02-1
■02■
あのキラキラとした髪も、少し彫りが深くて整った顔立ちも、面影が残っている。
間違いない。
紺野尚巳だ。
丘の上幼稚園で、彼はあの頃から女の子達に取り囲まれ、楽しそうに過ごしていた。
他の子供より少しは冷静で、理性があって、空気の読める子だったと思う。
自分が直接あの子のクラスを受け持った事はないけれど、手のかからない子だと他の先生方には評判がよかった。
それに手先が器用で、文字を書いても絵を描いても、折り紙をしても、同じ年の子達より数段出来がいい。
幼稚園の教諭になって数年経っていた自分も、初めて巡り会うような子だった。
「はぁ~。リス組のあの子、手先が器用で私、落ち込んじゃいますよ」
研修に来ていた女子大生がある日の降園後に、ため息を漏らした。
彼女が何と言う名の大学生だったのか、記憶は朧げだ。
「何かあったの?」
「大学から出された、折り紙の課題があるじゃないですか」
「ああ、ひまわりね。あれは難しいわよね」
「元々私、すごく不器用で。憧れの幼稚園教諭になるのに、こんな壁が待ち構えているなんて思ってもいなかったですよ。ピアノが出来るくらいでいいかな、って思ってたから」
彼女は「あはは」と、力なく笑った。
「大学でもらったそのプリントを彼に見られちゃって……するとあの子、私の目の前で完成させたんです」
「……は?」
「初めて作ったらしくて、細部は結構歪だったんですけど……『こう言うのは、全体のバランスが取れてる方が綺麗に見えると思うよ』って、アドバイスまでくれました。写真、見ますか?」
「え、ええ」
彼女は携帯を取り出し、それを見せてくれた。
全体を写しているので、細部はよく分からない。
けれど、バランスが重要と言うのはこう言う事か、と分かるような作品であった。
パッと見の完成度が高いのである。
「私、あの子がちょっと怖いです。こちらの考えてる事を見透かしているかのような目をしてるし。まだ年少さんなんですよ、ね」
「そうね」
「他の折り方の話にもなって、ここをこう折るからこちらがこうなって、こうなるんだよって、あの子、解説してくれるんです。空間認識って言うんでしょうか? それが多分、すごいんだろうなって」
「空間認識なら、男の子の方が得意だものね。女性は地図が苦手だったりするし」
「はい、そう言う事もあると思います」
それから少し、彼女は沈黙した。
「IQテストに出て来るような問題ってあるじゃないですか。ああ言うの、あの子得意そう。あれって面白いですよね。私は凡人のど真ん中ですけど、『ここからはもう無理』って言う、ガッチリとした壁があって、絶対に乗り越えられない……これを理解出来る人ってどんな世界が見えてるんだろうって、すごく不思議なんですけど。あの子には、それに近い不思議さがある。それが怖い、と思います」
「そう……そんなにすごい子だったの。知らなかったわ。手先が器用で手間のかからない子と言う評価しか聞いた事がなかったから」
なんだか気持ち悪いわね、と言う言葉は飲み込んだ。自分達の立場で、それは言ってはいけない事だ。
「ああ言う子、結構多かったりするんですか?」
「え? さ、さぁ……わたしもこの園の子供達全員を完全に把握出来ているわけではないし、その子の事だって今、初めて知ったくらいだから」
「そうですか――私、ちょっと怖くなっちゃって。あぁ、でもこんな事言ってちゃダメですよね。折り紙苦手で落ち込んでるだけなんです。よし、頑張ろ!」
彼女は自分で気合を入れ直し、明るく笑った。
「あの、ね。わたしも不器用だったのよ。折り紙、そのうち慣れたの。苦手な事は数をこなすしか無いと思うわ。頑張って」
「はい、ありがとうございます!」
そう。自分もどちらかと言うと不器用だ。特に細かい作業は苦手である。
雛子も少し大きくなって来ると、母親である自分に対して指摘する事が多くなった。
けれど雛子からの指摘は、娘が育った証明だからとても嬉しかった。
もちろん娘は、あの子ほど器用でもなければ器量もよくはない。
あの子に比べたら、ハッキリと見劣りする。
それでも雛子は愛しい。可愛い。
自分の愛するたったひとりの娘だ。
雛子が中学へ入学するのを見届けてから、夫は亡くなった。
あの日から親娘ふたりで、一生懸命生きて来た。そしてやっと今日、雛子は幸せな結婚をし、好きな人の所に嫁ぐ。
なのに。
その祝いの披露宴に、どうしてあの子が来ているの。
どう言う事なの、どう言う!
もしかしてあの子は、悪魔なのかしら。
なんて不気味で、気持ちの悪い。
あのフルーツカービングとか言う作品も、まるで血にまみれた鳥と龍にしか思えない。
グロテスク以外の何物でもないわ。
どうして人はあれを綺麗だと言って褒めるの?
分からない。理解出来ないわ。
娘の幸せを邪魔しないでちょうだい。
あの女子大生のように、雛子の心に影を落とさないで!
――披露宴にあの子を呼ぶような男とは、結婚させない方がいいのかも知れない。あぁ、どうしようどうしましょう。わたしの雛子が、不幸になってしまう……あなた、助けて!
携帯の画面に目を落としていると、あの女性の心の呟きが、リアルに読み取れた。
「クッソババァ……」
「え? 尚巳くん、今何か言った? ごめんなさい、ちょっと聞き取れなくて」
視線を上げると、ティーラウンジのテーブルで、自分の斜め前に座っている牧谷がこちらを見ていた。
「へ? いやあの、ひとりごとです、気にしないで」と、さっき吐いた言葉をごまかす。
――ひまわりがどんな折り紙だかもう覚えてないけど、それ折ったくらいで悪魔呼ばわりかよ。それに俺だってIQは普通ゾーン内だし。ババァ、ちょっとメンタルおかしくしてるんじゃないだろうな。
大切な娘の結婚。これからはきっと、離れ離れの生活になる。
だがそれは、ほとんどの親娘が選ぶ生活スタイルだ。あの母親が特別に不幸なわけではない。
――娘へ依存……いや、それほどでもないと思うんだけど。
「お母様、少しは落ち着かれたかしら。雛子さんもお気の毒よね、折角の大切な日に」
それを言われると、罪悪感で胸が痛む。
凪原だって雛子だって、まさかこんな事になるとは思わず、尚巳を招待してくれたのだ。
――まぁ現状は分かった。とにかく俺は嫌われている、と。これをどう持ってくかだけど……どうしよっかなぁ。
自分が帰ればそれでいいだろうか。
――いや、もうダメだな。俺と知り合いであると言うだけで、凪原さんを信用出来なくなってるみたいだし。
「にいたん」
突然の舌足らずな声に、尚巳は左横を見た。まだヨチヨチ歩きくらいの子が、イスによじ登って来ようとしている。
「えっ、ちょっ、きみ、どこの子っ? お母さんはっ?」
思わず見回すけれど、子供を探してそうな大人が見当たらない。
――何なんだ。今日は何なんだっ。ガキ難の相でも出てたか? 朝、楓が気をつけろって言ってたのって、このヨダレまみれのガキの事じゃないだろうなぁ! おい、近づくな! スーツが汚れるっ。
「牧谷さん、この子の見覚えってある?」
思わず立ち上がり避ける。ふたり掛けシートだったので、子供がよじ登る余裕はあったのだ。
「ちょっと心当たりはない、かなぁ」
「だよね、俺もですよっ」
ガキなんて夏実くらいしか覚えていない。
と言うか子供なんて、視界に入れるほど興味のある対象ではないのだ。
「にいたん、にいたん」と腕が差し出される。それは抱っこしろと言う事か? 冗談じゃない!
近くに居たウェイトレスを捕まえ、親を探してもらうように頼んだ。
尚巳は子供から距離を取り、いつでもダッシュ出来る体勢のまま、ウェイトレスが戻って来るのを待った。
――まだか。まだか。まだかっ!
あの小さい手がこちらに差し出されて、差し出されて、差し出されて、差し出されて、根負けしそうになる。
――イヤだダメだ。こんな所で追い詰められて、俺、何やってんの……。
情けなくて泣きたくなった。
――こんなガキにも勝てないのに、誰が悪魔だババァ。クッソぉ。
「あの、お客様」
「はいっ」
気合を入れてウェイトレスを見つめる。
「申し訳ございません。このラウンジ内にはいらっしゃらないようです。多分、外から迷い込んだのだと思います」
――くっ! マジか!
「そ、そうですか」
「なので、こちらで保護させていただきますね」
――おお、天使だ!
一瞬前より七割増美人に見える。なんて自分は単純なのだろうか。でもそんな自分も嫌いじゃないわ、と心の中で呟いた。
子供がウェイトレスに抱かれて行く。彼女の制服はヨダレまみれになってしまうかも知れない。それは申し訳ないと思うけれど、どうせ私服ではないのだし、尚巳が気にする事ではない。
悪いのはあの子を放置している親だ。クリーニング代を請求するなら、そちらにどうぞ。
尚巳は「はぁーっ」と大きな息を吐きながら、イスに身体を預けた。くすくす、と小さな笑いが聞こえる。
そちらを見ると、牧谷が楽しそうに微笑んでいた。
「尚巳くん、子供は苦手だったのねぇ。夏実ちゃんにはちゃんと言い聞かせてたから、きちんと相手出来るんだと思ってた」
「いや、言っても結局通じないでしょ。そう言うのが苦手なんですよ」
違う生き物の理論を振りかざされても困るだけだ。他人が見れば、悪いのはどうせこっちだと思われるのだろうし。
「うん。それなのに夏実ちゃんの相手は頑張ったね。偉い偉い」
――褒められちゃった。
こうやって大人は思いやりを示してくれるし、空気を読んでくれるし、ありがたい。
一息ついて、お茶を飲んだ。
――冷えてる。
ティーポットに指先を付けると、まだぬくもりがある。
カップに入れたお茶が冷えて、ポットはこの程度の温度をキープしているほどの時間が経過した、と言う事か。
――向こう、どんな話し合いしてるんだろう。
雛子はちゃんと衣装チェンジしているのだうろか。
――プログラム全部こなせるのかな。
あの司会のお姉さんならやってしまうかも知れない。
――結婚披露宴のトラブルって、実は結構あったりするのかも。
尚巳は再び座り直して、視線を携帯の画面に向けた。
「さっきから、連絡でも待ってるの? ずっと画面見てるよね」
「はい。うちの同居人からちょっと……」
「ふぅん。仲いいよね、男の子同士」
「いやぁ、普通にムカつく事多いですけどね」
「でも一緒に暮らしてるのだから、素顔を見せられる相手じゃないとムリだと思うの。相手の素顔を知って、それでも暮らせてるんだから、相性はいいと言う事だよねぇ」
そんな深く考えた事はない、ような気がする。それに自宅の四人は、他の人間とは暮らせないだろう。例え実の家族とでさえ、今さらちょっと、厳しい。
だから尚巳も弥生もそれぞれ行き場を無くし、楓の自宅に転がり込んだ。彼があの家を譲り受けていたのも、大きな理由のひとつであった。
――あれがワンルームマンションだったら、絶対ムリだしなー。
その時、画面が歪に揺れた。
おっ? と思い、少し集中する。
そうよね。
雛子を悲しませてはいけないわ。
悲しませてしまうくらいなら、いっそ。
わたしの、この手で。