脳内彼女ゆずは
西川という男は、仕事仲間の中でも少々奇人とされていた。
彼はいつも何もない空間に語りかけ、頷き、ときどき楽しげに笑う。映画のチケットを二枚買い、電車の隣の席を空け、コーヒーを二人分用意した。混雑した場所では、まるで透明人間を庇うような歩き方をした。音楽になど興味もないくせに、彼の部屋ではよくサカナクションの曲が流されている。
西川は彼女のことを柚葉と呼んだ。恋人ということだった。彼女が西川を何と呼んだかは分からない。恋人同士であるのだから、きっと下の名前であったに違いない。
傍から見れば、それは見事なパントマイムであった。しかしその「技術」は、彼と長い時間を共にすればするほど「勘違い」へと昇華されていく。私などは、彼の抱え込むその空気に温もりを感じ始め、まるでそこに一人の淑やかな女性が存在するかのような錯覚を持ち始めていた。
とある夜。私と西川は飲み会帰りに終電に乗った。下りの電車で、空席も少なくはなかった。彼は私との間に一人分のスペースを確保し、そこに柚葉を座らせた。怪訝そうな目を向ける者もいたが、他にも空席があるのにわざわざ私達の間に座ろうという者はいなかった。
「……奇怪で、滑稽なんだろうね」
彼が突如そんなことを言い出したことに、私はどきりとした。突然どうしたのだと聞くと、彼は失笑した。酒のせいもあるのだろうが、非常に楽しげな表情だった。
「そんなに驚くなよ。変なのは自分でも分かっているんだ」
口ではそう発しながら、彼の片腕は柚葉の後頭部の辺りを撫でているようだった。柚葉の輪郭が浮かび上がってきそうな動作。目に見えずとも、既に私は柚葉の存在を疑うことができなくなってしまっていた。いる。確かに柚葉はそこにいるのだった。
「……いたんだよ、昔は」
「柚葉がか?」
「そうとも。証拠を見に行くか? 丁度、もうすぐ最寄駅に着くぜ」
次の駅は、墓苑で有名な町だった。私は身震いした。血の気が引いて、顔面が白くなるのを感じた。西川は相変わらず、いや、さっきよりも大声を上げて笑っていた。
「はっきり聞くが、それはつまり死んだということなんだな」
「そうだな。戸籍上は確実に死んだ。墓にちゃんと骨もあるぜ」
「認めるのか」
「そりゃあね。でも柚葉は……少なくとも、僕の心の中ではまだ生きているんだ」
信じ切っている顔だった。遺族が慰めの為に唱えるそれとは、明らかに意味合いが違う。
「遠藤。この際、お前には話しておくよ」
以下は、西川が私に語った言葉を、私が彼の口調を真似てアウトプットしたものだ。
結局話の内容は「相思相愛の恋人達の悲恋」という、頭の悪い女子高生ホイホイの素材にでもなりそうなものに他ならない。
しかし、私はそこに「常識」が知らない何かが潜んでいるような、そんな気がしてならなかった。
◇
柚葉と僕は、高校一年生のとき、クラスメイトとして出会った。
彼女は、不思議な文系少女という雰囲気を発する子だった。セミロングの髪に、不健康なくらい白い肌。少し垂れた目は常に眠そうだったけど、その割に友達と話すときは妙に明るかった。普通とも言い切れず、特別とも言い難い。良い感じで個性を発していたんだ、彼女。
だけど、柚葉の一番の特徴は見た目や雰囲気よりも、その変わった行動だった。何しろ彼女は、休み時間は常に原稿用紙に日記を書いていたんだから。
話しかけられたら、明るく笑いながらも日記を書く。話しかけられなければただ無我夢中で書く。そんな状態だから周りの女子も、例えばトイレや何かに誘うことは控えていて、彼女の邪魔をするのはよほど空気が読めない白痴に近いクラスメイトくらいだった。
また、彼女はその日記を公開もしていた。といっても、書き終えた数冊を無造作に机の隅に置いていて、読みたいなら読めば? とでもいうような手段でだけどね。最初は誰しもが興味本位でそれを開いていたが、彼女の文章力は確かなもので、読んだ僕達はすぐにそのファンになった。別の学年から読みにくる生徒もいたくらいだから、人を惹き付ける力は確かだった。日記も、彼女自身も。
そういう意味で面白い子だから、男女問わず人気は高かった。僕もその一人で、その他大勢の中の一人として彼女と、彼女の日記を眺めていた。
日記の量は結構なペースで増えていった。常に書いているだけあって、その日記は一日分の量がとても多かった。多いときで十頁超。出来事だけでなく、それについての感想、見解、反省、連想される願い……。そこに書かれているのはその日の出来事というより、その日の彼女本人といっても過言ではなかった。
ある日。無造作に置かれた前日の日記を読むと、そこに変わったことが書いてあった。
「……ヘンペルのカラスじゃないか。山本さん、面白いこと取り上げるんだな」
偶然知っていた雑学。それを利用して、僕はついに柚葉に話しかけた。暑さも過ぎ去った十月中旬。涼しさの中、自分の席で日記を書き綴る彼女の姿は、妙にしおらしくて絵になった。
「あなたも、面白いことに食い付くのね」
「偶然知っていただけさ。対偶論法の疑問点を表すエピソードだったよね」
「あははは、そう、それそれ。皆は知らないんだろうなーって優越感に浸ってたんだけど、そっか、西川くんも知ってたのね」
上目遣いで僕を見ながら、澄ました笑みを浮かべる彼女。……他の男には見せない顔だった。
ヘンペルのカラス。あることを証明する際に生まれるおかしな点を指摘した言葉だ。“全てのカラスは黒い”ということを証明する為には、その対偶である“全ての黒くないものはカラスではない”ということを証明すれば良い。けど一羽もカラスを調べないことや、全てのカラスでないものがあまりにも多過ぎることから、普通の感覚では違和感を持ってしまう。
日記の中の柚葉は、このことについてしばらく考えた後、唐突に日本語を喋る猫がこの町にいたという不思議な体験談を語り出していた。
「……喋る猫?」
現実離れした内容に、彼女がいよいよウケ狙いで日記を書き始めたのかと心配になった。
「ふふ、白いカラスだって実在するんだよ? “全ての猫は喋らない”の対偶、“全ての喋るものは猫ではない”が私の中で反証されたの」
柚葉は本気とも冗談ともつかない顔で笑っていた。
「とても信じられないけどなぁ」
「皆そう言うの。でも本当だよ。日記にも書いたけど、私に気付いた瞬間わざとらしいくらいニャーって鳴いて、走って行っちゃったの」
「ふーん……確かに怪しいな」
「共感してくれたの、あなたが初めてだよ」
何故かその一言で、僕は彼女との運命を感じた。
だから、こんなことを口走った。
「……今度、二人で探しに行かないか?」
「喋る猫を?」
きょとんとする彼女を見て、僕はしまったと思った。が、その顔に軽蔑や拒否の色は見えず、むしろ面白がっているような、明るい空気をまとっている風に見えて、僕はこのまま押しとおすことを決めた。
「うん。ひょっとしたらそいつ一匹じゃないかもしれない。至る所に喋る猫が潜んでいるかもしれないし」
「じゃあ、ついでにデートしようよ」
「え」
「デート。ふふ、別にただ散歩しながら喋るだけでも良い。周りに話を聞かれないところで、君と話をしてみたいだけだから」
思わぬ返事に、僕はうろたえた。当日までうろたえていた。いや、当日もうろたえていた。本当に散歩しながら喋って終わりだったのは正直予想外だったけどね。
数回ほどそんなことを繰り返すうちに、僕と柚葉は交際を始めた。
お互い大した恋愛経験をしたことがなかったからか、僕らの関係は周囲に比べて長い期間続いていた。
一年、二年……高校を卒業してからも、その仲が裂けることはなかった。気が早い気もするけど、自他共に結婚を意識するようになって……幸せな時間だった。
ただ一つ気がかりだったのは、高校を卒業してから、彼女が日記を人に公開しなくなったことだ。他に変わったことは何もなかったから余計かもしれないけど、それは僕ら二人にとって、かなり大きな変化だったように思う。
「……ねえ柚葉。日記、どうして、急に誰にも見せなくなったんだ?」
「別に今までも喜んで見せていた訳ではないけどね。まあ、何となくよ」
成人してから、僕らは二人暮らしを始めた。1ルームの狭いアパートで、ある意味常に一緒にいられて、ある意味逃げ場がない。そういう生活。部屋の角には柚葉専用の机があって、彼女は家にいる間も、多くの時間を日記に費やしていた。
「たっだいまー!」
ある日。彼女はやけに上機嫌で帰ってきた。浮かれているけど、酔っているはずはない。彼女は酒を飲めないし、午後六時に酒を飲めるほど優雅な生活をしてはいなかった。
「……やけに元気だね」
「ふふ、本屋でね、色々買ってきたの。『或阿呆の一生』、『人間失格』、それからバッハのCDと新しい原稿用紙」
レベルが高いというより、そういうものに飛びつくのが逆に子供っぽいようにも思えたけど、
「エセ文学少女としての必需品よ」
などと言ってしまえる辺り、そういう自覚はあるらしかった。
「……もう少女じゃないだろ。文学淑女?」
柚葉が買ったものをほったらかしにして机に向かってしまったから、僕はその必需品を勝手に漁ってみた。CDはバッハではなくサカナクションだった。僕は苦笑した。苦笑は次第に大笑いになり、何故か止まらなくなった。
「まあ、私の場合はどちらにしろエセだから」
柚葉はイタズラっぽい表情を作った。僕の笑いはまだ止まらなかったんだな。下手な筋トレより腹筋が鍛えられていたと思う。
「ははは、はぁ、はぁ……ところで今日の晩御飯、そっちの番だけどー」
「あ、うん、書きたいこと書いたらやるから、ごめん」
「じゃあ、当番の順番変えようか。今日は僕がやるから、明日は柚葉に任せるよ」
「え、あ、ごめん、ありがと」
彼女はセミロングの髪をくしゃくしゃに掻き、軽快にペンを躍らせた。
舞うような指先。活きる為に糸を紡ぐ蜘蛛と何ら変わらない。彼女にとって、それは生きることも同様だった。
もしかしたら彼女は、既に僕らと同じ世界に住んではいなかったのかもしれない。他のどんな時間にも見せない輝く眼差しを見て、僕はそんなことを思ってしまった。
「これが、私の生きた証なんだよ。毎日の私を閉じ込めた、私の脳髄の化身」
柚葉は、いつになく饒舌に語り始めた。
「――この世界に、私の一頁を刻み込むんだ……!」
「――――――……、――」
一ヶ月後、柚葉は亡くなった。
踏切での事故ということに……一応、なっている。それ以上詳しい状況はあまり話したくないけど、とにかく彼女は死んだ。
彼女の死後、僕は見せてもらえなかった最近の日記を見た。そこに書かれていたのは柚葉そのものと言っても過言ではなかった。僕に見せる姿以外の彼女もそこにあった。善も悪も混じった、柚葉という主張。
柚葉は死んだ。それなのに、そこには柚葉の感情が生々しく、強烈に、鮮やかに閉じ込められていた。柚葉の脳髄の化身。彼女の言っていたことが、そのときようやく理解できた。
泣きながらその日記を読んで……読み終えたとき、声を掛けられた。
「――やり直せるかな、私達」
本当は分かっていた。そこには誰もいなかったこと。
でも僕の目には確かに、柚葉が見えたんだ。
◇
西川はそのまま曖昧に話を終わらせた後、スマートホンのディスプレイに白いカラスを表示させ、私に見せた。
「……ああ、メンヘラのカラス?」
「ヘンペルのカラス。この白い奴は、正直あの言葉とはあまり関係ないんだけどね」
私に苦笑すると、西川はその画面を眺め、
「黒いカラスしかいないって思ってたんだよ、皆」
冷めた笑みを浮かべた。
「だけど、世の中に白いカラスは存在した」
嘲笑。それは、彼自身に向いているように思えた。
「姿形がないと、人間じゃないのかな」
次第にその目が潤み始めた。
「体がなくても、命がなくても……柚葉は日記にいた。千日以上分の彼女が日記の中にいた。だから僕は、脳内で、彼女を再生して……」
「……もういい。分かったから」
「遠藤。僕が見ているのは人間か? 幽霊か? いや、どっちでもいい。幻覚以外なら何でも……。本当はいないのは分かってるけど、でも、ここにいるんだ。人間以外のものを、人間以外のものを全て調べて、本当に……本当にその中に人間はいないのかなぁ!」
泣き崩れてしまいそうな西川に何と声を掛けていいか分からず、私はしばらく茫然と彼を見ていた。
今や私の目にさえ、うっすらと浮かび上がっているセミロングの髪をした女性は何だろうか。……死者には思えなかった。日記を読んでいない私には、彼女の思いまでは分かりかねるが。
“黒くなければカラスではない”という命題は、観察によって覆された。正しいと思われていたことも、長期にわたる観察、経験によって引っくり返る可能性があることを表す事柄にも思える。
姿なき人間は、この世に存在しないのだろうか。
やはり、常識が知らない何かが潜んでいるような気がしてならなかった。