03
■03■
「分かりました。では、こちらへどうぞ」
星の光の中へと、手首まで入れ込む。
カードの〈向こう〉で、手を掴まれる感触があった。
しっかりと握り合ったところで肘を曲げ、こちらへと引っ張りだす。
星から男性の上半身が出て来た。
声を聞いた時にも感じたが、雛子の父親にしては若過ぎる印象の人だ。あの母親の旦那とは思えない。
どう見てもまだ三十代、と言った雰囲気だ。
――あぁ、彼女が中学の頃に亡くなったんだっけ。
彼はきっと現世に残した妻子を、遠い星の世界から見守り続けていたのだろう。
まだ身体つきはシッカリとしており、顔の雰囲気も雛子にどことなく似ている。
思い切り強く引っ張り出し、落下しそうになるその身体を抱き支えた。
ここには重力など無いのに、人の固定観念と言うものは、強固みたいだ。描かれている景色に、騙されそうになっている。
――まぁ、素人だろうからなぁ。
亡くなってからまだ日は浅い方だ。人の世界の時間とは意識出来るスケールが違う。
こちらで何年経とうが、彼にはまだまだ生きていた頃の常識が染み込んでいる様子。でなければこんなにハッキリ個人として、存在を示したりは出来ない。
「では、こちらを」
そう言って、後ろを向かせる。
尚巳は父親を抱くのとは反対の左手で、ひとつの星を指した。
「あなたが今出て来たのが、この星です。その右隣にあるこの星から〈向こう〉へと参りましょう。少しだけ白さの種類が違うでしょう? これは僕の放った〈鳥〉の色です。彼の元へ直接行きます。そこはもう、奥様の精神世界です。ですから、なるべく動揺などはなさらないでください。奥様の精神に影響を及ぼしてしまうかも知れませんので」
その人は一度息を飲んで「はい」と頷いた。
理性的な目をしているし、素直な人だ。あのヒステリーの旦那にはもったいような気がする。
けれど人の好みは千差万別だし、野暮な事を言うつもりもなかった。
穴の空いた壁を抜ける要領で、カードを通り抜ける。
身体がぽすん、と落ちた場所はピー輔の背中の上だ。クッション性は抜群で、落下の衝撃は少ない。
尚巳は、意識的に自分達のスケールを調整していた。ピー輔の背中はベッドほどの大きさになっており、ふたりで乗るには余裕である。
淡い羽毛に囲まれ、気分はファンタジーだ。まぁ浮かれている場合ではないのだが。
「ここが、あいつの」
父親は周囲を見回した。
彼の眉が微妙に歪んでいる。あまりいい印象ではないのだろう。
それもそのはず。
何と言う色彩をしているのだろう。
灰色に霞んではいるが、生肉のような色に取り囲まれているのが分かった。
――なかなかグロテスクだなぁ。
「どう言う……事、でしょうか」
「は?」
父親の言葉の意味が……分かるような、分からないような。
「こんなにも淀んでいるなんて、妻はどれほど苦しい思いをしたのでしょう」
――この人、さっきの俺達だって見てたはずだよな。
と言う事はナニか。
尚巳が疑われているのか。
嫁の精神をこんな色に染め上げた元凶だと、思われているのだろうか。
「さきほど、あなたに対して妻が失礼な態度を取ってしまったのは、私から謝ります。本当に申し訳ございませんでした。ですが、これは……」
腐臭の漂って来そうな景色に、戸惑っている様子。
「まだ来たばかりです。困惑は分かりますけど、あまり動揺はしないでください」
「そうでした、ね」
けれどまぁ、そう言いたくなる気持ちも分かる。ここの色は、不快でしかない。それも、こちらの気持ちを折りそうになる、威圧感のある重々しい色だった。
――何と言うか、それなりのレベルだな。どうなってんだ、雛子さんの母親って。
大人の女性として見た雛子は、至って普通の人だと思う。礼儀もモラルも備わっており、意識的に他人を不愉快にさせるような、意地の悪さも持ってはいない。
少なくとも、尚巳から見た〈客の雛子〉はそうであった。
だから凪原とも似合うのだ。彼は優しく常識があり、営業先でも可愛がられる。そんな人。
他人の悪口や愚痴を、聞かされた事はない。
彼が唯一、落ち込んでいるのを見たのは……実家で飼っていた犬が病気で死んだと言っていた時だけだった。
それ以外はいつも穏やかで、音楽に耳と心を傾け、心を遊ばせている。
子供のような微笑みをよく浮かべる人なのだ。
そんな彼に選ばれるような娘を育て上げた母親の精神が、こんな事ってありえるだろうか。
――でも実際、こんなだし……な。いや、それとも俺がここに来てしまったから豹変したのか?
豹変したとするなら、尚巳の存在に気づいた披露宴の時だろうけど。
「ピー輔、とりあえず奥に行ってみようか」
ピー輔はコクンと頷き、ばさり――と翼を広げた。
重苦しい空間に広がる、ピー輔の輝き。
――あぁ、なんて神々しさだ。綺麗だよ、可愛いよ、ピー輔。
こんな生ゴミみたいな色彩の中で見るから、なおさらだ。
穢れ知らずの初雪みたいな、初々しい白銀色。
能力のある職人が星を読み、月を読み、特別に作った紙。
そして自分が星を読み、月を読み、特別に作成したピー輔。
他の符も同じように山にこもり、日をかけ、丁寧に作るが、その中でもピー輔は特別である。
〈ピー輔〉と名付けたエネルギーの容れ物として、耐えられるだけの様々な工夫を施した傑作なのだ。
もう一度、同じ物を作ろうと思えば作れなくはないが、面倒である。
それだけ手をかけた子なのだ。
思わず自慢したくもなるのだが、ここは我慢。
今、このタイミングで「うちの子、綺麗でしょ」なんて言ったら、空気読めないどころではない。
自分はそこらのクソガキとは違うのだから。
下降しながら、母親の精神に潜ってゆく。
周囲に見えているのは、彼女の記憶のようだ。
チューニングの合っていないモニターのように、歪んで見難い景色の数々。
記憶は記憶であるのだろうけれど、これが実際に見てきた事実だとは限らない。
人は他人と〈同じもの〉を見たとしても、受け取った事実の解釈はそれぞれで、様々だ。
個別の感情を促し、記録する。
同じケーキを見たとしても
「甘そうだ」
「美味そうだ」
「太りそうだ」
「高そうだ」
と、別の意見を持つ事は多い。
この人の、これまでの人生。
一瞬一瞬を積み重ねて来た〈記憶〉は無数に有り、全てをチェックするわけにもいかない。
尚巳を見て、逆上してしまった記憶まで……。
――潜る事になるのかな、やっぱ。
「……っあ」と父親が反応した。
何だろうかと彼の視線を追うと、その先には〈こちら〉を心配している表情の雛子が見えた。
声は聞こえないものの、口が動いている。
「あれは、私が死んだ頃の」
――あぁ、なるほど。母親を慰めているわけか。しっかりした子だったんだな。
学校の制服を着ている、中学生の雛子だ。
まだ幼さが残っていて、可愛らしい。
「事故でね。何も残してやる事が出来なかった。妻はとても苦労したと思いますよ」
――まぁ、そうだろうな。
教諭としてのキャリアもあり、その分、子育てにはプライドだってあっただろう。
だから余計に、弱音を吐ける場面は限られていたと思う。
「あぁ、ほら。見てください。もう少ししたら、あの〈私〉が目を開けますよ」
へぇ? と思い見つめていると、確かに横たわるその人が目を開け、起き上がり、こちらに微笑みかけて来た。
それは妄想、あるいは夢。
どちらも同じ事だ。
彼女にとって再び動き出す彼は〈事実〉ではない。
ただ心の奥底から望み、欲する〈願い〉でしかない。
叶わない願いだ。絶対に。永遠に。
彼は〈生者の世界で生きる権利〉を失った。
こうやって家族を見守り続けて来たのだから、好きで権利を手放したわけではないだろう。
死は、抗えない出来事だったのだ。
「私は妻の空想の中で、何度も蘇ったようです。何度も、何度も、数え切れないほどに。虚しいですよね」
「そうですね」
「可哀想ですよね」
「ええ。お気の毒です」
男は小さく笑った。
「失礼。あなたのような方でも、使う言葉は同じなんですね。それが何だか少し、可笑しく思えて」
普通「お気の毒」だろう。他に何と言えばいいのか。
――ババァ、クッソザマァ! なんて言ったら怒るクセに。
「そんな健気な奥様が、僕に対して怒っていると聞いた事はありますか」
「え? あ、いやぁ……無い、ですね。だってあなたは幼稚園以来、妻とは会っていないのでしょう?」
「だと、思うんですけど」
繁華街ですれ違う程度だったら、こちらも覚えてはいない。けれどそれは、相手も同じはずだ。
「さっきの出来事は、私も驚きました。何だったんでしょうか」
それを聞きたいのは、こっちである。
――やっぱりこのまま、遡り続けるしか無いか。
ピー輔の後頭部に右腕を伸ばし、そこを軽くぽんぽん、と叩いた。
ピー輔はコクリと頷き、少しだけスピードを上げる。