも羞恥心はあるんだ。そうだね、季節を考えてヌワラエリアにしよう」

「…………そう、ですか」


 煮え切らないような表情を浮かべ、ヌワラエリアのティーパックを二つ取り出し、テーブルに置いてあったカップに魔法瓶のお湯を注ぎ込んだ。注ぎ込むときの表情は固く、真剣そのものである。その光景が何だか可笑しくて、僕は含み笑いを浮かべながら尋ねた。すると彼女は表情を変えずに言った。

「だって、貴方には最高においしい紅茶を飲んで欲しいから」

 その言葉を聞いて、ついに僕は声を出して笑ってしまう。そんなもの、変わるはずがないのに。

 お湯にティーパックを入れ、熱が逃げないようにガラスの小皿でフタをすると、彼女は黒い懐中電灯を手に取り空に向け、星を見始めた。僕は何も言わずテーブルに肘をつけ、何気なく彼女の横顔を見つめる。呆然と眺める表情には、なにも張り付いていない。


 ――今思えば不思議な関係だ。毎日のように夜の山で会い、お茶を飲んで下らない話をする。それも年単位だ。これは一種のギネス記録を狙えるのでは? と思うほどである。

 なんて下らないことを考えていると、彼女が懐中電灯をバッグにしまい、フタを取るとティーパックも取り出し、どうぞ。とこちら側にカップを差し出した。いつの間にか二分経っていたらしい。


 淡いオレンジ色の紅茶を一口すすると、紅茶、というより緑茶に近い渋みが襲ってきた。あまり紅茶には詳しくないので、これが急須で淹れた緑茶に着色料を足した、と言われても信じてしまいそうだ。同じ紅茶を飲んでいた彼女は、いつもの無表情を貫いているので、意志も意見も聞くことができなそうである。

「さて。今日はどんな話をするのですか?」

 丁寧に飲み口をハンカチで拭き、フタをしながら彼女は訊ねた。あれが女子力というものか。ふむ、僕も少しはあのように振る舞ったほうがいいのかもしれない。

「そうだね、それじゃあ……」

 僕は目を閉じ、考える。今日はボブ・ロスの筆法についてだろうか。それとも黄金長方形による回転の関係性だろうか。はたまた趣向を変えて、赤い糸が見えるようになった少女の物語だろうか。

 いや、違う。と思考を払うように肩をすくめる。


「……『山の神様』について」

 僕と彼女が出会うきっかけとなった、正体不明の人物。それがどのようなものか、ようやく昨日分かったんだ。僕は単刀直入に結論だけ言う。

「『山の神様』は、マクガフィンだったんだ」

 彼女は少しの間難しそうな顔をし、その後首を傾げた。

「……マクガフィン?」

「そう。それはキャリーケースに詰まった札束で、それは血のついた包丁で、それはそこら辺に落ちている小石なんだ」

 心地よさそうに解説すると、より一層彼女の顔のシワが増える。少しお遊びが過ぎたかもしれない。

「つまりマクガフィンというのは、何かしらの物語を構成する上で、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる、仕掛けの一種なんだ」

 詰まるところ、山の神様なんかじゃなく、山に綺麗な石があるとか、血のついた包丁が落ちてるだとか、大金が眠っている。なんかで良かったんだ。それ程までに僕達の出会いは簡単で、必然的だったんだ。


 ――だから、

「だから、この世に山の神様なんて存在しないし、存在しちゃいけないんだ」

 だって、それを発見してしまったら、何もかもが終わってしまうから。

 その説明を受けても彼女は唸り、口を尖らせた。

「……やっぱり貴方の話は、私には難しすぎます」

「そういう風に話しているからね」

 その方が人の記憶に残りやすいのだ。理解できた話よりも、理解できず後味が悪い話の方が。

 だから僕は、如何にも難解そうな言葉を使う。大事な場所をわざと説明せず、物語を紡ぐ。我ながら最悪な人間である。


 その時ふっと、彼女が僕の後ろの丘を見た気がする。そんなにフクロウの声がうるさかったのか、はたまた変な虫でもいたのか、なんて思っていると、彼女はバックから何かを取り出しながら言った。

「……やっぱり、山の神様じゃなきゃダメですよ」

 石なんて誰も欲しくないし。

 血のついた包丁や、札束がある場所なんて怖くて行きたくないし。

 それに、

「子供というものは、皆ヒーローに憧れるものです。絵本の中にしか出てこない登場人物で、何でもできるヒーローなんて、神様しかいません」

 と、彼女は僕の後ろを指さす。

「…………」

 恐る恐る僕が後ろを振り返ると、目をキラキラと光らせた一人の少年が、こちらへ駆けて来ているのが伺えた。それはまるで、過去の自分を見ているようで――。


「……あぁ」

 僕はこれから起こる出来事を何となく予想し、ため息をついた。空を仰ぐも、真っ暗なカーテンが掛かっているだけで、助言どころか光も指してくれない。これが朝になればこの問題も解決するのだろうか、なんて人ごとのように思いながら、僕は少年が駆けてくる方向へ迎えに行った。

 ――夜はまだ、長い。

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