02-2
――……は?
今、この母親は、何を考えた?
鳥を通しての不安定な受信だ。でもノイズが入るほどではない。
だけど。
「あの、牧谷さん。雛子さんの控え室を一度、覗いて来てもらえませんか」
「あ、ええ。そろそろ進展があったかも知れないわね。じゃあ私、見て来る」
彼女は立ち上がり、ラウンジから出て行った。
尚巳は星のカードを胸ポケットから取り出して、水瓶の先に輝く水面を見つめる。
使い慣れたカードからダイレクトに、情景が頭に伝わって来た。
――まさかとは思う、けれど。
聞き間違いであって欲しい。こんな展開、ムチャクチャではないか。
――手先が器用だった気に入らない園児が再び現れたからって、娘の幸せを台無しにする気か?
尚巳の事が許せないと言うのであれば、それでもいい。ここで自分が帰れば、この先会う事もほぼ無いだろう。
でも凪原への不信感や雛子への不穏な気持ちを、このまま放置しては帰れない。
――どうなってんだよ、あのババァの頭ん中は。
これがあの有名な〈更年期障害〉と呼ばれるヤツだろうか。だとしたら恐ろしすぎるではないか、更年期。
けれど多分、違う。そんなのではない。
『病院ほどではないだろうけど、違う種類のエグいモノが』
朝聞いた、楓の声が蘇る。
――あいつの指摘してたのは、コレだったのか?
結婚を中心として巻き起こる、様々な思いとその念。
だがまさか、新婦の母親が闇落ちするとは思わなかった。それも、尚巳をキッカケにして、だ。
カードの中から、小さなノックが聞こえた。多分、牧谷が到着したのだろう。
「あの……失礼します」と牧谷の声が小さく聞こえた。
「雛子……あんたを不幸にさせるわけにはいかない」
「おっお義母さんっ?」
カードから吹き上げて来る殺意が、映像の中で娘に向けられた。ソファの上に腕を伸ばし、無造作に置かれていた誰かのバッグを手に取る。そして、その紐を娘の首に掛けて行く。
「止めてください、お義母さんっ!」
凪原が母親の腕に手を掛けた。それが簡単に振りほどかれる。
凪原が遠慮していたと言うわけではないようだった。でも彼の身体は弾き飛ばされ、壁に激突する。
「こうなった以上、結婚なんてさせやしない。最初から反対していればよかった。もっと早くに気づけばよかった……もっと、もっと……ちゃんと見ていればよかったぁ!」
――俺への怒りがどうして娘に向かうんだ! ピー輔っ!
仕方がない、緊急措置だ。
――ババァの意識を一度、クローズしろ!
母親の精神に存在する特定の場所を鳥が刺激すると、震えるほどに荒ぶっていた感情が収まった。
だがそれは同時に、本人が意識を手放す事になる。
シンプルに言えば、眠らせるようなものだ。
その身体から力が抜け、ストン、と床に座り込んだ。
目も口もポカンと開けられ、うつむいている様子。
ピー輔から見える景色には、床が映っている。それが動かない。
五秒。十秒。動かない。
――よしよし。成功だな。
雛子が咳き込みながら、母親に「お母さん……?」と語りかけている。
だが母親は、反応しなかった。
「やだお母さん、お母さんっ!」
視界がカクカクと揺れる。
――ちょ……あんまり動かさないでっ。ババァ起きちゃうぅ!
いや。起きる事はないはずだが。
でも絶対に無いとは言い切れない。
何事も完全だとか、百パーセントとかは無いから。
そしてこの処置は、あまり長く続けられない。人の心をロックするのは本人に、やはりそれなりに負担がかかるはず。
この間にどうするか考え、どうしても答えを出さなければならなくなった。
でないとあの母親は今度気づいた時も、娘の生命を狙うだろう。
今と同じように精神をクローズする処理など、続けてやるわけにはいかない。リスクが高すぎる。
こんなババァがどうなろうと知った事ではないが、やはり雛子にとっては大切な母親だ。
あまり粗末に扱うのも気が引ける。
――だけど、どうする? どうすればいい?
「どうして? 尚巳くんの何がそんなに気に入らないの? 彼、いい子だよ……昨日、一日かけて、作品を作ってくれたの……。幸せになってねって、わたしと隼人さんのために祈ってくれたの。なのに、彼と知り合いである私達を許せないほど、私を殺したいほど、憎んでるの……? どうして? ねぇ、どうして……っ?」
苦しそうな息で、雛子が問いかける。だが母親の方は無反応だった。
ちゃんと抑え込めているみたいだ。さすがはピー輔。森の中で拾った時は、本当に「ぴーぴー」言うだけの雛鳥だったのに。
あの時の頼りない赤ちゃん精霊が、今ではこんな立派になって。
そう思うと感慨深い。涙腺もゆるむと言うものだ。
などと思い出に浸っている暇は無かった。
――俺も幼稚園の頃の事なんか、そう簡単に思い出せないぞ。
他のカードがあればそっちを窓口にして調べられたが、今日は生憎、このカードしか持って来てはいない。荷物はなるべく減らしたかったし。
まさか披露宴でこんな事になるなんて、思ってもみなかったから。
いや。
自分が持って来なかったと言う事は、必要なかったと言う事だ。
もちろん持って来ていれば、それはそれで便利に利用出来たとは思う。
でも持ってきていない以上、考えたって仕方のない事であった。
今、この状況はどうにかなるのだ。
だけど、どうすればいいかが分からない。
――楓の車の中……何か使える物、無いかな。
あるか無いか分からない物を探しに行く余裕は無い。あの母親から目を離すわけにはいかないし。
――どうすればいい? 誰か、何か答えてくれ。
尚巳はカードに向かって念じた。言葉にして口からは出さない。こんな場所でカードに話しかける男なんて、恥ずかし過ぎる。
「……ん?」
――あれ……このカード、ホログラム加工なんてされてないよな?
何年も使っている、ただの市販のタロットカードだ。
トレーディングカードじゃあるまいし、レアカードみたいにキラキラ加工なんかされているはずはない。
――……けど、光ったよ、な? 今。
それこそ夜空の星が、ひとつだけキラリと。
光った。
こちらに語りかけて来るかのように。
――反応が返って来た!
何だろう。誰だろう。どこからだろう。
カードの守護者か、精霊か、それとも他の意識体か。
カードは窓口。
事象の、あらゆる物を映し出してくれる。
と、そこへさっきのウェイトレスが通りかかった。
尚巳は慌てて立ち上がり、彼女に声をかける。
「あの、何度もすいませんっ」
「あ、はい?」と返事をして立ち止まり、振り向き、笑顔を浮かべる彼女。
「何か」
「僕、連れが戻って来るまでちょっと、眠ってしまうかも知れないですけど」
「は? はい」
「決して具合が悪くなったわけではないので、気にしないでください。絶対に」
「あ……ええ、はい。かしこまりました」
「ヘンな事言って申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「そんな恐縮されなくても大丈夫ですよ。分かりました。体調は大丈夫なんですね。よかったです」
奇妙な頼みにもかかわらず、彼女は爽やかに微笑み、承知してくれた。
さっきは七割増美人に見えたが、今は八割増美人に見える。
いい人でよかった。
接客業だから当然の対応だと思うが、そうでない人も結構居るので世の中は油断ならない。だが今、この人と縁があったのはラッキーだと思う。
尚巳はソファに身体を預け、息を整えた。
これで多分、干渉は防げるだろう。
あとはいつものように、カード自体に意識を飛ばすのだ。
目を閉じ、意識の中に見慣れたカードの図形を広げる。
今、手に持っている〈星〉のカードだ。
図形の景色の中に立ち、水辺から空を見上げる。
星は時折輝いて、存在を主張していた。
尚巳は気持ちを落ち着かせ、光からの情報を待つのだが、キラリキラリと反射するだけだった。これと言ってアクセスして来る様子がない。
どう言う事だろう。
尚巳は軽く地面を蹴った。
心がふわりと浮き上がり、煌めく星へと近づく。
右腕を伸ばすと、軽く星に触れた。
その瞬間、尚巳の意識に見えたのは、ひとりの男性だった。
白髪がチラホラ見える、優しげな目をした男性である。
年齢はオジサンになりたて、と言う感じ、だろうか。中年と言えば中年、なのだろう。少し若く見えるタイプなのかも知れない。
――俺、この人知ってる?
心が呟く。
直接知っているわけではない。でも、それなりに縁のある人だと分かる。
『あの人の所へ連れて行ってください』
その人は言った。
カードに存在を知らせる事は出来ても、自由に動けるわけではなさそうだ。
「あの人、と言うのは」
こんなタイミングで現れたのだ。
『妻と娘の所へ――』
――ああ、やっぱり。
この人は雛子の、亡くなった父親だ。
『今の妻は正気じゃない』
――でしょうね。
『雛子を助けなければ』