札束
四度目の襲撃から一夜明けて、朝だ。
羽村が部屋の隅で膝を抱えて眠っていた。
俺は今日をどう過ごすか少しだけ考えて、今日は仕事をしない事にした。
自由業の様な仕事だ。働く時間も儲けも全て俺の裁量で決まる。
しばらくはあの幽霊(仮)をどうにかする為に活動する事にした。
幸いある程度の蓄えはある。
俺は押し入れを開ける。
そこは鮫島と邂逅した時、鮫島が座っていた場所だ。
部屋の隅で眠る羽村と同じ姿勢、膝を抱えて座っていた。
端的に言えば、鮫島は俺の部屋に不法侵入をした。
あの日、押し入れを開けた俺は数秒間動けなかった。
服装は白いワンピースに赤いハイヒール。
髪型はしっとりとしたショートボブ。
薄暗い押し入れの中で発光しているのかと見間違う程過剰なまでに白い肌。
アーモンド形のくりくりした目は驚愕を露わにしていた。
驚愕したのは俺も同じだ。
俺の部屋に人が侵入する、と言う発想がその時の俺には無かった。
一方で幽霊と言われる存在は実在しない。確固たる証拠も根拠もある。
俺はたっぷり数秒掛けて、消去法によりそれが生きている人間だと断定した。
そう判断した俺に迷いは無い。
ポケットから折り畳みナイフを取り出し、刃を出す。
「待って!」
喉にナイフが刺さる寸前に、鮫島は叫んだ。
俺がナイフを止めたのはその言葉が原因では無い。
鮫島の右手が俺の目の前に伸びていた。
その手には福沢諭吉が二人。
「ちょっと頼まれてほしい事があるの。お金ならもっとあるわ」
そう言って左手を自らの顔の横に掲げる。
福沢諭吉の束があった。
「それは報酬か?」
俺が尋ねると鮫島は首を縦に振って肯定した。
「私を世間から隠して欲しい。手段は問わないから」
そうしたらこのお金を全てあげると、鮫島はそう言った。
その頃の俺は仕事が上手く行ってなかった。次の家賃を納める事が出来る確証も無かった。蓄えも無かった。なんと言うか、運に恵まれなかったのだ。
だからと言って、得体の知れない女の提案に乗る決心もまた無かった。
無言の俺を見て拒絶と取ったのか、鮫島は更に提案して来た。
「その為に私を殺しても構わないわ」
何とも言えない空気が俺と鮫島の間に漂った。
何を言っているのだこの女は、と俺は思っていた。きっと俺の視線は氷点下まで冷え切っていただろう。
だからと言って、今この場で鮫島繭を殺すのは俺の美学に反する。
衝動的にナイフを突きつけたものの、それは不法侵入した得体の知れない女を外敵と認識したが故の行動であって、札束を突きつけて意味不明な提案をする女を外敵と断定するのは何かが違う気がした。
今になって思うと、気の迷いであったとも言えるが。
「…準備がいるな」
何の準備だ。と俺自身が疑問を持っていた。俺自身の発言なのにだ。
そんな俺に畳みかける様に、鮫島は札束をシャツの胸ポケットに突っ込んで来た。
「前金よ」
そう言った鮫島は笑っていた。
それは風鈴が鳴るような涼しげな笑いだった。
その笑いを見て、俺は諦める事にした。
きっとこの女は人の話を聞かない。理屈は無かったがそう確信していた。
「鮫島繭」
諦観の溜息を肯定と受け取ったのだろうか、鮫島は脈絡の無い自己紹介をした。
その左手には二束目の札束があった。
それは羽村と出会う一週間前の出来事だった。
今鮫島は土の下に居て、羽村は部屋の隅で膝を抱えて眠っている。
押し入れの中には鮫島の残した札束が二つ。
俺はその札束を使う決心をした。




