05-1
■05■
「居たぞピー輔、俺だっ」
濃紺色のジャケットに、ハーフパンツ姿の幼い尚巳が居る。
幼稚園の制服だ。
ハーフパンツは地色がモスグリーンで、ネイビーブルーのラインが入った、上品なチェック柄である。
「あれ、あなたなのですか」
「ええ、多分。面影ありません?」
「いや、そう言われても……ここからじゃ、ちょっと」
確かにまだ数百メートルは距離があった。飛んでいるので、一瞬ごとに近づいているのだが。
「あぁ、顔立ちが見えて来ました。はぁ……なるほど。可愛らしい子ですね」
そうだろうか。そうだろうな。
当時から女子には言い寄られていたから、見た目はそう悪くはなかっただろう。
だけど。褒めてもらってすぐに、何だけれど。
あの子はちょっと。
少し。
いや、かなり。
目付きが悪い。
ぽっちゃりとした頬の、柔らかそうな質感の中でその目付きだけが、異様に悪い。
――あんなのが目の前に居たら、クッソナマイキそうで嫌いだろうな。俺。
『『ここからはもう無理』って言う、ガッチリとした壁があって、絶対に乗り越えられない……これを理解出来る人ってどんな世界が見えてるんだろうって、すごく不思議なんですけど。あの子には、それに近い不思議さがある。それが怖い、と思います』
カードを見つめている時に聞いた声が、蘇る。大学からの研修生、とか言ってたっけ。
『もしかしてあの子は、悪魔なのかしら』
『なんて不気味で、気持ちの悪い』
――そのセリフ。何度聞いても気分悪くなるよ、クソババァ。
「あ、あの……今、妻が、とてつもなく失礼な事を! 申し訳ありませんっ!」
隣で父親が、土下座でもしそうな勢いで頭を下げる。
「い、いえ……お気になさらずに、どうぞ頭を上げてください。人の闇は見慣れてる方ですから」
「そう言うわけにはいきません! まさかあいつが、自分の所の園児に向かってこんな事を思っていただなんて!」
「だから動揺しないでください、奥様の負担になりますから」
「で、ですが……私、ショックのあまり吐きそうです……!」
額をピー輔の背中に擦り付け、男は身悶えるかのように何度も何度も謝ってくれた。
謝罪なんて欲しくもないが、ここまでされると気が萎える。
確かに、旦那にとってショックは大きいだろう。
まさか自分の家族が、あんな幼気な園児に向かって敵意を剥き出しにしているだなんて、思ってもいなかったはず。
――俺だって思ってなかったけどな。……それにしてもこれ、どうしよう?
記憶の中の尚巳を始末すれば、それで済むだろうか。
――俺の手で始末しても、な。かと言ってババァ本人に殺らせるったって、百回や二百回、もう妄想の中で実行済みのような気がするし。
娘の結婚を妨害せずには居られないほど、あそこに居る尚巳は恨まれているのだから。
すでに危害くらい加えているだろう。殺っていないわけが、ない。
でも。
――結びつかないんだよなぁ、どう考えても。どうしても。
――この人、そんなに……俺の〈何〉を、そこまで恐れてるんだろう。
当時の事を思い出そうとするのだが、そんなに特別な事なんて無かったような気がする。
他人には感知出来ない〈存在〉と〈会話〉しているのを見られたのだとしても、そんな子供は世の中には無数に居るだろう。幼稚園の教諭が、そんな事にいちいち驚くとも思えない。
ピー輔の背中の上で、画面のように映る景色を眺め続けた。
周囲に浮かぶ他の記憶より、これだけが活性化していて動きがある。
他の記憶の映像は深い海の底に沈んでいるかのように時々揺れるだけで、あまり動きは無いのに。
間違いない。やはり〈ここ〉なのだ。
雛子の母親を刺激しているのは、尚巳に関する事なのだ。
エプロンシアターのパペットに、指人形。
お歌の練習と、ピアノの練習。
お絵かきに、折り紙に、ペープサート。
子供と共に、それらに囲まれた日々。
――うん。見ていても、あまりヒントが得られない。
「奥様は、どのような方なのですか。特にこの頃、変わった様子はありませんでしたか」
映像から視線を外さず、尚巳は質問を投げた。
「子供が好きな人で」
――マジっすか。
ひとりの子供をあんなに敵視出来るのに、子供が好きとは。
でも幼稚園教諭を、子供が嫌いな人は目指さないだろう。
自分だったら絶対にイヤだ。子供に囲まれた生活など、ちょっと考えただけでも地獄だ。
彼らとは会話が成立しない。そこが一番ストレスになる。
――意思の疎通だけで言えば、子供より異種族の方がまだ通じるもんなぁ。
精霊や異次元人、宇宙から来た意識体など、挙げていけばキリが無い。
彼らとは友好関係だけではなく、嘘をついて騙し合いに発展したりもするが、基本的に、意志のやりとりは出来る。
例え敵対関係だったとしても、会話は成立するのだ。
自分より相手の方が、頭脳レベルは高い事が多い。わざわざ合わせてくれるから、こちらだって頑張って応えようとする。
意思を伝え合おうと、双方で頑張る。
けれど人間の子供は、そんな態度を取ってはくれない。
――人間の子供の霊は苦手だけどな。あいつらも話が通じないから。
所詮子供は子供だ。生きてようが死んでようが、奴らは他人に対する思いやりなど極端に少ないクセに、見知らぬ相手は警戒する。
そんな事だけは一丁前だ。ナマイキに。
しかもそれらに悪意があるなら、まだ分かる。
あいつらには理性が無い代わりに、悪意もあまり無い。
そこが何より面倒で嫌いだった。
――こっちがちょっと対応を間違えると、傷つきやがるからな。俺は他人であるガキのトラウマになんか、なりたくないんだよ。
子供に対する愚痴なら、いくらでも出て来る。
けれど自分の抱くこの気持ちを、ババァは持っていないのだろう。
――子供好きとか、ホント理解出来ねー。
「あぁ、でも。彼女はちょっと不器用でしたね。特に折り紙が苦手でした」
――……っ!
尚巳の頭の中を、冷たい風が吹き抜けて行く。
「……それだ」
「はい?」
不器用である事は何度も告げられていたのに、どうして気づかなかったんだろう。
あの母親は、雛子と尚巳を比べていたんじゃない。
他人の子の方が器用だからと憤り、悔しがっていたのではない。
自分と園児である尚巳を比べ、傷付いていた。
強烈な劣等感が、トラウマになってしまうほど。
紺野尚巳と言う、悪魔の〈偶像〉を作り上げてしまっていたのだ。
それこそが〈象徴〉として、彼女を責め苛む憎たらしい存在。
「……コンプレックス、だったんだ」
それなら分かる。
自分の苦手な事を得意とするガキが再び、フルーツカービングなんて提げ再登場したら、トラウマだって蘇る。プライドが再び傷付くのは間違いない。
しかも、娘の晴れの舞台で。
憎たらしいクソガキが、デカいカオをして得意げに紹介されたりしたら。
それはもう、積年の恨みとコンプレックスが刺激されまくるに決まっている。
予想さえしていなかった相手が、デカくなって目の前に現れたのだ。
長年悪夢として忘れられなかった〈悪魔〉が突然、現れたのだ。
理性も吹っ飛ぶだろう。
「いや、まさかそんな事で」
父親は少し拍子抜けした表情で、力弱く呟いた。
「いいえ、他には考えられません! 出来る、これなら処理出来る!」
「ど、どうするのですか」
「もちろん、奥様の記憶を書き換えるんです。あそこに映る幼いガキは、愚鈍で手先も不器用だったと」
「書き換えるなんて、そんな事が?」
「奥様が長年育てて来た傷を癒すのは大変です。けれど根本原因を始末してしまえば、過去が書きかわる。傷も育たない。雛子さんの披露宴を邪魔する事も無くなります!」
「過去なんて、変えられるわけがない」
「いいえ、過去は変えられます」
尚巳は父親に、断言する。
「〈過去〉とは〈記憶〉でしかありません。記憶と言う〈足枷〉なんです。それが現在の人格を作ってるんですよ。過去の体験が、現在の自分を操っているんです。けれど本当は過去も未来も無く、〈今〉しか存在してはいないのですけどね」
時間が存在しているように思えるのは、そう思えるような〈記憶〉があるから。
記憶の辻褄が合っているから、時間が存在しているように思い込んでいるだけなのだ。
「はぁ?」
「僕は学者じゃないので、理路整然とした〈時間〉の説明は出来ません。けれどこれは、嘘じゃない。多分、あなたにも理解出来る時が、もうすぐ来ます」
「わたしが理解?」
「あなたはすでに、お亡くなりになっていますからね。人としての意識がまだ強く残っていますが、人の世界の檻からは解放されている。だからきっとすぐに〈見えて〉〈分かる〉ようになりますよ。この宇宙に〈今、この瞬間〉以外の〈時間〉など存在しない、と言う事が」
尚巳が上手く説明出来ない以上、そう告げる事しか出来ない。
それは理屈などではなく、言葉で説明出来るような事でもないからだ。
唯一〈経験する事だけ〉が、それの存在証明となりえる事象だ。
けれどそれは本当の事であり、母親の傷は癒されるどころか、最初から存在しない事となる。
「そうなのでしょうか」
「ええ。あなたは生きている時、霊が存在すると信じていましたか」
そう言うと、彼は数秒考えてから「あっ」と言うように表情を変えた。
「ね? 人が亡くなったら『お星様になる』と言うお伽話も、本当だったでしょ」
彼はゆっくり苦笑いを浮かべてから、頷いた。
「本当にそうですね」と呟いて。
そこから先は、簡単だった。
いくら〈記憶の中の〉〈歪められた尚巳〉とは言え、尚巳は尚巳。
そこには同一人物としての〈波長〉が存在するので、演技をさせる事は容易だったのだ。
それに、母親が担任ではない事も幸いだった。
特定の、目立つ思い出の中だけ書き換えればそれで済む。
数回の大袈裟な失敗と癇癪の演技により、尚巳に対する教諭達の印象と評価がガラリと変わる。
記憶の中の〈噂〉の中身も変化してしまい、母親の過去から〈手先の器用な園児〉の姿は拭い去られた。
「これで戻れば、現状は変化しているはずです。娘さんの披露宴は、幸せな終わりを迎えられますよ」
「ありがとうございます。感謝します」
父親は泣いて頭を下げた。
「いえ。別に感謝されたくてやってるわけじゃ」
披露宴をぶち壊した原因が自分だったのだ。何もしないと言うわけにもいかなかった。
「ピー輔も、ありがとうな」
そう言って撫でると、彼はコクコク、と頷いた。
――あぁ。本当によく出来たいい子だこと。
幸せな気分でピー輔の背中に揺られながら、母親の精神の中を戻ってゆく。
肩の荷が下りて一層、清々しい。