05-2
――……あれっ?
母親の意識を現在まで戻り終え、その精神の外に出た。
控え室、だ。
牧谷里美が泣いていて、雛子がそれを驚きながら見ている。
尚巳が後ろを振り向くと、母親はソファに身体を横たえていた。その顔に表情は無く、とても問題が解決しているとは思えなかった。
――な、なんで?
さっきまで自然と浮かんでいた笑顔が、表情筋が、引きつる。
――そんなはずはないそんなはずはないそんなはずはないそんなはずはない……なんで?
「あの、これどう言う事ですか、ね」
怒っているのだろうか。少し不満そうな父親の声が聞こえた。
――いやだってそんな……!
とにかく状況の把握だ。それをしない事には、解決など出来ない。
――さっきの対処は間違っていなかった。と言う事は〈他にも〉原因があると言う事か。
と言うか、なぜ牧谷が泣いているのだろう。
人はあまり率先して泣かないと思う。しかも他人が大混乱している時に。
少々悩みがあったって、他人のこんな場面に巻き込まれてしまえば、普通は一時的にでも悩みは忘れるものだ。気が紛れてしまうから。
なのに。
――まさか雛子さんが牧谷さんをイジメたりしてないよ、なぁ?
披露宴が台無しになってしまいムシャクシャして、八つ当たりでもしたか。
いや、そんな人ではないはず。
ならば、単に何かのすれ違いや、悪意無く言ってしまった言葉。あるいは。
――それこそ、コンプレックスを刺激されたとか?
花嫁に対して抱く負の感情と言えば。
嫉妬。
――牧谷さん、誰かの事が好きなのかな。
どくん。と鼓動が先に反応した。
――もしかして凪原さん? それとも……。
『病院ほどではないだろうけど、違う種類のエグいモノが』
――あ……。
尚巳は意識を切り替えた。
〈見る〉つもりで、牧谷を見る。
牧谷の背後には、見上げるほどに積み重なった、無数の顔があった。
どれも女の顔だ。それぞれが泣いている。そして、怒っている。
数は……多分、百や二百では済まない。牧谷本人より数倍の体積があるように見える。
これでは苦しいはずだ。泣きもするだろう。
――嫉妬……。
尚巳はもう一度、背後を振り返った。
雛子の母親を。
計算が合わないような気はしていたのだ、ずうっと。
トリガーとなったのは確実に尚巳ではある、のだろう。だから対処だって間違ってはいないと、今でも思う。
けれどあの爆発の仕方は、普通ではない。
嫉妬も混ざっていたのだ。きっと。
そしてそれは、多分それは……。
結婚を認めたくない、母親としての本音。
愛しい娘を取られたくない、と言う嫉妬。
女性がひとりで子供を育てるのは、どれほどまでに不安だっただろう。だから心配してこの父親も、未だに家族を見守っていたのだ。
最後の理性で、娘を送り出そうとしていた。
それなのにこんな場所で、不安定だった心が激しく刺激され続けた。
尚巳と言う存在に。
嫉妬の化身の化け物達に。
この母親は、こんな風に抜け殻となってしまうほど、エネルギーを使い果たしたのだ。
――でもババァの方は大丈夫だ。まだ〈あいつら〉に蝕まれてはいないみたいだから。
母親の意識は、尚巳に方向付けられていた。だから、あいつらからの影響は最小限で済んでいる。
これが逆に凪原に向かっていたら、取り返しがつかなくなるところであった。
――そう言う意味ではラッキーだったな、ババァ。
「ご主人は、奥様の心のケアをお願いします。言葉をかけ続けてあげてください。ああでも、ピー輔からは降りないでくださいね。絶対にダメですよ。ピー輔、頼むね」
尚巳は父親に注意を与え、自分はピー輔から飛び降りた。
実物サイズに戻った精神体である尚巳の足が、床に降り立つ。
本体で来なかった事を少しだけ、後悔した。精神が剥き出しでは、受けるダメージが大きくなる。
こいつらはこの会場に焼き付いてしまった、過去の残像だ。
実際の女達が今は幸せになっていたとしても、こいつらは切り離されてしまっているのだから、本体達には関係無い。
関係ないのだ。燃やすなり何なりすればいい。それで済む。
なのに、出来ない。
あいつらは、牧谷の精神に絡みついていた。
そんなに深く織り合っているわけではないが、強引に剥がすと牧谷にもダメージが行くだろう。
牧谷は、尚巳が見捨てられる相手ではなかった。
――剥がさなきゃ、な。
尚巳は牧谷に向かって走る。
肉体のようにトップスピードに乗るまで、段階を踏んだりはしない。
いきなり最高速度が出せる。
その勢いで彼女の目元に手を伸ばし、背後に回り込んだ。
尚巳の精神体が、その右腕が、牧谷の目隠しをしたような体勢となる。
背後から抱きつくような形で。
次に、顔を耳元に近づけて囁いた。
「あなたの想い人を暴こうなんて、しません」と。
その魂がぴくん、と反応したのが分かった。
聞こえているようだ。でも多分、表層意識では聞いていないだろう。
今の反応は、潜在意識の方が動いたのだと思う。
この程度の語りかけを捉えるほどに敏感な表層意識を持っているなら、こんな化け物に絡め取られるはずがない。
「僕は、あなたを解放するために来ました。他人を妬んで羨んで嫉妬する必要なんて、どこにも無いんですよ。それを伝えにね」
彼女の顔が揺れる。左右に小さく、小さく、微細な振動だ。
触れていなければ尚巳でも気付けないような、微かな反応であった。
「〈そこ〉――あなたの心にある特別な〈部屋〉の事をお話しましょう。滅多な事では他人を招き入れる事のない、特別に敏感で痛みに弱い、特殊な部屋の事ですよ。分かりますよね? そこに受け入れるのは、あなたにとって特別な人だけです。好きな人に巡り合うまで、その部屋の存在すらあなたは知らなかったでしょう?」
目元に熱を帯びるのが感じられた。きちんと反応してくれている。
自分の言葉がどこまで届くかなんて分からないけれど、語りかけの効果はあるようだ。
「そこに入れるか入れないか、誰を入れるか入れないか。あなたが選んでいるんですよ。決定権はあなたにあるんです。あなたがその部屋に〈彼〉を招き入れ、疼く痛みを耐え続けたいと言うのなら、僕も文句は言いません。けれど、本当にそれは必要な痛みなんですかね?」
よく分からないのだろうか。彼女はわずかに小首を傾げた。
「その部屋は他の場所より何倍も、何百倍も痛みを感じやすいでしょう? その痛みはね、彼が原因のように思えるけれど、本当は違うんです。そうじゃないんです。あなたが〈彼〉を〈そこ〉に入れているから〈愛しているような気〉になっているだけで、本当は違うんです。他の人を入れても、同じように痛んで疼くんです。相手を選び、そこへ入れているのは〈あなた〉の方。決して〈彼〉の優しさや笑顔、言葉や思いやりが痛みを発し、あなたに突き付けているわけではないんです。因果関係が逆なんです。分かりますか?」
尚巳の手に〈分からない〉の反応が返って来た。
――くっそ……どうしようかな。
尚巳は自分の中にある情報を検索する。
牧谷に関する情報から、何か使える事は無いだろうか。
――何か、何か、何か……無いか?
その時、尚巳の記憶の中をチラリと横切る男の姿があった。
あれは去年のクリスマスライブだった。
彼女の幼馴染みと言う男が店に、遊びに来たのだ。
彼は牧谷にとって一番の親友であり「異性としては意識出来ないの」なんて笑っていた。
――相手の男は牧谷さんの言葉を聞いて、少し寂しそうに笑っていなかったか?
こんな事、本当はしてはいけないのだと思う。
でも、一度だけ。示してあげたい。
襲い来る痛みも苦しみも、コントロール出来るのは自分だけなのだと、彼女に知っておいてもらいたい。
「鷹村さん、と言いましたっけ。あなたの幼馴染み。彼を一度、その部屋に入れてみましょう」
尚巳が言った瞬間、彼女はそれを実行してしまった。
どくん、とした重い反応が掌に伝わって来た。
「ほら、誕生日おめでとうって。メリークリスマスって。明けましておめでとうって。彼が言っていますよ。笑ってくれていますよ。どうですか? そんな微笑みすら〈痛い〉でしょう? 甘く疼いて、心が苦しくなるでしょう? ケンカなんてしてしまった日には、絶望にすら包まれるでしょう。彼から投げられる不機嫌な視線だけでも、あなたはつらいはずです」
そう言うと、少し時間を置いて彼女は頷いた。
今度はハッキリと首を動かし、頷いた。
掌に涙の感触が伝わって来る。
「その部屋の管理人は、あくまでもあなたなんです。世界中の、他の誰にも出来ない事。あなた以外に出来る人なんて、存在しないんです。そこは、あなたの〈心〉の一部なんですから」
うんうん、と言うように、彼女の首が動く。
「あなたがその部屋に誰を入れようと、僕は関知する立場にありません。だからこんな事を言うつもりはありませんでした。けれどどうしても、知っておいて欲しかった。ウンザリするまで苦しむ必要は無く、そうなってしまう前にあなたは、自分の意思で解放する事が出来るのだと言う事を」
「解……放……」
牧谷が呟いた。
深層意識ではなく、肉体が口を使って声を出し、呟いたのだ。
「そう、解放です。いいですか、外からあなたを絡め取ろうとしているモノからも、逃れましょう。関わる必要なんて無いのですから」
他人が過去、この会場で投げ捨てた感情。
空間に焼き付いて消えない、苦しみの化け物。
そんなモノに囚われてしまうほど牧谷の運は悪くないし、精神だって弱くはない。
『だけど私……彼女が憎いの。憎くて憎くてたまらない。悔しくて苦しくて、死んでしまいそうなくらい嫌いなの。そんな事、考えてはいけない事なのに、でも、止まらないの。どうしても、どうしても止められないの』
牧谷の気持ちが尚巳の心を撫で上げて来る。
苛立ちの混じった、なんて陰鬱な感情なのだろう。
可哀想に。
そんな感情のために、自分を責めてしまっている。
「えーっと……あのですね。僕達が抱いてはいけない感情なんて、ひとつも無いんですよ。本当にいけない事なら、最初から人間に備わってるはずないんです」
『ほんとう、に?』
「ええ。ほら、僕達人間は、地球由来の生物でしょう? 細胞や原子や、そんな物の集まりじゃないですか。宇宙の素材と言うか、地球の素材と言うか、そのような物で〈脳〉は組み上がっているでしょう? と言う事は、感情と言う〈反応〉も〈この世界〉の一部でしかないのですよ。どこか遠くの……タブーとされている異次元から、人間がわざわざ取り寄せたものでもなければ、独自に無理やり生み出したものでもない。僕達は、ただの〈生き物〉です。元から備わっているだけなんです」
『そう、なのかしら』
「はい。だからそれは、味わって当然の感情なんですよ。誰もが持っているし、あなたも持っていていいんです。悪い事ではないし、罪の意識を感じる必要もありません。でもね、いつまでもその思いを抱えているのは、苦しいでしょう?」
『ええ』
「考えてはいけないって、思ってしまいますよね?」
『ええ』
「思えば思うほど嵌ってしまう。ほら、よくあるじゃないですか。真面目な雰囲気の場所で〈笑ってはいけない〉と思うほど、笑いがこみ上げてくるとか。明日は早いから眠らなきゃ、と思えば思うほど眠れない現象が」
『はい』
「それと同じ事なんです。自分の意識が『ダメだ』と囁き続ける限り、ループに嵌まり込んでしまう。これはね、思考と感情の仕組みがもたらす罠なんです。システムなんですよ。だから自分に『ダメだ』と言い聞かせる事はもう止めて、ラクになりましょうよ。ね? 僕がお手伝いしますから」
『わたし、自由になれるの……?』
「なれますよ。保証します」
『自由になって、いいの?』
「簡単ですよ。あなたが思考を切り変えるだけでいいんですから」
『あぁ、嘘みたい……そんな時が来たなんて』
その言葉と同時に、彼女が自分を取り戻したのが、分かった。
「あなたを取り込もうとしているアレは、僕が焼きます。だからあなたは逃れてください。あなたの胸の内にたぎっている嫉妬が弱まれば、アレらがあなたに絡み付くための〈フック〉は消えてしまいます。さぁ、心の自由を取り戻しましょう。いつか巡り合う人のため、特別なその部屋は綺麗に浄化するんです……今」
それまで刺々しかった牧谷の感情が、スルリと伸びた。
さらりとした手触りの美しい髪のように、なめらかな柔軟性を取り戻す。
絡み取られていた感情がスルスルと解ける。
そして、牧谷がアレら化け物から完全に離れた瞬間。
尚巳はこの地の精霊に、サインを送った。
彼らはこちらの合図を寸分違わず読み取り、牧谷に傷のひとつも付ける事なく、燃やし始める。
――あぁ。やはり土地自身も、アレらの存在を苦々しく思っていたんだな。当然か。この場所に必要の無いモノなんだから。
床から天井を突き抜け、さらに建物よりも高い位置まで帯を伸ばして燃える炎。
それは少し青みがかっていて、水色の空へ溶け込むように映った。
尚巳の視界も空まで見透かし、燃え行く様を見つめる。
怨念を浄化する炎だ。
美しくもあり、穢れてもいた。
――まあ、土地の精霊だって迷惑だよな。あんなのが居座ってちゃ。
居座るだけならともかく、化け物は勢力を増し続けていたのだろう。
きっとこれからも同じような化け物は生まれると思う。
人に感情と言うものが宿っている限り、逃れられはしないのだ。
――それにしてもすごかったな、牧谷さん。
「思考を切り変えろ」と言われて、その意見を受け入れる人は稀だ。千人にひとり居ればいい方である。
しかも彼女は、即座にそれを実行した。
思考は、自分の人生と共に蓄積されてゆく、その人個人の考え方だ。
考え方の根本には、経験の積み重ねが土台として有る。
それを変えろと言われたら、反発したくなるのが普通の反応だ。他人から、自分の経験を全否定されるようなものなのだから。
苦しさに溺れ、耐えかね、絶望の手前まで落ち込み、何でもいいから逃れようとアドバイスに頼ってはみたものの、簡単には変えられない事の方が多いのに。
――なんて素直なんだろ。ゾッとした。
そこまで素直な牧谷が、この化け物と同化していたらと思うと……恐ろしい。
血の雨が降る程度では済まなかったかも知れない。
――〈こっち〉に取り戻せて、よかった。
はぁ。と息を吐き、そろそろ本体に戻ろうかな、と考えた時である。
『にいたん』
――えっ!
聞き覚えのある声がした。
驚いて周囲を見回すけれど、幼い声を発している者が見当たらない。
単なる控え室であり、怨念の炎はまだ燃えている。
『ありがと』
そう告げた後、幼い気配はフッと消えた。
――ティーラウンジに現れたガキか。探しても親が見つかるわけなかったんだな。そっか。
あの子はきっと近い未来、凪原達の元に生まれて来る子供だろう。
――孫にまで心配かけやがって。クソババァ。
ピー輔の背中に乗ったまま妻の手を両手で握り、ずっと話しかけている雛子の父親と、ソファに横たわっている母親。
窓から差し込む光を受けて、ふたりは穏やかそうに見えた。
――家族、か。
これから先もきっと、色々と問題は巻き起こるのだろう。
けれど孫はシッカリしているようだし、心配なんかしてやらない。
そのまま自力で、幸せになるがいい。