“聖書の乙女”と“知を総べる大賢者(クルーガー)”と“惰眠を貪りし愚者”
紫の瘴気から逃れた人類が、今日居住を許されている四大陸ひとつ、ムリアス大陸の外れにあるスケッルス地方は今、うららかな春の到来に酔っていた。
蝶は菜の花畑を軽やかに舞い、ミツバチが甘い蜜を肴に愛を語らう。
人々は陽気な空気に胸を弾ませ、鳥はレンガ造りの屋根の上から寝ぼけた黒眼で、平和そのものの街を見下ろしていた。
そんな最中。
ドが付くほどに田舎のスケッルス地方においても、さらに辺境の地とされるダクダの森。
その森のずうっと奥地、草木が鬱蒼と生い茂る場所にある、切り立った岩壁。
そこにぽっかり空いた洞穴から続く石段が、導くのは深遠なる地下空洞。
明らかに人の手によって整地された、小さな青白い炎にのみに照らされたその薄暗い一室は、異様なまでの冷気に満ちていた。
巨大な氷柱が天井から生えていたり、目に付くもの全てが氷付けになっているというようなことでは断じてなく。
それを一言で説明するならば、周囲の空気がただただ戦慄を感じて凍てついている、と表現する他はない。
大小様々な岩石で形作られた、殺風景な立方の空間。
そんな淋しく冷たい静寂に佇む少女がひとり。
薄く、し かし丈夫そうな白地に金の刺繍で飾られたローブに身体をすっぽりと包む少女の、その外見から察せられる情報は多くはない。
だが闇に映える赤い瞳に秘められた雄々しき生命力、フードの端から垣間見える銀色の髪の瑞々しさ、そして袖口からのぞく絹のように繊細でなめやかな肌は、少なくとも彼女が成人に至っていないことを他者に認識させるには、十分な判断材料たりえた。
もっとも、それは彼女が人間であったのならという前提でのみ成り立つ推測ではあるが。
四隅の其処此処に揺らめく、その儚げな光源のみを頼りにして、ローブの少女は水差しの煮えたぎった青い液体を石畳に垂らしていく。
液体は地に落ち、瞬く間に固まる。
大きな円のなかに小さな円。
そのふたつを貫くようにして描かれるのは、六芒星を思わせる幾何学的な模様。
少女は躊躇う事無く、その縁を様々な記号で彩っていく。
黙々と一心不乱に。
白いフードの下、薄っすらと暗がりに浮かぶ幼さの残る彼女の顔には、狂気じみた真剣と必死さに混じって、微かな悦と安堵が見え隠れしていた。
その表情に、かつて彼の地に紫の瘴気を撒き散らした邪神を呼び起した、あの悪しき神官を彷彿とさせるまでに。
もう少し、もう少しで願いが叶う。
彼女の赤い瞳には、とうに自身の悲願の成就の成功のコトしか映ってはいないらしい。
からん。
中身を失った土色の陶器が、細く色白の指を離れて床に転がる。
それで下準備を済ませた少女は青い円陣から数歩離れ、その中心に向かって左の掌を見せた。
ぱちんっ。
右手の指を彼女が鳴らすと、彼女の差し出した左手には一瞬にして銀の杖が握られた。
シンプルだが品の良いその 杖の上部にも、やはり六芒星がデザインされた装飾が施されている。
少女は瞼を閉じ、暗闇の中で一度大きく深呼吸をした。
慎ましやかな胸が微かに膨らみ、そして元に戻る。
「‥‥‥応えよ」
そうして彼女は目を閉じたまま、杖を水平に握り締めて、決心したようにつぐんできた唇をゆっくりと開いた。